『星屑図書館』を書き始めた時、私の中にあったのは、ひとつの願いだった。
戦いや暴力に頼らず、それでも弱くない物語を書いてみたい。
大きな敵を倒すことや、力によって危機を退けることではなく、誰かの声を受け取り、読み、聴き、何を返すかを選ぶこと。その選択によって世界の見え方が変わっていく、奥行きのある文芸小説を、SFファンタジーという形の中に立ち上げることはできないだろうか。それが、この物語の出発点だった。
けれど初稿を書き終え、第二稿へ入った頃から、物語のほうが私に問いを返すようになった。
言葉とは何だろう。
記憶を収める図書館について書いている以上、文字や声について考えることは避けられない。書き進めるうちに、キリスト教における創世の声や、「はじめに言葉があった」という古い観念と、知らないうちに響き合っているのではないかと思うようになった。仏教が長い時間をかけて考えてきた、言葉と沈黙、名づけることと分別することの問題にも、どこかで触れてしまうかもしれない。
特定の宗教や教義について語ろうとしたわけではない。言葉について深く考えようとする時、人は遠い昔から繰り返されてきた問いのそばへ、いつの間にか立ってしまうのだと思う。教義を作品の装飾として借りるのではなく、言葉をめぐって受け継がれてきた思索への敬意として、その響きを受け止めたい。今はそう考えている。
第二稿の半ばを過ぎる頃、言葉はさらに広いものになった。言葉は、声や文字だけではない。手話はもちろん、歌詞のない音楽も、衣服も、絵画も、料理も、立つ位置も、差し出されなかった手も、誰かに何かを伝える。
けれど、それらを単に「メッセージ」と呼んでしまうと、何かがこぼれ落ちる。明確な意味を伝えるために生まれたのではない言葉もある。誰にも届けるつもりのなかった声が、偶然、誰かの生を支えることもある。返事と返事のあいだに置かれた間や、何も発しない時間も、受け取る人にとっては言葉になりうる。静寂にも、騒音にも、混沌にも、それぞれに伝わるものがある。
この小説には、何度か「言葉になる前のもの」が現れる。それは衝動なのか。まだ名づけられていない感情なのか。それとも、言葉よりも古い、身体の判断なのか。
私たちは、いつも文章の形でものを考えているわけではない。言葉にしないまま危険を察し、誰かを懐かしく思い、筋道を見つけ、時には大切なことを決める。けれど、「これは私で、あれは他者である」「これは過去で、こちらは未来である」と世界を分けた瞬間、そこにはすでに、言葉の始まりがあるのかもしれない。
人は、分けることで世界を知る。時間を測り、自分と他者を知り、科学を築き、記憶を並べ、感情に名を与える。同時に、分けることは境界を生み、その境界から排除や争いが始まることもある。私たちは、分けることで世界を理解し、分けることで世界を傷つける。
第三稿、第四稿と進む頃には、問いは記憶や自我へ向かっていった。記憶とは何なのか。記憶が失われた時、その人自身も失われるのか。自分について語れなくなった人の中に、それでも残り続けるものはないのか。
アルツハイマー病のような現実の苦しみを、小説が安易に解き明かせるとは思わない。けれど、記憶が薄れていくことと、人の存在そのものが消えることは同じなのだろうか、という問いを抱き続けることはできる。名前を呼んだ声。長く繰り返してきた手の動き。誰かと過ごした時に生まれ、相手の中に残ったもの。人は、自分の記憶の中だけに存在しているのではないのかもしれない。
もし人間とはまったく異なる知的生命が存在するなら、その存在は、私たちと同じようには時間を感じず、自我を区切らず、戦争という発想さえ持たない可能性がある。しかし、争いを持たないことが、苦しみを持たないことと同じだとは限らない。私たちには争いと認識できない何かを、その存在は戦いとして生きているかもしれない。始まりと終わりを持たない存在に、「どこから来て、どこへ向かうのか」と尋ねても、その問い自体が意味を結ばないかもしれない。
小説を書き始めた時には、そこまで考えていなかった。物語を作っているつもりでいたのに、いつの間にか、物語から問いを渡されていた。
『星屑図書館』の初稿は、完成した文章を一行ずつ磨くためのものではなかった。あらかじめ抱いていた構想と物語の流れを、最初の熱が薄れないうちに一章ずつ文字へ移し、最後まで通る骨組みを作るための稿だった。
目安は、およそ五万字。時間を置きすぎると、最初に見えていた像や感情、作品全体を包んでいた気配が、少しずつ別のものへ変わってしまうことがある。そのため初稿では、一文ごとの仕上げに立ち止まりすぎず、できる限り短い時間で物語の終わりまで書き通す。その後、全体を読み返しながら、人物の声、因果、場面の配置、言葉の呼吸を整えていく。
数行や一つの場面を書き換えただけで、次の稿へ進んだとは数えていない。最初から最後までを見渡し、十数箇所にわたって手を入れ、作品全体の呼吸を確かめ直した時、私の中では一つの稿が進む。その数え方では、現在の原稿は十三稿目にあたる。
十二稿目を終えた時にも、これで完成したと思っていた。それでも時間を置いて読み返すと、以前には聞こえなかった言葉の重なりや、整えるべき沈黙が見えてくる。直せる場所が見つかったからといって、直せば必ずよくなるわけではない。変えることで深まるのか。それとも、すでにあった静けさを損なうのか。その境目を確かめながら、改稿を重ねてきた。
推敲とは、文章を磨けば磨くほど、必ず美しくなる作業ではない。美しい一文を加えることより、その一文を置かないほうがよい場合もある。意味を深めようとして言葉を重ねた結果、人物の声が作者の思想に覆われてしまうこともある。反対に、説明を恐れて削りすぎれば、人物が何を選び、なぜその選択に至ったのかという、物語の骨まで失われてしまう。
だから、一つの文を直すたびに、その文だけではなく、前後の沈黙を読む。誰がそこに立っているのか。何を知っているのか。何を言わなかったのか。手はどこにあり、光はどこから差し、相手はその言葉をどのように受け取ったのか。そうしたものを、何度も確かめている。
書き終えた直後には、自分の呼吸と作品の呼吸を、うまく聞き分けられない。少なくとも一週間ほど頁から離れなければ、作品が本当に必要としている言葉は見えてこないのではないか。最近は、そう思うようになった。
これからも、あと何度か推敲を重ねるかもしれない。完成とは、もう一文字も変えられない状態ではなく、変えられる言葉が残っていても、ここでは変えないと選べる状態なのだと思う。
『星屑図書館』を、答えを収めるためだけの場所にはしたくない。分からないものを、分からないまま大切に預かる場所。他者の声を、自分の理解だけで閉じない場所。まだ言葉にならないものにも、これから語る人の言葉にも、頁の上の余白を残しておける場所。
この小説が、そのような場所になればよいと思っている。
いくつもの改稿を経た今も、私はまだ、その余白の前にいる。