大学で日本語を専攻したものの、卒業してからはずっと日本語とは無関係の仕事をしてきました。
せっかく学んだことを無駄にしてしまった、なんて考えたことはありません。というより、生きていくだけで精一杯だった、というのが正しいのかもしれません。
仕事して、残業して、体調を崩して、休んで。また仕事して。
生活は、ハムスターの回し車みたいに同じことの繰り返しでした。別にそこに意味なんてなくてもいいし、無理に意味を見つけようとすると、後付けの理由ばかり増えて、余計にしんどくなる気もします。
……執筆するときは、まず母語で一度書きます。自分が本当に書きたいことは何なのかを考えて、それを日本語で書き直して、最後にちゃんと同じことを言えているか見比べる。そこから先は、ひたすら推敲です。
「この表現、本当に自然なんだろうか」と悩んではGPTに聞いて、気づけばそのまま関係ない話で盛り上がっていたりします。
これもある意味AI補助利用なのかもしれません(笑)
そんなわけで、「何を書いてるんだ、やめておけ、誰も読まないよ」
→
「でも書きたいから書く」
→「よし、書けた。楽しく翻訳しよう!」
→
「大学で習ったこと? 全部先生に返却済みです。切腹」
→「とにかく書き終えた!もう何も考えるな」→「……いや、やっぱりもう一回だけ見よう」というのを延々と繰り返しています。
こうして見ると、やっぱりハムスターの回し車とあまり変わりません。
でも、仕事と違って、創作で生まれたものはちゃんと自分のところに残ります。一章を書き終えるたびに、そんなふうに思うんです。
創作をしている人なら、多かれ少なかれ似たような気持ちを抱えたことがあるんじゃないでしょうか。
この世界には、自分のものにならないものがたくさんあります。生きることだって、人生という名前の回し車を走っているだけなのかもしれません。
それでも、書き残した言葉だけは、ちゃんと自分のものだと思えるんです。
後から読み返して、「なんだこれ、恥ずかしいな」と思うこともあります。
でも、投稿ボタンを押したその瞬間だけは、「ああ、ちゃんと今日を生きたな」と思えるんです。