• 異世界ファンタジー

「神話は誰に語られるべきか?」 ――序章改稿の裏側と“読者没入感”への構造的アプローチ


みなさんこんばんは。
『スィーフィード・レクイエム Vol.1』の序章について、今回はちょっと踏み込んだノートを残してみます。

単なるリライトというより、もはや全く別作品のような大々的な改変がされています。
「どうすれば読者が神話の中に深く入り込めるのか?」
という問いから出発した、大きな構成改変です。


まずは書かれてる場所から

原盤 序章
https://kakuyomu.jp/works/16818622176541007964/episodes/16818622177166479782

新装版 序章
https://kakuyomu.jp/works/16818622177630843488/episodes/16818622177646921502



これは小説読者としての体感だけでなく、
「語られる神話の温度を、語り口から調整することで没入感はどう変わるのか?」
という創作的テーマの実験でもあります。


// 原盤の構成

原盤では、スィーフィードとアークリークによる“創造と虚無”の対立を三人称の神話調で描写していました。
語彙は荘厳で世界設定は明快。重厚な叙事詩としての立ち上がりが狙いです。

けれど、俯瞰で語られる神話があまりに大きく、“今語られる物語”との接点が薄まってしまう感覚もありました。
スケールが大きすぎて、「この話は、スィーフィード・レクイエムとしての始まりとしては正しいのだろうか?」という問いが少し浮き上がってしまったんです。


// 改稿の理由:「読者として本当に入りやすい構造とは?」

この作品を最初に読むのは誰か?
彼らが最初に接する“語り”はどんな温度であるべきか?
それを思案し続けた結果、こう考えるようになりました。

> 物語世界のスケールが大きいなら、語りは“身近な誰か”から始めたほうがいいんじゃないか。

特にライトノベル読者層のように、
「キャラクターの声から物語に入っていきたい」
「自分もその場にいるような読書体験をしたい」
という嗜好を持つ層にとっては、
いきなり“神目線”ではなく、“聞き手のいる語りのほうがより没入しやすいのではないかと感じたんです。


// 新装版の構成:焚き火の前で語られる神話

そこで新装版では、
“暖炉の前で母が少年少女に語り聞かせる”という形に再構成しました。

子どもたちの素朴な問いを通して世界観を説明し、
神話がただの背景ではなく、**物語と血の通った「つながり」になる**構造に。

物語の終盤で、それを聞いていた少年自身が
“伝承の継承者である”と明かされる演出にすることで、
読者が「これは誰かの神話じゃない、自分たちと地続きの物語だ」と感じられるよう意識しました。


// 構造的ちがい(文章での比較)

- 原盤は:俯瞰視点で神々の戦いをそのまま叙述
- 新装版は:身近な家族の語りによって神話が伝承として語られ、物語の“始まり”として再発見される
- 読者は:目撃者ではなく、物語の“語られる場にいるひとり”になる


// そして今、語り直しをどう見るか

改めて思うのは、
> 神話とは、誰がどこで語っているかによって、その意味も深さも変わる」
ということ。

同じ内容を語っていても、“語り手の選び方”によって読者の入り方は大きく変わります。
構成を変えるというのは、ただ文章を置き換えるのではなく、
『物語がどの入口から読者へと届いていくのかを設計し直すこと』だと、今回実感しました。


このノートが、もしどこかの創作作業中の方にとって
「語りの立ち位置」や「読者導線の作り方」を見直すヒントになれば、何より幸いです。

そして、『スィーフィード・レクイエム』の序章を読んでくださった方にも、
この構成が物語との距離を変えるような体験になっていたら、とても嬉しいです。

それではまた。

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