第44話 休暇の終わり
東の空が白み始める前、ベルリンの空気はまだ冷たく、底冷えのする静寂に包まれていた。
出発の日が来た。
玄関の薄暗いランプの光の下、ハインリヒ・シュミット少佐は漆黒の戦車兵服に身を包み、深く息を吐き出した。
ウールと微かな機械油の匂いが、彼を再び過酷な戦場へと引き戻していく。
愛妻のリーゼロッテは、無言で彼の前に立ち、そっと両手を伸ばした。
彼女の細く柔らかな指先が、シュミットの額と頬に刻まれた無骨な榴弾痕をゆっくりと優しく撫でる。
戦場の地獄を物語るその傷跡に触れながらも、彼女は傷の理由を一切聞こうとはしなかった。
彼が何を背負い、どれほどの血を流してきたのか、そしてこれから何を為そうとしているのか。
すべてを包み込むような温もりが、そこにあった。
「待ってるわ……あなた……」
その震える一言に、彼女のすべての感情が凝縮されていた。
涙を見せないで見送ると、一人で固く誓ったのだろう。
しかし、彼女の美しい瞳には決壊しそうなほどの涙が滲み、今にも零れ落ちそうに揺れていた。
シュミットは、その世界で最も壊れやすく、そして最も強い硝子細工のような妻を、力強く抱きしめた。
「行ってくる……ちゃんと帰る。約束しよう」
ただ一人の男として、愛する妻にそう言い残し、シュミットは迎えの車へと乗り込んだ。
朝靄の中を走り出す車の後部座席で、シュミットは隣を見て僅かに目を見張った。
驚くべきことに、そこに座っていたのは副官のクライン中尉でも、大隊付きの伍長でもなかった。
軍服を端正に着こなしたヘルマン・ホト上級大将その人であった。
「驚く事はあるまい。私も休暇を終え、前線へ戻るところだ。同乗させてもらった」
ホトは穏やかな笑みを浮かべ、葉巻に火を点けた。
「長めに取れた受勲休暇はどうだった?心配するな、総予備機甲部隊のお前のところが出るような動きは泥濘期はあり得んよ。それより、休暇中での事を教えてくれ。……アレ(暗殺計画)の話は無しだ。移動しながら、少しばかり羽を伸ばして話をしよう」
その言葉には、部下を死地へと送る上官としての、そして水面下の『同志』としての深い配慮が込められていた。
車内には紫煙の香りが漂い、ホトは計画の進捗や政治のきな臭い話には一切触れず、ただ家族との穏やかな時間や、受勲の際の食事など、些細な出来事だけをシュミットと交わした。
それは、これから始まる鉄と血の地獄を前にした、束の間の人間らしい時間であった。
道中、車のラジオからは、同盟国である日本軍の快進撃を報じるニュースが誇らしげに流れていた。
太平洋戦線では、四月九日にフィリピンのバターン半島が日本軍によって陥落し、歓喜に沸いている。
しかし、………… 降伏した米比軍捕虜たちは、この頃すでに後世「バターン死の行進」と呼ばれることになる過酷な移送を強いられていた。
一方で四月十八日には、米軍の空母から発進した爆撃機が東京など日本本土を初空襲する『ドゥーリットル空襲』が実行され、象徴的な打撃を与えたとの情報も錯綜していた。
欧州・地中海方面では、枢軸軍によるマルタ島への激しい空襲が継続しており、ビルマ(ミャンマー)方面でも日本軍が怒涛の進撃を続けている。
遠く離れた同盟国の戦果は、ドイツ国内でも大きな話題となり、人々の戦意を高揚させていた。
数日後、東部戦線の乾いた風と硝煙の匂いが立ち込める前線基地。
ねっとりと絡みつくようだった腐乱臭は落ち着き、久しぶりに健全な土の匂いが漂っていた。
自身の大隊へと帰還したシュミットは、さっそく副官のフランツ・クライン中尉に命じ、大隊員たちに「土産」を配らせた。
それは、チョコレート、紙巻きたばこ、そして本物のコーヒー豆であった。
代用品のどんぐりコーヒーや粗悪な配給品に慣れきっていた隊員たちは、その思いがけない嗜好品の支給に歓喜の声を上げた。
大隊全員に行き渡ったそれらは、指揮官であるシュミットへの忠誠心を確固たるものへと引き上げた。
それらは、シュミットの親友であり、魂の兄弟であるクラウス・フォン・シュタウフェンベルクが、「部下に配れ。今の私に出来るのは、このくらいだ」と告げて持たせてくれたものだった。
シュミットはコーヒーの苦みを深く味わうと、遠くベルリンで孤独な戦いを続ける友の顔を思い浮かべた。
一九四二年五月十二日。
東部戦線の戦局は、劇的な動きを見せた。
ソ連軍のセミョーン・チモシェンコ元帥は、イジューム突出部から実に約七十六万人という途方もない大軍を投入し、大攻勢へと打って出た。
その目的は、交通の要衝ハリコフの奪還と、ドイツ軍南方戦線の分断である。
地平線を埋め尽くすほどの鋼鉄の波は、強烈な砲撃支援と共に押し寄せた。
最初の三日間、ドイツ軍は圧倒的な物量に押され、前線を担当していた第6軍とハンガリー軍は悲鳴を上げながら後退を余儀なくされていた。
だが、この時、第4装甲軍司令官であるヘルマン・ホト上級大将は、冷徹に盤面を見据えていた。
本来、第4装甲軍は迫る夏季攻勢(ブラウ作戦)のために戦力を温存する予定であった。
しかし、ソ連軍の攻勢が想定を上回る規模であったため、南方軍集団司令官フォン・ボック元帥の命により、まだ第四装甲軍を引き継いだばかりのホトは自らの機甲部隊を戦場へと投入することになる。
ホトが指揮する主力は、エーベルハルト・フォン・マッケンゼン率いる第3装甲軍団であった。
第14装甲師団、第16装甲師団、そして自動車化歩兵部隊からなるこの軍団が、北側の防衛と反撃の要となる。
しかし、ホトの戦い方は単純な正面衝突ではなかった。
「防御しながら機甲部隊を温存せよ」
彼は歩兵部隊に血みどろの遅滞戦闘を強い、前線をギリギリで保持させながら、装甲師団を『決定的瞬間』まで待機させたのである。
ソ連軍は、前線が突破できたと信じ込み、歓喜の雄叫びを上げながら無警戒に前進を続けていた。
「「「ウラー!!!」」」
大地を覆い尽くすかのような、恐ろしい数のソ連兵たちがドイツ軍陣地に殺到する。
しかし、彼らの頭上――初夏の青空を覆い隠すように、突如としてダイムラー・ベンツ製航空エンジンの重低音が轟き渡った。
初夏の強い陽射しの中、ソ連軍の遥か上空で、丸みを帯びた美しい楕円の翼端がギラリと銀色に煌めいた。
それは、モスクワの消耗戦から見事に蘇った、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の栄光の先触れであった。
東部戦線南部の全航空兵力を統括するアレクサンダー・レーア上級大将の第4航空艦隊。
その中でも、ヘーア(陸軍)との完璧な空地一体戦術を極め、数々の包囲戦を勝利に導いてきたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン大将率いる第8航空軍(VIII. Fliegerkorps)の精鋭たちが、ハリコフ平原の全域を制圧するべく進撃を開始したのだ。
まず高空の雲を割り、死神の如き速度で舞い降りてきたのは、当時の戦闘機デザインの到達点とも評される洗練された流線型の機体――メッサーシュミットBf109 F型(フリードリヒ)の鋭利な猛禽の群れであった。
搭載されたダイムラー・ベンツDB601E型液冷エンジンが、特有の金属質な重低音を響かせて大気を震わせる。
第3戦闘航空団(JG3)『ウーデット』や第52戦闘航空団(JG52)といった、実戦経験豊富な撃墜王たちを多数擁する戦闘航空団が、その牙を剥いたのだ。
高度六千メートル。
酸素の薄い死地にあって、彼らは太陽を背に悠然と空を支配していた。
高度の絶対的優位を確保したメッサーシュミットBf109 F型の編隊は、ドイツ空軍が誇る二機一組の「ロッテ」、そしてそれを二つ合わせた四機一組の「シュヴァルム」という、極めて合理的な戦術形態を維持していた。
『――一番機から各機。下方にネズミの群れだ。一撃で仕留め、速やかに上方へ離脱しろ』
ノイズの混じる無線から、指揮官の冷徹な声が響く。
ロッテンフューラー(隊長機)が攻撃にのみ集中し、カツマレク(僚機)がその後背の死角を完璧に護る。
個人の技量や蛮勇に頼るのではなく、システムとして敵を狩るための効率的に殺戮をもたらす陣形であった。
狙い定める目標は、眼下のはるか下層で防空網を展開しようと必死にもがいているソ連空軍のYak-1やLaGG-3の編隊である。
だが、圧倒的な位置エネルギー――すなわち高度と速度の優位を見せつけるBf109Fの前に、彼らは最初から手も足も出ない哀れな獲物でしかなかった。
スロットルレバーが押し込まれ、操縦桿が猛然と倒される。
キィィィン――ッ!
機体が垂直に近い急降下へと移行した瞬間、ダイムラー・ベンツ製エンジンの過給機が鼓膜を劈くような悲鳴を上げた。
強烈なG(重力加速度)がパイロットたちの身体を革張りの座席に深く縛り付けるが、鍛え抜かれた精鋭である彼らの呼吸に微塵の乱れもない。
防風ガラス越しに射込む暴力的なまでの太陽光を背負い、ドイツ軍パイロットたちは感情を削ぎ落とした猛禽の目のまま、照準器の黄色い十字を、眼下で狼狽える赤色星の機体へとピタリと重ねていく。
「もらった」
分厚い手袋に包まれた指が、引き金を絞り込む。
プロペラ軸の中心、ハブの先端に内蔵された20mm機関砲『MG151/20』が、「ズドドドドッ!!」という腹の底を叩く重低音と共に強烈な火の手を噴き上げた。
狭いコックピット内に、一瞬だけ、硝煙のむせ返るような匂いと、オイルの焦げる熱い匂いが充満する。
極めて弾道特性に優れた薄殻榴弾(ミーネンゲショス)は、一直線に輝く光の尾を引きながら、寸分の狂いもなくソ連機の機首や翼の付け根に突き刺さった。
内部に大量の炸薬を詰めたそれは、たった一発命中するだけで敵機を内部からへし折る、凶悪な死の弾丸である。
対するソ連軍のLaGG-3。
この機体は、大戦初期の慢性的な金属不足を補うために、特殊な合板(デルタ木材)を多用して製造されていた。
そのため機体重量は嵩み、機動性は劣悪。
ソ連兵たち自身から、機体名の頭文字(LaGG)をもじって「塗装された保証付きの棺桶(Lakirovanny Garantirovanny Grob)」と自嘲気味に揶揄されるほどの、致命的な運動能力の脆弱性を抱えていた。
その木製の機体に、高初速・高威力のドイツ軍20mm弾が着弾した瞬間どうなるか……。
結果は、戦闘というよりも惨劇であった。
合板で作られた空飛ぶ玩具は、着弾と同時に鈍い音を立てて空中で無残に爆砕した。
装甲板に守られていない自封式燃料タンクが引き裂かれ、気化した高オクタン価航空燃料に容赦なく引火する。
瞬時に燃え上がった木製玩具は、断末魔の悲鳴を残す暇すらなく、巨大なオレンジ色の火球へと姿を変え、どす黒い脂煙の尾を曳きながらチェルノーゼム(黒土)の大地へと真っ逆さまに墜ちていった。
唯一の救いは木製の割には燃えにくい機体ということだろうか。
雲を突き抜け、次々と降り注ぐ燃え盛るソ連機の残骸。
それは、これから地上で繰り広げられる血みどろの死闘を告げる、空からの残酷な狼煙であった。
こうして、後に戦史に深くその名を刻まれる『第二次ハリコフ攻防戦』の、凄惨極まる火蓋が切って落とされたのである。
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