第45話 空の戦い

 ハリコフ上空――高度5200m

 そこにあるのは、空戦という名の、ただの虐殺であった。

 圧倒的な空戦技術と機体性能の格差の前に、ソ連軍の戦闘機は回避運動を試みる隙すら与えられず、次々と火ダルマに変えられていく。


 一機、また一機と、主翼をへし折られたソ連機が、幾条もの炎と、どす黒い脂煙の尾を曳きながら、地平線へと向かって狂ったように落下していった。

 三機、四機が同時に爆発し、まとまって墜ちていくその凄惨極まる光景は、青い天空が引き裂かれ、赤黒い炎の隕石がウクライナの広大な黒土(チェルノーゼム)へと降り注いでいるかのような、この世の終わりを予感させる地獄絵図であった。

 

 初夏の眩しすぎる太陽が、碧く澄んだ空の世界を支配していた。

 極限まで薄められた大気の中、コックピットには高オクタン価航空燃料のツンとした匂いと、オイルの焦げる匂い、そして限界までGに耐えるパイロットたちの濃密な汗の匂いが充満している。

 洗練された流線型の機体――メッサーシュミットBf109 F型の翼端が、眼下のソ連軍直上で太陽光を強烈に反射してギラリと煌めいた。


 この日、ハリコフ上空の制空権を完全に掌握すべく飛来した第52戦闘航空団と第3戦闘航空団の精鋭たちは、まさに空の死神と化していた。


「――ブレイク! 獲物は下だ!」

 風防越しにソ連軍の編隊を視認した第52戦闘航空団・第9中隊長、ヘルマン・グラーフ中尉は、操縦桿を猛然と押し込んだ。

 鍛冶屋の徒弟から這い上がってきたこの生粋の叩き上げは、サッカーのストライカーがゴールネットを揺らす時のような無邪気で凶暴な笑みを浮かべていた。

 彼のBf109は、まるで急降下する隼のようにLaGG-3の背後へと食らいつく。


 ダダダダダッ!!

 機首の20ミリ機関砲が火を吹き、激烈な反動が機体を揺らす。

 放たれた死の弾丸は、ソ連機の合板作りの主翼を根元から粉砕した。


 ――――これで今日だけで七機目。


 「撃墜百機」という大記録に、彼の手はもう届きかけていた。


 そのグラーフの機体から、斜め上方へ五百メートル。

 彼に強烈なライバル心を燃やす第52戦闘航空団・第7中隊のアドルフ・ディックフェルト少尉は、僚機と共に別の獲物を死の射程に捉えていた。

「グラーフにだけ良い格好はさせないぞ……ッ!」

 ディックフェルトが引き金を引くと、曳光弾の鞭がYak-1のエンジンカウルに吸い込まれるように命中する。

 吹き出した高圧オイルが発火し、瞬く間にソ連機はオレンジ色の火だるまと化して、錐揉み状態でウクライナの黒土へと墜ちていった。

 彼はこの日、グラーフの背中を追うように二機を撃墜し、驚異的なスコアの量産態勢に入っていた。


 同じ空域の少し離れた宙域では、全く異なる美学を持つ男が飛んでいた。

 第52戦闘航空団・第4中隊長、ゲルハルト・バルクホルン中尉である。

 彼の機動には、グラーフのような派手さや粗削りな獰猛さはない。

 あるのは、氷のように冷徹な計算と、騎士道精神に基づく完璧な連携だった。

「深追いするな。ロッテ(二機編隊)を崩すなよ」

 無線機越しに僚機へ落ち着いた声で指示を出しながら、バルクホルンは自らの背後を完璧に守らせつつ、ソ連機の死角へ滑り込む。

 無駄な弾丸は一発たりとも撃たない。

 最小限の射撃で敵機の急所のみを正確に撃ち抜き、彼は僚機と共に堅実に、そして確実に撃墜数を積み上げていた。

 落下傘で脱出する敵パイロットには決して銃口を向けない、空の騎士の戦いがそこにあった。

 

 さらにその上空。

 第52戦闘航空団・第II飛行隊長であるヨハネス・シュタインホフ大尉は、荒れ狂う空戦全体を俯瞰しながら、冷徹な指揮官としての責務を果たしていた。


「第4、高度を上げろ。太陽を背にしろ」

 端正な顔立ちを酸素マスクで覆い隠したシュタインホフは、冷静な声で無線網を統制し、自軍の被害を最小限に抑え込む。

 しかし、彼自身もただの指揮官ではない。

 指揮の合間を縫うように機体をロールさせ、一撃離脱のダイブで無警戒なソ連機二機をあっという間に火だるまに変えてみせた。

 優雅にして華麗。

 それが彼の空戦であった。


 そして――この大空の大虐殺劇を、最も高い高度から見下ろしている一人の男がいた。

 第3戦闘航空団司令、ギュンター・リュッツオウ中佐である。

 名門プロイセン貴族の血を引く彼は、荒ぶる戦闘機乗りたちを束ね上げる完璧な統率力を発揮し、自らの編隊を芸術的なまでに美しく旋回させていた。

 その直後、彼のBf109の機首が僅かに下がり、眼下の敵機へと襲い掛かる。

 照準器に赤色星を捉え、一切の感情を排したまま引き金を絞る。

 ソ連機は木っ端微塵に爆散した。

 リュッツオウ中佐の冷ややかな眼差しの奥には、単なる敵機の撃墜とは違う、別の『戦い』の炎が静かに燻っていた。


(……ルフトヴァッフェの兵士がここで血を流している間にも、後方の黒服ども(SS)は罪なき人々を虐殺している)

 彼の胸中には、祖国を蝕む狂気への激しい嫌悪感が渦巻いていた。

 数日前、彼はアプヴェーア(国防軍情報部)の長、ヴィルヘルム・カナリス提督からの密使と接触していた。

 

『リュッツオウ中佐。貴官は気がついているはずだ。真実を証拠と共に明かそう。帝国の浄化のため、貴官の力を貸していただきたい』

 カナリスから『同志』として見込まれ、水面下で進行する巨大な陰謀を知らされた彼は、今やただの戦闘機乗りではなかった。


(これは叛逆ではない……国家を簒奪した叛逆者への天誅だ)

 中佐の脳裏には、かつて敬愛した本物の総統の姿が浮かんでは、どす黒い鮮血によって塗り潰されていく悍ましいイメージが焼き付いていた。


 誇り高きドイツの軍人精神を汚す、あの玉座の狂人とそれを囲むSSどもを根絶やしにする。

 己は今や、そのための『空の刃』なのだ。

(今はただ、目の前の敵を落とし、空軍内での発言力と味方を増やす。……すべては、真のドイツを救うその時のために)

 リュッツオウは操縦桿を引き絞り、再び機体を眩い太陽の中へと上昇させた。


 数多の天才たちが飛び交うハリコフの空は、ソ連兵の絶望の悲鳴と、燃え盛る航空機から噴き出す黒煙によって、まるで巨大な地獄の釜のように煮え滾っていた。


 空の掃除が終わった次の瞬間。

 天を引き裂くような、悪魔の絶叫がハリコフの平原に木霊した。

 逆ガル翼を持つ無骨な機体、ユンカースJu87――通称『シュトゥーカ(急降下爆撃機)』である。


 高度四千メートルから降下し、急降下ブレーキを開いたシュトゥーカの編隊が、八十度から九十度の、ほぼ垂直の角度でソ連軍の戦車縦隊へ向かって雪崩れ落ちていく。 

 機体の主脚に据え付けられた風力サイレン『ジェリコのラッパ』が、物理的な破壊を前に、まずソ連兵たちの精神を粉々にすり潰す。


 ――――高度四千。

 足元の窓にソ連軍の黒々としたT-34の群れを捉え、編隊長は迷わずレバーを引いた。

 ガコンッ!

 両翼下のダイブブレーキが油圧で跳ね起きる重い金属音が響く。

 見えない壁にぶつかったような急減速の衝撃が機体を揺らした直後、スツーカは機体を反転させ、垂直の奈落へとその身を躍らせた。

 機首が引き起こされると同時に投下された500キロ爆弾(SC500)が、T-34の群れのど真ん中で次々と炸裂した。

 重さ数十トンの鉄塊が飴細工のように吹き飛び、弾薬庫の誘爆が新たな火柱を上げる。


 さらに水平爆撃を行うHe111(ハインケル)やJu88の編隊が後続し、後方の補給段列と歩兵の群れに絨毯爆撃の雨を降らせた。

 誇り高きルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)の圧倒的な空地一体攻撃によって、前進していた七十六万のソ連軍は瞬く間に大混乱に陥り、指揮系統は寸断され、その進撃は完全に停止した。


「ルーデルがいたら悔しがっただろうぜ……」


 Ju87Dのコクピットから漏れる誰かの呟きは爆音に消えた。


 同時期。

 東部戦線が血と硝煙に包まれ、ルフトヴァッフェの猛禽たちがハリコフの空で乱舞していた頃。

 戦場から遥か後方、オーストリアのグラーツにある予備・訓練飛行場では、一人の男が底知れぬ苛立ちと共に荒れ狂っていた。

 先の戦いでソ連軍の戦艦『マラート』を撃沈し、騎士鉄十字章を受章した国民的英雄――ハンス=ウルリッヒ・ルーデル中尉である。

「なぜだ……! なぜ私がこんな長閑で安全な空で、ヒヨコどもに飛び方を教えねばならんのだ!!」

 士官食堂のテーブルを拳で叩き割りそうな勢いで怒鳴ると、ルーデルは愛飲する牛乳の入ったグラスを一気に煽った。


 前線では今まさにソ連軍の大攻勢が始まり、仲間たちが死闘を繰り広げているというニュースが連日届いている。

 それなのに、赤色星の戦車をスクラップにすることに己の生命の全てを懸けているこの戦闘狂は、後方で新兵相手の教官などという「退屈で死にそうな任務」を強要されていた。

 

 彼をこの安全地帯に縛り付けている元凶は、ベルリンの総統大本営から直々に下された命令であった。

『我が軍の無敵の象徴であるルーデルを、これ以上危険な前線に出すな。後方でプロパガンダの広告塔として温存せよ』

 玉座に座る『あの男』からの、絶対の勅命である。

 ルーデルは苛立たしげに舌打ちをした。


 彼には、その命令がどうしても理解できなかった。

(私が直接拝謁したあの総統閣下は、最前線で血を流すエースの本分を誰よりも理解しておられたはずだ。それがなぜ、急に臆病風に吹かれた一次大戦の老害のような、現場を無視した馬鹿げた真似を……)


 真実を知る由もないルーデルであったが、戦場を奪われた猛禽の本能は、総統府から漂う致命的な違和感を無意識のうちに嗅ぎ取っていた。

「クソッ……! 私の居場所はこんな真新しい滑走路ではない。燃え盛るソ連軍の戦車の上だ!」


 彼は血走った目で書き殴っていた嘆願の書類――すでに数十回は却下されている『東部戦線への転属願』の束――を睨みつけると、今日もまた司令部のドアを蹴り破るべく、荒々しい足取りで立ち上がった。


 偽物の総統が下した『象徴的エースの温存』という政治的な命令は、この戦闘狂の心に、ただひたすらにどす黒い殺意にも似たフラストレーションを溜め込み続けていたのである。


 空軍が蹂躙していたハリコフ近郊。

 爆煙と血肉が舞い踊るその凄惨な光景を、丘の上の偽装網の下から双眼鏡で見つめている男がいた。

 ホトの懐刀として最も深く息を潜めていた切り札――ハインリヒ・シュミット少佐である。


「……うちの妻よりは、ずいぶんと正確に降ってくるな」

 シュミットはキューポラ(車長用展望塔)の中で、微かに口角を上げた。


 自宅の書斎で読書をしていると、絨毯でつまずいた愛妻リーゼロッテが頭上から降ってくるという日常を思い出しながら、彼は戦場の炎を見下ろしていた。


 何度目かの急降下爆撃機が鍋を持つリーゼロッテに重なり、シュミットは一人、クスリと笑う。

 

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