第43話 砕かれた忠誠
歴史という時計を刻む長針は、人々の流した絶望の涙で……そして短針は、戦場を染める夥しい血潮で……それらは常に赤黒く濁りながらも、決して乾くことなく潤いを帯びて回り続けている。
――――その短針を少しだけ巻き戻した……1941年6月22日。
北アフリカの乾ききった熱風が吹き抜ける前線司令部の天幕で、エルヴィン・ロンメル中将は、ベルリンから届いた暗号無電を握りしめたまま、彫像のように硬直していた。
ラジオのスピーカーからは、ワーグナーの勇壮なファンファーレに続き、ヨーゼフ・ゲッベルス宣伝相が、ソビエト連邦への全面侵攻――『バルバロッサ作戦』の開始を高らかに告げている。
「ドイツ国民よ! 国家社会主義者よ! 長く沈黙を強いられてきたが、今や公に語る時が来た。この瞬間、世界史上最大規模の行軍が始まっている。私は今日、帝国と我が国民の運命と未来を我が兵士たちの手に委ねることを決意した。神よ、特にこの戦いにおいて我々を助けたまえ!」
電波に乗った甲高い声は、英国の包囲政策とユダヤ・ボルシェビキの陰謀を声高に強調し、ドイツは平和を望んでいたにもかかわらず、やむを得ず剣をとるに至ったのだと熱弁を振るっていく。
1939年に結ばれた独ソ不可侵条約をソ連(スターリン政権)が密かに破り、帝国に脅威を与え続けていたという激しい非難。
さらにはソ連の異常な軍事力増強や、フィンランド、バルト諸国、ルーマニアへの露骨な干渉などを次々と列挙し、今回の作戦はあくまで「祖国防衛のための先制攻撃」であると正当化してみせた。
こうして、狂気に満ちた大義名分のもと、ユーラシア大陸の東部に向けて、実に300万という大ドイツ国防軍の精鋭が解き放たれたのだ。
「……正気か。二正面作戦など、愚劣にも程がある」
ロンメルは、絞り出すように呟いた。
彼は机に広げられた北アフリカの作戦地図を見下ろした。
イギリス軍のバトルアクス作戦を粉砕し、エジプト国境のハルファヤ峠を固めたばかりの彼の手元には、深刻なほどの補給不足という現実が突きつけられていた。
砂漠における装甲部隊の命運は、燃料と弾薬、そして水の補給にある。
トリポリ港から1,500キロ以上離れたこの前線へ物資を運ぶ血脈は、地中海を支配するイギリス海軍によって日々寸断されていた。
ただでさえ細いその補給線は、東部戦線というソ連との戦端が開いた今、完全に干上がることを意味していた。
ドイツ本国のすべての生産力、すべての予備兵力、すべての輸送手段が、赤い巨人を倒すために東へ東へと吸い込まれていく。
北アフリカの地で死闘を繰り広げる『ドイツアフリカ軍団(DAK)』は、第三帝国の戦略地図において、完全に「見捨てられた」のである。
「我々に残されたのは、砂漠の砂と、空の燃料タンクだけか……イギリス軍は必ず動くぞ……しかしながら、我々には燃料も弾薬も無い……水と食料もだ……」
ロンメルは天幕を出て、白茶けた地平線を睨んだ。
焦熱の太陽が容赦なく降り注ぐこの砂漠で、彼と彼を慕う将兵たちは、これから無限の飢餓と渇きに耐えながら戦い続けなければならないのだ。
そして、ロンメルの不吉な予感は、数ヶ月後に最悪の形で現実のものとなった。
1941年11月18日。
本国から莫大な物資と新型戦車を与えられたイギリス軍第8軍は、トブルク要塞の解放とアフリカ軍団の殲滅を目的とした大規模反攻『クルセーダー作戦』をついに発動した。
地平線を黒く染めるほどのイギリス軍の戦車群が、猛烈な砂煙を上げて進撃してくる。
対するロンメルは、圧倒的な物量差を覆すため、砂漠を縦横無尽に駆け巡る機動防御を展開した。
彼の指揮する第15装甲師団と、第5軽師団から改編された第21装甲師団の二つの牙は、『砂漠の狐』の名に恥じぬ神出鬼没の機動を見せた。
シディ・レゼグの戦いにおいて、彼らは数に勝るイギリス軍の機甲旅団を幾度も包囲し、完璧に叩きのめしたのである。
88ミリ高射砲の水平射撃が火を噴き、イギリス軍のクルセーダー巡航戦車が次々と炎に包まれる。
戦術においては、ロンメルは常にイギリス軍の数歩先を読んでいた。
彼は自ら最前線に立ち、砲弾の雨の中で指揮車から直接命令を下し続けた。
だが、どんなに完璧な戦術を描こうとも、補給不足という物理法則を覆すことはできない。
「閣下! 第15装甲師団より入電! 燃料が底を突きました! 全車両、機動不能!」
「第21装甲師団、弾薬残量ゼロ! これ以上の戦闘は不可能です!」
無線機から次々と報告される悲鳴に、ロンメルは唇を噛み破らんばかりに歪めた。
目の前に崩れかけた敵の陣形がある。
あと一押しで、イギリス軍を完全に包囲殲滅できる。
しかし、戦車のエンジンは沈黙し、戦車砲の砲身に込める物などない。
勝っているのに、追撃ができない。
イタリアに頼った補給線は悲惨としか言いようがなかった。
イタリア海軍の輸送船団は、地中海でことごとくイギリス海軍の潜水艦と雷撃機の餌食となり、海底へと沈んでいた。
補給物資の到着率は絶望的な数字に落ち込んでいたのだ。
ロンメルは万策尽き、ベルリンのOKWに向けて、緊急の増援と補給、そして作戦上の戦術的後退の許可を求める電報を打った。
戦力を温存し、補給線に近い西方のエル・アゲイラまで部隊を下げるという、極めて合理的な判断であった。
しかし、数時間後にOKWから返ってきた暗号無電の解読紙を見た瞬間、ロンメルは己の目を疑った。
『総統命令。現在、アフリカ軍団への補給及び増援は不可能である。貴官は現地で物資を調達し、現在位置から一歩も退くことなく、最後の一兵まで陣地を死守せよ』
「……なんだ、これは?」
ロンメルは解読紙を握りつぶし、投げ捨てると、怒りで全身を震わせた。
「現地で調達しろだと? この何もない砂漠で、砂をエンジンに入れろとでも言うのか! 一歩も退くなだと? 弾の無い戦車に篭って的になれとでもいうのか!」
機甲部隊の真髄は「機動」である。
足を止めた戦車は、ただの鉄の棺桶に過ぎない。
同時にロンメルの胸の内に、強烈な違和感が膨れ上がった。
(かつての総統は、こんな愚かな命令を出す男ではなかったはずだ……少なくとも機動戦……戦車というものを誰よりも熟知していたはずだ)
1940年のフランス戦。
ロンメルが第7装甲師団を率いて電撃的な進撃を行った際、伝統的なプロイセン気質の将軍たちは口を揃えて「突出が過ぎる」と非難した。
だが、その中でただ一人、ロンメルの機動戦術を絶対的に支持し、手放しで絶賛してくれたのはアドルフ・ヒトラーその人であった。
「君のあまりに速い突進は、私に不眠の夜を強いたよ」
笑いながら肩を叩いた総統が、彼に与えたのは速やかな昇進という破格の栄光だった。
ヒトラーは古い将軍たちとは違い、機甲部隊の真髄たる「機動力」の価値を誰よりも深く理解してくれていたはずなのだ。
ヒトラーは、兵站と機動力の結びつき、そして機械化部隊のポテンシャルを誰よりも理解していた…………だからこそ、ロンメルは彼に忠誠を誓ってきたのだ。
しかし、この命令書の文面には、軍事的な思考が微塵も感じられない。
第一次大戦の塹壕戦に取り憑かれた老将のような、ただ精神論だけで「死守」を強要する、無能な老害の言葉そのものではないか。
「……いや、考えすぎだ。総統は東部戦線の巨大なプレッシャーに苛立っておられるだけだ」
ロンメルは無理やり自分を納得させようとした。
だが、その日、彼は総統命令を事実上無視し、全軍に西方への撤退を命じた。
軍を全滅させるわけにはいかなかったからだ。
年が明け、1942年1月。
エル・アゲイラまで撤退し、奇跡的に届いたわずかな補給物資と補充戦車を受け取ったロンメルは、イギリス軍が補給線の伸び切りによって油断している隙を突き、再び電撃的な反撃を開始した。
彼の機甲部隊は再び砂漠を駆け抜け、わずか数日でイギリス軍を後退させ、キレナイカ地方の要衝ベンガジを奪還するという離れ業を演じてみせた。
この勝利に対し、ベルリンからは手のひらを返したような熱狂的な祝辞と、上級大将への昇進の報がもたらされた。
しかし、ロンメルの心は冷え切っていた。
昇進の知らせと共に送られてきた、総統大本営からの次なる「総統発案による作戦指導書」を見たからだ。
ロンメルの天幕には、地図と数枚の書類が広げられていた。
そこには、カイロからスエズ運河に至るまで、大雑把な赤い矢印が何本も引かれていた。
「……これは、酷すぎる」
幕僚達の言葉に同意して、ロンメルは頭を抱えた。
その矢印は、砂漠の地形の起伏、車両が通行不可能な巨大な塩沼(カッターラ低地)、そして水場(オアシス)の位置を完全に無視して、ただ定規で直線を引いたかのように描かれていた。
戦車の燃費計算も、トラックの輸送能力も、何一つ考慮されていない。
ただ「進め」というだけの、幼稚園児の落書きに等しい代物だった。
ロンメルの背筋に、氷を当てられたような悪寒が走った。
モスクワ前面での敗走。そしてこのアフリカでの狂った命令の数々。
東部戦線の将官たちが次々と更迭され、総統自らが陸軍総司令官として直接指揮を執っているという異常事態。
「彼の中で何かが壊れたのか……? 脳の病か、それとも薬物の影響か……」
ロンメルは天幕を歩き回りながら、一つの恐ろしい仮説に行き当たった。
「……あるいは、私に命令を下している『あの男』は、私の知るアドルフ・ヒトラーではないのではないか?」
翌日、ロンメルは動いた。
彼は前線でイギリス軍との血みどろの戦いを指揮しながらも、腹心の情報将校や本国へ戻る連絡将校たちに密命を下した。
ベルリンの総統大本営の動向、特に総統個人の振る舞い、生活習慣、側近たちの動きに関するあらゆる情報を、極秘裏に集めさせたのだ。
それは、大ドイツ第三帝国の最高指導者に対する、あからさまで堂々たる「素行調査」であり、露見すれば即座に国家反逆罪で銃殺される危険な賭けであった。
しかし、彼は真実を知らなければならなかった。
自分が、そして自分の部下たちが、いったい「何のため」に砂漠で血を流し、渇きに苦しんでいるのかを。
そして……運命の日は訪れる。
1942年3月29日。
北アフリカ、リビア砂漠の奥深くに設営された前線司令部。
夜の砂漠は、日中の焦熱が嘘のように冷え込み、気温は氷点下近くまで下がっていた。
偽装ネットで覆われたロンメルの天幕に、一人の男が案内されてきた。
急な来訪者だった。
ベルリンから潜水艦と輸送機を乗り継いできたというその男は、軍服の襟章を外し、階級も所属も隠していた。
『最初はOKW(国防軍最高司令部)からの使い』と名乗っていたが、天幕でロンメルと二人きりになると、アプヴェーア(国防軍情報部)の長――『ヴィルヘルム・カナリス提督の直属の配下、ミュラー中尉』と静かに名乗り直した。
ランタンの薄暗い灯りの中、男はロンメルの前に直立し、分厚い封筒を差し出した。
「提督からの親書です。閣下が探っておられた『真実』に対する、我々からの回答でもあります」
ロンメルは無言で封筒を受け取り、ペーパーナイフで封を切った。
中に入っていたのは数枚の報告書。
一見して意味不明な文字列の羅列だったが、ロンメルは中尉が差し出した乱数表の用紙と照らし合わせ、自らの手で暗号を解読していく。
そこには、ロンメルが薄々と感じていた疑念を、絶望的な事実として裏付ける内容が克明に記されていた。
それは、老俳優の証言。
身振り手振りの総統として振る舞うための教育。
総統官邸の奥深くで行われた、国家を揺るがす巨大なすり替え劇。
「……現在の総統は、俳優によって徹底的に教育された、ただの素人の『影武者』です」
密使の男は、感情を完全に排した声で告げた。
「本物はすでに暗殺されたか、幽閉されたと推測されます。無能な偽物を玉座に座らせ、背後で糸を引いているのは、SSのラインハルト・ハイドリヒ、ハインリヒ・ヒムラー、そして党官房長マルティン・ボルマン。奴らは前線の戦争指導など片手間で操りながら、着実に帝国内の権力を掌握し、最終的に大ドイツ第三帝国をあの三人だけで私物化する算段です」
ロンメルの手から、報告書が滑り落ちた。
紙片が、砂まみれになった天幕の絨毯の上に音もなく着地した。
ランタンの炎が微かに揺れ、ロンメルの深く刻まれた顔の皺に濃い影を落とした。
「……偽物……影武者……」
ロンメルの口から、乾いた、しかし底知れぬ怒りを孕んだ声が漏れた。
「私は……我々アフリカ軍団は……」
ロンメルの脳裏に、これまでの戦いの光景がフラッシュバックした。
水筒の最後の一滴を分け合いながら死んでいった兵士たち。
弾薬が尽き、戦車ごと燃え上がった若い戦車兵たち。
総統命令という名の「狂気の紙切れ」に従い、無意味な死守を命じられ、砂漠の砂と消えていった幾千の命。
「我々は……こんな茶番のために、血を流し、友を死なせてきたというのか……!!」
ドォン!!
ロンメルは、両手で激しく机を叩きつけた。
机の上のインク瓶が跳ね飛び、黒い染みが作戦地図の上に広がっていく。
「愚劣な! 許し難い! 奴らは帝国を、我々前線の兵士の命を、何だと思っているのだ!!」
砂漠の狐の慟哭が、冷え切った天幕の中に響き渡った。
彼は両手で顔を覆い、肩を震わせた。
怒り、虚無感、そして途方もない絶望が、彼の精神を深く、鋭く抉っていた。
天幕の外では、冷たい砂漠の風が不吉な音を立てて吹き荒れていた。
「いずれ提督から、次の連絡があります。今は水面下で、我々と共に抗う同志を集める時だというのが、提督からの言伝です」
ミュラー中尉は、感情を見せないまま言葉を続けた。
「この事は、閣下のご自身の参謀にも決して伝えぬようお願いします……司令部の誰が、あの黒服ども(SS)と繋がっているか分からないのですから。……それと、私の名前は忘れてください。どうせ、次に会った時は、別の名になっているはずですので」
それだけ告げると、密使の男は夜の砂漠へと静かに立ち去っていった。
無敵を誇った砂漠の狐は、敵の戦車砲によってではなく、祖国を乗っ取った者たちの底知れぬ悪意によって、その精神に致命的な一撃を受けたのであった。
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