第42話 幸せな家族

 二人の夫は、かつての惨劇を思い出して揃って頭を抱えはじめた。

 しかし当の妻たちは、そんな夫たちの苦悩など気にも留めず、楽しそうにペチャクチャとおしゃべりを続けている。

「素敵なお家ね!バラも咲いてるし」

「あら、ここは一時的に借りただけなの。主人がベルリン勤務になってしまったから……」


 その光景を見下ろしながら、二人の天才は心底呆れたように顔を見合わせた。

「……信じられるか、ハインリヒ。私は東部戦線で300万の軍勢の補給計画に携わっているというのに、自宅のキッチンの被害状況すら予測できないのだ……いつ、鍋がこちらに飛んでくるのか分からん……」


「……奇遇だな、クラウス。私も戦場では70両の戦車の戦闘機動の最適解を毎秒弾き出しているが、妻の行動だけは一切計算が立たない……読書をしていると、シュトゥーカのように妻が上から降ってくるのだ……」


 シュミットとクラウスは、同時に肩をすくめ、そして静かに吹き出した。

 それは、重い十字架を背負った二人の男が、久方ぶりに見せた心からの笑いだった。

 ダイニングテーブルでのランチは、配給品を工夫したささやかなものだったが、そこには信じられないほどの温かさと笑顔が溢れていた。


 驚くべきことに、ニーナの性格はリーゼロッテと完全に一致していた。

 朗らかで、底抜けに優しく、少し空回りしがちで、しかし夫を心から深く愛している。


 妻同士は、日々の配給のやりくりや、細かすぎて、理屈っぽくて融通の利かない夫たちの愚痴で盛り上がり、食堂は花が咲いたような華やかさに包まれていた。


「――パパ!」

 やがて、部屋の奥から賑やかな足音が響き、三人の幼い男の子と、まだ歩き始めたばかりの小さな女の子が雪崩れ込んできた。

 長男のベルトルト、次男のハイメラン、三男のフランツ・ルートヴィヒ、そして長女のヴァレリーである。


「こらこら、お客様の前だぞ。挨拶をしなさい」

 クラウスが苦笑しながら、末娘のヴァレリーをふわりと抱き上げる。

 その大きな手は、密会において『総統を殺す』と血の盟約を結んだ手と同じものだ。

 しかし今、娘の柔らかい金髪を撫でるその指先には、無限の慈愛だけが宿っていた。


 子供たちは興味津々でシュミットとリーゼロッテを取り囲んだ。

「ねえねえ、おじさんは戦車に乗ってるの? かっこいい!」

「僕も大きくなったら、パパみたいに強くなるんだ!」

 無邪気な声に囲まれ、リーゼロッテの顔が優しく崩れる。


 彼女はすぐに子供たちの輪に入り、膝をついて一緒になって遊び始めた。

 やがて彼女が自作の歌なのか、耳慣れない不思議なメロディを口ずさみ始めると、子供たちも面白がってそれを真似ていく。

 子供たちの弾むような笑い声と、リーゼロッテの明るい歌声が中庭に響き渡った。

 シュミットは、コニャックのグラスを傾けながら、その光景を静かに見つめていた。

(……これが、クラウスの日常か)

 

 シュミットの胸の奥底で、冷たい痛みが走った。

 シュミットは理解している。

 もしクラウスたち『A班』が暗殺を決行し、万が一にも失敗に終われば、ゲシュタポの狂犬どもはこの温かな家庭に容赦なく牙を剥く。

 ジッペンハフト(親族連座制)により、ニーナは強制収容所へ送られ、この無邪気な子供たちは親から引き離されて、施設で名前すら奪われるだろう。

 下手をすれば子供達だって殺されない保証はない。


 クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは、このあまりにも美しく、愛おしい日常のすべてを「生贄」として差し出し、ドイツの未来のために死地へ赴こうとしているのだ。


 そしてそれは、シュミット自身にとっても決して他人事ではなかった。

「……良い家族だな、クラウス」

 シュミットがぽつりと呟く。


「ああ。私の誇りだ……」

 クラウスは目を細め、妻と子供たちを眩しそうに見つめた。


「ハインリヒ。昨夜も言ったが、俺たちがしくじった時は……俺の死にも、俺の……家族の運命にも、絶対に引きずられるな。お前の数式に、ノイズを入れるな。お前はただ冷徹に、確実な時を待て」


「それは俺も同じだ。……こちら(B班)が先に動くかもしれん」


「俺は、ドイツの未来のために、分かっていて家族を煉獄に放り込むのだ。……驚くなよ? ニーナは俺が偽総統を殺そうとしている事を知っている」

 クラウスの声は穏やかだったが、そこには鋼鉄のような悲壮な覚悟が秘められていた。


 シュミットは目を見開いて、驚きを隠せなかった。

「ニーナはドジだが……誇り高く、教養もあり、聡明だ。……彼女は『貴方を誇りに思う。忠誠を貫きなさい』と言ったんだよ。……俺がしくじった時に、自分がどんな目に遭うのか分かっていながらな」


「そうか……。俺も同じだ……愛する妻を、地獄に放り込むことになる。だが、やらねばならん。我々がやらねば……これから先、数百万、数千万の死体が積み上げられ続けるだけだ。だが俺はまだ……妻に……リーゼロッテには……」


 クラウスが、手元のボトルからシュミットのグラスにコニャックを注ぎ足した。

「言え……。リーゼロッテ殿なら大丈夫だ」


「そうだな……。国を救う為に、家族を殺す……死して地獄の業火に焼かれるであろう俺たちに、もう一度乾杯だ」


「こんなこと……カナリス閣下にバレたら大変だろうな」


「ああ…………だが、来てよかった。これで俺は奴を殺せる」


「それは俺もだ」


 シュミットの言葉に、クラウスが無言でグラスを合わせる。

 シュミットは琥珀色の液体を静かに飲み干した。

 喉を焼くアルコールの熱が、友との血を吐くような決意を彼の魂に深く刻み込んだ。

 二人の視線の先、広い中庭では、妻たちと子供たちがリーゼロッテにつられて、不思議な歌を大合唱して笑い転げていた。


 その光景は、二人の男の目にただ美しく――そして、ひどく胸を締め付けるような痛みを伴って映っていた。


 その日の夕刻。

 二人は、静寂に包まれた自宅へと帰ってきた。

 騒がしい子供たちの喧騒に満ちていたシュタウフェンベルク邸とは対照的な、二人きりの静かで小さな家。

 リーゼロッテは、シュミットの外套を受け取りながら、まだ興奮冷めやらぬ様子で語りかけた。

「本当に、本当に素敵な一日だったわ。ニーナ様はまるで姉妹みたいに気が合うし、クラウス様もとっても優しくて……また、お邪魔したいわ、ハイン」


 そこで彼女は言葉を切り、少しだけ俯いた。

 ランプの灯りに照らされた彼女の横顔には、昼間の笑顔とは違う、微かな切なさが滲んでいた。

「……あのね、ハイン」

「どうした、リーザ」

 シュミットが振り返ると、彼女はシュミットの軍服の胸元にそっと顔を押し当てた。

「子供たち、とっても可愛かった。……私、ずっと考えていたの。もし、私たちにもあんな風に、小さな子がいたら……どんなに幸せだろうって」


 彼女の細い指が、シュミットの軍服をぎゅっと握りしめる。

「私……私も、あなたとの子供が欲しい。私たちだけの、家族が欲しいの」

 それは、現在のベルリンにおいて、あまりにも当然で、あまりにも切実な願いだった。


 シュミットは息を呑んだ。

 今日、クラウスの家で見た光景。

 友が命を懸けて守ろうとしているもの。

 そして、自分がこれから振り下ろそうとしている血塗られた『大鎌』の重み。

 暗殺……戦争……破滅へ向かう帝国。

 そして何より、あの子どもたちの無邪気な愛らしさ。


 ……だが、自分たちが失敗すれば、その尊い命さえもいずれ無惨に奪われてしまう運命にあるのだ。

 そんな地獄のような数式の中で、新たな命を育むことなど、論理的に考えれば最大のリスクでしかない。


 しかし――。

(未来を切り開くということは、命を終わらせることだけではない。新たな命を、未来へ繋ぐことなのだ)


「リーザ……」

 シュミットは、世界で最も壊れやすい硝子細工を扱うように、彼女の細い肩を抱き寄せた。


「ああ。……作ろう。我々の家族を。我々の、未来を」


「ハイン……っ!」

 リーゼロッテは顔を上げ、涙ぐんだ瞳で微かに微笑んだ。


 その夜。

 シュミットは、ベッドの中で己が背負う血塗られた暗殺計画のすべてを、妻に打ち明けた。

 話を聞き終えたリーゼロッテは、怯えることも泣き乱れることもなく、ただ真っ直ぐに夫の目を見つめ返した。

「私も、ニーナ様と同じよ。……貴方は貴方の信じる道に、忠誠を尽くして。私の子なら、きっと大丈夫」


 彼女はシュミットの大きな手を両手で包み込み、迷いのない微笑みを向けた。

「それに、貴方は絶対に失敗しないわ。……万が一、貴方が失敗して、貴方がこの世に居なくなってしまうなら……そうしたら、私がこの世にいる必要なんてないもの……」


 寝室のランプが消され、青白い月光だけが二人を包み込む。

 シュミットは、戦場の冷徹な指揮官としての仮面を完全に捨て去り、ただ愛する女を求める一人の男として、彼女を深く、熱く抱きしめた。


 衣擦れの音と、甘い吐息が暗闇に溶けていく。

 リーゼロッテの柔らかな素肌の温もりが、シュミットの凍てついた心を溶かし、生きる意味を確信させていく。


 友との悲壮な盟約を胸に秘めながら、シュミットは今夜、己のすべてを懸けてこの温もりを守り抜くことを、改めて天に誓った。

 しかしながら、リーゼロッテの奥深くで愛を確かめ合うその刹那でさえ、シュミットの脳の片隅は『もし子どもが出来なければ、彼女が背負う悲しみは増えずに済むのではないか』という残酷な計算を捨てきれずにいた。


 だが、未来を願って二人が身体を重ね合う、まさにこの時。

 天然で不器用な愛妻の胎内には、すでに昨夜の時点で、シュミットの血を引く小さな『命』が、確かに根を下ろしていたのである。

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