今回の特集は、「高校生応援!『カクヨム甲子園2022』レビュー投稿キャンペーン」期間中にカクヨム読者の皆さまにご投稿いただいた素敵なレビューをご紹介します。
「作品の感想を聞ける」というのは作者にとって何にもかえがたい貴重な経験。「カクヨム甲子園2022」に参加する高校生の皆さまにも、ぜひその体験をしていただき、作者や読者と交流する楽しさを知ってほしい!ということで本キャンペーンを行いました。ご参加いただいた皆さま、ありがとうございました。
「カクヨム甲子園2022」もそろそろラストスパートの時期。高校生作家の皆さん、読者の皆さまの応援を力にかえて最後まで駆け抜けましょう!
物語は、高校三年生の京谷みやこが医大の不合格通知を見るところから始まり、そんな現実から逃げるように街を回っていると、不思議な喫茶店を見つけます。
不合格という地に落ちる感覚。親からの期待に答えられず、何か言われるかもしれないという恐怖感。自分の将来への不安。早くここから逃げ出したい。きっと誰しも一度は味わったことのある感情だと思います。
短い文章の中にこれらが繊細に描かれ、主人公・みやこにスッと感情移入できる作品。
前を向けと言われることは数多くありますが、前を向くことが全てではないです。この作品は、一度立ち止まって振り返り、自分と向き合うことの大切さや対話をすることの大切さを教えてくれます。
初心忘れるべからず。迷ったら原点に帰ってみるのが必要かもしれません。読了後きっと晴れやかな気持ちになります。心温まる素敵な物語をあなたもぜひ。
文章全体に荒削りな箇所はあるものの、二人の登場人物によって、独白形式で語られる一人称の視点は、実際に体験したかのような迫真に迫る心理が描かれていて、非常に驚かされました。
さらに、タグから推察されるように、まだ十代と思しき年齢で、ここまでの心理描写ができることに、さらに驚きを禁じえませんでした。
今となっては古い作品になってしまいますが、映画『乙女の祈り』や『ヴァージン・スーサイズ』にも通底する十代の葛藤や現実に対する無情感が見事に描かれています。
遥と和の二人は、どんなミライを夢みたのかーーーーーー。
一見すれば悲しいけれども、希望があるように思える、不思議な余韻の残るラストシーンに胸を打たれるストーリーです。
SFとして非常に完成度の高い作品だ。細部に至るまで丁寧に作り込まれた世界観は実に説得力があり、文章力も高く、これを本当に高校生が書いたの!? 近頃の高校生すげぇな! と驚愕してしまった。……そもそもカクヨム甲子園のエントリー作品と知らずに先入観なしで読み始めた作品だったので、作者は私と同年代だろうな(30代)と勝手に想像していた。それほどまでに作者の精神的な成熟が伺える内容だった。
■■以下、ネタバレあり■■
西暦2200年代半ばの第四次世界大戦により人類のサイボーグ化が急激に進み、人類の必要とする食料の量が激減。それに伴う従来の農業や畜産業の衰退。1週間に1度の摂取でそれ以外は飲まず食わずでも活動できる完全栄養サプリメントの普及により、食事が必須ではなく娯楽となった西暦2300年代。
物語の前提となる舞台背景が冒頭の数話で無理なく説明されているのも、読者と足並みを揃えようという作者の気遣いが感じられて好感度は高い。
この物語の主人公は理不尽な理由で仕事を解雇された若くて優秀な研究者。そんな彼は、過疎化が著しい田舎の町に食肉用のキメラ開発の為にスカウトされる。
人々が飲食を仮想現実内で楽しむのが当たり前になっているこの時代において、あえてリアルの食事とおもてなしに価値を見いだし、主人公と仲間たちが本物の食事の魅力を前面に押し出しての町起こしに奮闘するというのが物語の屋台骨となる。
このレビューをしたためている時点ではまだ最初の量産キメラ『コケモモ』が登場したばかりだが、リアルが調理師である私にとって大変魅力的な食材だと唸らされた。
これからどのような食材キメラが登場し、どのように料理されていくのか。今後の展開がすごく楽しみだ。
この異色のサイバーパンクグルメ小説は、完結すればある意味パイオニア的な存在になるかもしれないと読者の期待を抱かせるだけの潜在力のある作品だ。是非ともエタらず完結まで書き切ってほしいと思う。
『他人への賞賛を示す、拍手の音が不気味だった。』
冒頭のこの一文が私には刺さりました。
今の私は誰かが賞を取った時、拍手に疑問を感じません。自分が同じ賞に応募していたとしても、何の抵抗もなく手を叩くでしょう。
その自分の鈍麻をいきなり自覚させてくれる若々しい感覚に非常に惹き付けられました。美しさにも醜さにも敏感で繊細な、大人にとって青春として煌めいて見えるものが作中にあります。
この鋭敏さの一方、作中の「私」は非常に冷静に自分の創作を分析して行きます。感覚に呑まれそうで、吞まれない……吞まれることが出来ずに藻掻く「私」の姿。
それすらも青春として眩しいのは、すっきりとした言葉で描写される透明感も大きいと感じました。
陸上部の高校3年生、長距離走者の燕。彼女にとって最後となった大会の物語です。
陸上部に入るような人は皆、走ることが好きなのかといえば、全くそんなことはありません。
疲れるから嫌だ。苦しいから嫌だ。走るのが怖い、走りたくない。
そんな風に思いながら部活を続けてきた陸上部員だって、たくさんいます。現に、私もその一人です。
それでも走ることをやめられなかった。走るのは嫌いだけれど、好きだった。どうしてだと思いますか?
その理由がこの小説に描かれています。
スポーツの世界で注目されるのはトップ層ばかり。誰もが表舞台に立てるわけではなく、人知れず競技人生に幕を引く選手は数え切れないほどいます。
そこで生まれるのは、頂点を巡る熾烈な争い、ぎらつく栄光の物語ばかりではありません。羽ばたけなかった鳥のような、あるいは儚く散った花のような、しかし確かな輝きを秘めた物語が、本当はそこら中に溢れています。
ほら、ここにも。
夏を待たずして引退することとなった私にとって、非常に共感できる点が多くありました。これが「リアル」なのです。
ある意味平凡な一選手の、紛れもない青春を切り取った素敵な小説でした。
主人公は、登山中、滑落してしまい、生死の境をさまよう。そんなとき、「女」の声がして――。
もはやこの地球に秘境などない。いまや、この地球のほぼすべての場所は、地図の上にその名を刻まれている。光が、科学技術の進歩や文明の発達という強烈な光が、今や我々の住む世界を包み込んでいる。闇は失せた。そんな時代だ。
だからこそ、この小説の内包する「得体のしれないぞっとする感覚」を現代人のみなさんに味わっていただきたい。
この物語を読み終えて、ぞっとする感覚にふるえたぼくの脳裏にあることばが浮かんできた。
なぜだろうか、ニーチェの「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」という有名なことばだ。
そう、この話は山に魅了された男だけの話ではないのだ。山――人々を魅了し、理解したと思えても、人の手が及んで整備されたかに思えても、まだ我々の知らないダイナミズムがうごめく世界の話でもある。
気が付いたら見つめられていたのは、どっちなのだろう。人は自分が見ているとき、見られていることに気が付かない――そして――。
ところで、ぼくは、登山もしないし、平地生まれ平地育ちのため、山の不気味さを直に感じたことは皆無という人間だ。しかし、そう、あれは今は遠き学生時代の林間学校のときであった。とある山中のハイキング・コースにひっぱりだされたのだ。そのとき、引率の先生にこう言われたのだった。そして、今、この小説を読もうと思われるかたに、ぼくはこのことばを語ろう。
「最後まで、気を抜くな。帰ってくるまでが、山歩きだ」
決して途中で、ほっとして、手をとめないように。物語の世界から帰ってくるまで、最後まで気を抜かれぬよう。
まだお読みでないかたは、ぜひ、次はこの小説をお登くださいませ。