第41話 似た者同士

 翌日の夕刻。

 シュミットは、ベルリン郊外にあるこぢんまりとした一戸建ての門を潜った。

 戦車士官制帽――――通称クラッシュ・ハットを深く被り、外套に付いた春先の冷たい雨粒を払って、重い玄関の扉を開ける。

 暖かなオレンジ色のランプの光と共に、少し焦げたようなタマネギの甘い匂いが鼻腔をくすぐった。


「――ハイン!?」

 奥のキッチンから、パタパタというスリッパの慌ただしい足音が響いたかと思うと、直後にドンッという鈍い音と「きゃっ」という小さな悲鳴が上がった。

 エプロン姿の長髪の女性が、見事に廊下の絨毯の端に足を引っ掛け、文字通りシュミットの胸元へ向かって宙を舞っていた。

「危ないな……相変わらず、君の行動は予測ができない」

 シュミットは手に持っていた帽子を放り投げ、咄嗟に両腕を伸ばして彼女の細い身体を空中で受け止めた。


 彼女の腰まで伸びた長い亜麻色の髪からフワリと、石鹸と彼女特有の甘い香りが広がる。

「ああ、ああ……本当にハインなのね! 生きて……帰ってきてくれたのね!」

 1939年に結婚した愛らしい新妻――リーゼロッテは、シュミットの冷たい軍服の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


 無理もない……結婚してすぐにシュミットは戦場に駆り出されていたのだ。

 シュミットは何も言わず、彼女の柔らかい亜麻色の髪を、壊れ物を扱うようにそっと撫で続けた。


 その日の夕食。

 ダイニングのテーブルの上には、ささやかながらも心のこもった豪餐が並んでいた。

 配給制が日増しに厳しくなり、どんぐりを煎った代用コーヒーや、粗悪な粉を混ぜた誤魔化しの食材が溢れる現在のベルリンにあって、そこには温かい湯気を立てるシチューと、少し形はいびつだが香ばしい手焼きのパンが添えられていた。


 シュミットの受勲と、帰宅を知らせる手紙を受け取ってから数日間、彼女は配給の列に何度も並び、不器用ながらも必死に夫を迎えるための食材をかき集めていたのだ。

 シチューを取り分ける彼女の指先には、不器用な彼女が包丁で切ったであろう小さな絆創膏が、これもまた不格好に貼られていた。


「……どうかしら。お肉、少ししか手に入らなくて、ジャガイモばかりになっちゃったけど……」

 不安げに見つめる妻の視線に対し、シュミットはシチューを一口含むと、ゆっくりと、力強く頷いた。


「いや、最高に美味い。完璧な味だ」

「ふふっ、大袈裟ね」

 

 本当はイモが生煮えで、味が薄い…………しかし、シュミットにそんなことは関係なかった。

 そして、リーゼロッテはパッと花が咲いたように微笑み、嬉しそうに自分の席へとついた。


 シュミットは、ロシアの凍土の地獄で見た硝煙と血の話を一切口にしなかった。

 部下たちの肉体が吹き飛んだことも、自らの指揮で何十両もの敵戦車を火だるまにしたことも。


 そして、先程までベルリンの密室で、自分と同じ目をした友と「互いを見殺しにする」という冷徹な死の盟約を交わしてきたことも……。

 血生臭い世界の真実はすべて、脱ぎ捨てた分厚い軍服と共に、玄関に置き去りにしてきた。

 オレンジ色の温かなランプの光に包まれたこの食卓に座っているのは、死神の異名を持つ戦車大隊長でも、冷徹なテクノクラートでもない。


 ただ一人の愛する妻を持つ、一人の『夫』であった。

「ねえ聞いて、隣のシュタイナーさんの奥様がね、私がジャガイモの皮を剥くのが下手すぎるって笑うの。でもそのおかげで、お茶飲みに誘ってもらえたのよ」


「そうか。君のその不器用さが、友達を作れたんだな」


「もう、またそんな変な言い方して! それからね、先週お鍋を焦がしちゃって……」

 リーゼロッテが身振り手振りを交えて語る、他愛のない友達の話や、ドジな失敗談……会えた事が嬉しすぎて、舞い上がっている彼女の口からは、シュミットの昇進の話など出てこない。


 戦場では毎秒ごとに大隊70両の最適解を弾き出す天才の脳髄が、この天然で不器用な妻の話の前では、ただただ優しく溶解していくのを感じていた。

(……やはり、彼女だけは私の計算が立たない)

 だが、その「計算外の温もり」こそが、シュミットが零下の地獄や、冷酷な暗殺の数式の中で人間としての正気を保つための、唯一の錨であった。


 夜。

 寝室のランプがカチリと消されると、暗闇の中で微かに差し込む月光だけが、二人のシルエットを照らし出した。

 リーゼロッテはシュミットの広い背中にしがみつき、決して離れようとはしなかった。

 震える彼女の指が、シュミットの寝巻きのシャツのボタンを一つずつ不器用に外していく。

 衣擦れの音が、静寂の部屋にひどく大きく響いた。


「リーザ……」

 シュミットは振り返り、彼女の指を優しく包み込んだ。


 戦場で見せる氷のような冷徹さはそこにはない。

 ただ一人の男として、愛する妻の熱を帯びた素肌の温もりを確かめるように、シュミットは深く、熱く、彼女に口付けた。

「……私が必ず、君のいるこの日常を守り抜く」

 吐息の交じり合うベッドの中で、シュミットはリーゼロッテの身体を強く抱きしめ、夜の深淵へと静かに溶け合っていった。


「行かないで…………」

 リーゼロッテの口から、夫に聞こえないほどの小さな呟きがこぼれ落ちる。

 ハインリヒは、その弱々しい言葉に気の利いた慰めを返すこともできず、ただ彼女を強く抱きしめることでしか応えることができなかった。


 鋼鉄の兵器と殺戮の演算に支配された男の、それは束の間の、しかし永遠にも等しい安らぎの夜であった。

 この時、愛する妻の胎内に新たな生命が生まれた事を、ハインリヒ・シュミット少佐は今はまだ計算できるはずも無かった。


 翌日。

 うららかな春の陽射しがベルリンの街を包んでいた。

 シュミット少佐は、いつもの黒の特殊戦車服ではなく、少し着慣れない標準将校服に身を包み、隣を歩く妻・リーゼロッテのエスコートをしていた。

 彼女は数少ないよそ行きのワンピースを着て、少し緊張した面持ちでシュミットの腕に手を添えている。

 向かっているのは、ベルリン郊外にあるクラウス・フォン・シュタウフェンベルク少佐の私邸であった。

 

 先日の密会において、彼ら『A班』と『B班』は、暗殺計画における絶対的な分断と、意図的な接触の禁止を誓い合ったばかりである。

 だが、二人は「秘められた兄弟分」として、どうしても家族ぐるみで会ってみたかったのだ。


 幸い、ゲシュタポやRSHA(国家保安本部)の猟犬たちの鼻は、まだ彼らには向いていない。

 ハインリヒ・シュミットという男は、生まれて初めて「自分と同種の人間」に出会い、強烈な興味を抱いていた。


 リーゼロッテという唯一の例外(エラー)を除けば、彼はこれまで他人に一切の関心を持ったことがない。

 他人は盤上の駒か、無能な障害物でしかなかった。


 しかし、クラウス・フォン・シュタウフェンベルクは違った。

 世界を数学で読み解き、帝国が破滅へと向かう絶望的な方程式を共有し、共に地獄へ堕ちる覚悟を決めた男。

 シュミットは、一人の人間として、彼とその背後にある「日常」を知りたかったのである。

 そして奇しくも、このささやかな食事会へと誘いを出したのは、シュミットと同じく友への強い興味を抱いたシュタウフェンベルクの方であった。


「ハイン……いえ、ハインリヒ、私、粗相をしないかしら……。考えてみれば、私、少佐夫人なんですものね。シュタウフェンベルク少佐は由緒正しい伯爵様なのでしょう? 奥様もきっと、立派な貴族の方よね……私、貴族のお作法とか分からないのに……どうしよう……」

 リーゼロッテが不安げに見上げてくる。


「気にするな。少佐と言っても彼もただの一人の男だ。俺とは同格の友だ。君はいつも通りにしていればいい」

 シュミットは彼女の手を優しく叩き、瀟洒なレンガ造りの邸宅の呼び鈴を鳴らした。

「おお、よく来てくれた! 歓迎するよ、シュミット少佐。そして美しい奥様」


 扉を開けたのは、軍服ではなく寛いだシャツ姿のクラウスだった。

 あの密会での氷のような暗殺者の顔はそこにはなく、陽気で温かみのある、一人の家長の顔だった。

「やあ、招いてくれてありがとう。シュタウフェンベルク少佐。……妻のリーゼロッテだ」

「初めまして……リーゼロッテと申します」

 彼女がたどたどしくカーテシー(淑女の挨拶)をしようとした、まさにその時である。


「ああ、いらっしゃいませ! お待ちして――きゃっ!?」

 奥の廊下から、ティーセットを乗せた銀の盆を掲げて小走りでやってきた美しい金髪の女性が、見事に絨毯の縁に足を引っ掛けた。

 ガチャンッ! という派手な音と共に、宙を舞うティーカップ。

 クラウスは微動だにせず、ただシュミットが自宅でよくやるように、深く、重々しい溜息をついた。


「……すまない。紹介しよう。私の妻、ニーナだ。これでも由緒正しき男爵家の出身なのだが……見ての通り、我が家の兵站線は常に大混乱でね」


「も、申し訳ありません! すぐに片付けますわ!」

 顔を真っ赤にして床に這いつくばるニーナ夫人を見て、リーゼロッテの目が驚きに見開かれ――次の瞬間、パァッと親近感の光に包まれた。

「お怪我はありませんか!? 私も手伝います! 実は私も昨日、お鍋を持ったまま玄関で盛大に転んだばかりなんです!」


「えっ……? あなたも……?」


 リーゼロッテがしゃがみ込み、二人の妻は床に散らばった陶器の破片を拾い集めながら、互いの顔を見合わせた。

 「それに先週は、お鍋を真っ黒に焦がしてしまって……」とリーゼロッテが恥ずかしそうに囁く。

 「まあ! 私なんて、夫の頭にコーヒーをぶちまけて、せっかくの軍服を台無しにしてしまったのよ」とニーナがクスクスと笑う。


「ニーナ……あれは決して笑い事では無かったのだがな……」


「あら、私なんてアイントプフ(ドイツ風シチュー)を、ハインリヒの頭から被せてしまいましたわ」


「リーゼロッテ……あれは、本当にひどかったな……幸い火にかける前だから良かったものの……」


「そうそう、前日の残りを温めようとしたら飛んでってしまったのですよね?」


「俺に聞かないでくれ……」

 

 出会ってわずか十秒……溢れ出た笑い声。

 床の上で、二人の「天然で不器用な妻たち」は、まるで十年来の親友のように完全に意気投合してしまったのである。

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