第40話 未来を切り開くための希望

 深夜。

 ベルリンの高級住宅街ダーレムにひっそりと佇む邸宅。

 カナリス提督の別邸の書斎である。

 分厚い遮光カーテンが引かれた密室には、革張りのソファが吸い込んだ古い葉巻の匂いと、グラスに注がれた上質なコニャックの芳醇な香りが漂っていた。

 チク、タク、と重苦しく時を刻む大きな柱時計の音。

 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる音だけが静かに響く中、ソファには軍服を着たグーデリアンと、ヨレヨレの背広を着た小柄な白髪の男―― アプヴェーア(国防軍情報部)の長、『老狐』ヴィルヘルム・カナリス提督が腰を下ろしていた。


 だが、今夜この密室に集っているのは彼らだけではない。

 部屋の奥には、カナリスが極秘裏に声をかけて集めた水面下の同志たちの姿があった。

 元陸軍参謀総長のルートヴィヒ・ベック上級大将、陸軍総司令部一般陸軍局長のフリードリヒ・オルブリヒト大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将。

 そして、陸軍総司令部(OKH)編成部から密かに抜け出してきた、長身で精悍な顔立ちの若き参謀将校――クラウス・フォン・シュタウフェンベルク少佐である。


「よく戻った、ハインリヒ。お前の首で光っているその勲章を、あの『人形』から直々に授与された気分はどうだった?」

 グーデリアンがコニャックのグラスを傾けながら、獰猛な笑みを浮かべて問う。


「おぞましいの一言です。物理的にあの場で首を捻り折ることは容易でしたが……現在の情勢を計算すれば、私が死んで奴を殺すのは無意味な浪費に過ぎません」

 シュミットはグラスを受け取り、淡々と事実だけを述べた。


「その通りだ。あの場で仕留めれば、君はただの狂った暗殺者として蜂の巣にされ、細君は収容所行きだ。そして国防軍は粛清される」

 カナリス提督が、足元で丸くなっている愛犬のダックスフントの首筋を撫でながら、氷のように冷たい声で口を開いた。

「我々水面下の『同志』は、陸軍中枢のみならず、ベルリンの予備軍にまで広がりつつあります。今日来られなかった者も多い……。しかし、問題はあのファルシュ(偽物)の排除そのものではない。……あの無能な素人を神輿として担ぎ上げ、裏で糸を引いている『黒幕』をどう排除するか……です」


「黒幕……ヒムラー……いや、ハイドリヒですか」

 シュミットの問いに、カナリスは重々しく頷いた。

「偽総統の狂った命令によって、最も利益を得ているのは誰か。国防軍がロシアの凍土で血を流し、将軍たちが次々と更迭される中、後方で着実に権力を拡大している組織…… RSHA(国家保安本部)長官、ラインハルト・ハイドリヒだ」

 その名が出た瞬間、書斎の空気がさらに数度、冷え込んだように感じられた。

 『金髪の野獣』『鉄の心臓を持つ男』と恐れられる、最も危険な実力者の一人。

「奴の諜報網は、私のアプヴェーア(国防軍情報部)すら凌駕しつつある。……実は二ヶ月前、舞台を引退した一人の老俳優が、恐怖に震えながら私の元へ駆け込んできたのだ。彼曰く、ハイドリヒ、親衛隊長官のヒムラー、そして党官房長のボルマン……この三人が密会を重ね、ある『総統に似過ぎている素人』に総統の身振りと声色を徹底的に教育するよう、彼に強要したという」


「……」

「ハイドリヒは間違いなく、現在の総統が『中身のすり替わった偽物』であることに気づいている……いや、彼ら三人こそが、すり替えの首謀者なのだ。無能な偽物を神輿として操り、陸軍を自滅させ、最終的にSSだけで大ドイツ帝国を完全に支配する。それが奴の描く方程式だ。……もっとも、その恐るべき告白を我々にもたらした生き証人の老俳優は、数日後にゲシュタポに消されたがね……彼は家族を盾に口止めされていたが、良心の呵責に耐えられなくなったらしい……英雄だったよ……」


「なるほど。玉座の『偽物』を殺すためには、まずその主であり、真の黒幕である『三人の裏切者』を盤上から物理的に排除する必要があるというわけですね」

 シュミットは琥珀色の液体を喉に流し込んだ。


「奴を殺せば、SSの指揮系統は確実に崩れる事になる。総統官邸を丸裸にするための、最大のブレイクスルーだ」

 グーデリアンが身を乗り出し、太い指でテーブルを叩いた。

「だが、奴の警護は鉄壁だ。国防軍が手を出せば、即座に内戦になる。堂々と殺す訳にはいかない。提督、お前の情報部に暗殺の部隊はいるのか?」


「我々が直接手を下す必要はありません」

 カナリスは薄く、ひどく恐ろしい笑みを浮かべた。

「ハイドリヒは現在、ベーメン・メーレン保護領(チェコ)の副総督としてプラハに赴任しています。彼は自身の絶対的な権力を誇示するため、無警戒な『オープンカー』で同じ通勤ルートを走るという愚かな悪癖がある。……そして私の情報網によれば、現在、イギリスの特殊作戦執行部(SOE)の支援を受けたチェコの暗殺部隊が、密かにプラハへ潜入したようです……チェコにも私の手の者が居る」

 それは、国防軍の諜報トップが「敵国の暗殺作戦」を意図的に見逃し、あわよくば利用しようとしているという、身の毛もよだつような謀略の告白であった。


「私のルートを使って、イギリスの犬どもに、ハイドリヒの正確な通勤ルートと時間を『意図的に』漏洩させる。……近いうちには、プラハで歴史的な惨劇が起きるでしょう」

「見事です、提督。敵の力を利用して障害を排除する。極めて効率的な方程式だ」

 シュミットは満足げに頷いた。


「ハイドリヒが消え、SSの指揮系統が麻痺したその時こそが、帝国の癌細胞を根絶やしにする絶対の好機となる」

 そう言って暗がりから進み出たのは、シュタウフェンベルク少佐であった。

「現在のOKH(陸軍総司令部)から見る帝国の惨状は、破綻した数式の山だ。もはや陸軍の兵站管理という方程式に、絶望という変数が多すぎて計算が崩壊している!凍死していく兵士の数……物理的に不可能な補給線の延長……失われた数千の戦車……あの偽物は兵站という絶対的な数を無視し、ただ感情でものを言っている。……あれは国家指導者ではない。ただの狂った幼児だ」

 シュタウフェンベルクの青い瞳には、燃えるような理知と、静かな怒りが宿っていた。


 彼が数字で語る兵站の限界、そして戦力の損耗率の計算式を聞きながら、シュミットの脳裏に電流のような直感が走った。

(……この男は、私と同じ方程式で世界を見ている?)

 シュミットが世界を……戦車の機動を戦術と物理の方程式で読み解くように、シュタウフェンベルクは世界を兵站と組織の数学で読み解く天才であった。

「シュミット少佐。君の完璧な撤退戦と、装甲戦術のレポートは拝見している。美しい演算だった」


「シュタウフェンベルク少佐。貴官の兵站管理もだ。あの異常な損耗率の中でもギリギリで前線を維持できているのは、貴官の完璧な兵站演算の賜物だ」


 二人の数字の天才は、互いの能力を一瞬で理解し合った。

 彼らが意気投合したのは、ただ「世界を数学で見る」からだけではない。

 その根底に、かつてのドイツを導いた「同じ天才であった『本物のヒトラー』への狂おしいまでの忠誠」を共有していたからだ。

 本物の総統は、彼らの描く複雑な物流の数式と機動戦術の真髄を誰よりも理解し、絶賛してくれた。


 だからこそ、その玉座を穢す現在の「権力を貪る偽物」が、二人にはどうしても許せなかったのである。

「いつか必ず、我々の手であの偽物を消す」

 シュタウフェンベルクが宣告するように言うと、ベックやオルブリヒトら後方や参謀勤務の立場にある将官たちが口々に、本物への変わらぬ忠誠と、偽ヒトラーへの底知れぬ憎悪を吐露し始めた。


 彼らは、グーデリアンがベタ褒めするこの若き戦車指揮官――シュミットへの全面協力を、この場で固く誓った。

「そのための計画だが、組織を二重構成とする」

 シュタウフェンベルクが作戦の骨子を語り始めた。

「国内予備軍や参謀本部を利用し、爆弾や政治的制圧で暗殺を目論む『A班』。そして、前線で刃を研ぎ澄まし、確実な武力で総統官邸ごと物理的に粉砕する『B班』だ。……我々A班とB班は、今日を最後に意図的に関係を『絶対的に』断つ」


「実行犯は、誰が務める?」

 カナリスの問いに対し、シュタウフェンベルクとシュミットは揃って一歩前に出た。

「私がA班の実行犯となる」

「私の大隊が、B班の刃を振るいましょう」

 二人が自ら死地に立候補した理由は明白だった。

 彼らが静かに、しかし確固たる意志で漏らした言葉は、「本物の総統への忠誠を果たさんがため」――ただ、それだけであった。


「……暗殺という暴挙を成し遂げた直後、帝国は未曾有の混乱に陥る。その時、一時的にでも同志たちをまとめ上げ、SSの反撃を抑え込める強烈なリーダーが必要だ。自らの手を血に染める実行犯こそが、階級など関係なく、その重大な責務を背負わねばならない」

 重々しく告げたカナリスの言葉に、グーデリアンだけでなく、ルートヴィヒ・ベック上級大将、陸軍総司令フリードリヒ・オルブリヒト大将、ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼ中将ら、その場にいる将官全員が深く頷き、了承の意を示した。


「そして……戦争に勝とうが負けようが、現在の総統が『すり替わった偽物』であったという事実だけは、未来永劫、決して公表すべきではない」

 アプヴェーアの長であるカナリス提督が、密室の空気を引き締めるように冷徹な声で念を押した。


「当たり前だ……」

 その言葉に、苦渋に満ちた声で同意したのはハインツ・グーデリアン上級大将であった。

 最前線の将兵を誰よりも愛するこの猛将は、ギリッと奥歯を噛み締める。

「我らが……前線で泥と血に塗れる軍人たちが、命を懸けて忠誠を誓い、戦っている相手が、あのような幼児じみた無能な偽物だったなどと……死んでいった者たちが浮かばれん……歴史に未来永劫残る『恥』だ」


「当然だとも」

 フリードリヒ大将も深く頷き、この残酷な『真実の隠蔽』に同意を示した。

「もし我々の計画が成就し、すべてを終わらせるその時が来たならば……我々は歴史にこう刻ませるのだ。『総統は重圧により、年々狂っていったのだ』と」

 神聖なる大ドイツ帝国の玉座が、得体の知れない偽物と黒幕たちに乗っ取られていたという真実は、国家の威信と軍の誇りを根底から破壊してしまう。


 ゆえに彼らは、自らの手を血に染めて狂人を討ち果たしたのちも、その真実を永久に歴史の闇へと葬り去るという、重すぎる十字架を背負う覚悟を決めたのだ。


「ならば我々は、時が来たその瞬間に、シュタウフェンベルクとシュミットの両名を絶対的に補佐し、忠誠を誓うことをここに宣言しよう」

 反ヒトラー派の精神的支柱であるベック上級大将が、居並ぶ将官たちを代表するように力強く宣言した。


 誇り高き将軍たちが、階級を越えて若き少佐たちに帝国の未来を託したこの瞬間。

 大ドイツ第三帝国を内側から覆す血の盟約は、決定的なものとなったのである。


 シュミットとシュタウフェンベルクは、互いの目を真っ直ぐに見つめ合った。

「俺たちは、いつかあの偽物を殺す。どちらが先にやるかは分からないが……」

 シュタウフェンベルクが自らの腕をナイフで切ると、静かに右手を差し出す。

「もし片方が失敗し、処刑されることになっても、もう片方は決して助けようとするな。冷徹に見捨てろ。そして……より確実な方法で、奴を殺してくれ」


「約束しよう、クラウス。私の演算に、貴官を救うという感情的な変数は組み込まない」

 シュミットも同じナイフで腕を切り、その手を差し出した。

 二人はお互いに差し出した、血が流れる腕の傷口を押し当てた……この時二人は生涯の兄弟となったのだ。


 お互いになるべく「無関係な他人」を装い、どちらかが死ぬ時は見捨てる。

 それは家族が惨殺されようとも果たさんとする非情の誓い。

 世界を数学で捉える彼らだけが理解し合える、冷たくて残酷な、しかし誰よりも深い友情の誕生であった。


「今日ここに来られなかったレーダー元帥やホト上級大将らも、我々の協力者だ。他にも水面下で同志を集めている」

 カナリスの言葉に、グーデリアンが短くなった葉巻を灰皿に揉み消してチクリと釘を刺した。

「同志が増えるのはいい事だ。しかしながら、我々が摘発されるわけにはいかん。A班とB班が顔を合わせるのは今日が最後だ……今後、計画が進展していけば、必ず誰かに尾行がつく」


「その通りだ。今後はそれぞれの立場で、ドイツ滅亡へのカウントダウンを少しでも遅らせることに専念してくれ」

 そして、この場に集まった将官や参謀たちは全員で、一つの盟約を結んだ。

 それは、シュミットの戦車大隊に対し、自らの職掌業務内での「最大限の協力と贔屓」を行うという事柄だった。

 新型戦車の優先配備、弾薬の補給、優秀な兵員の補充。

 なぜなら彼の大隊こそが、万が一の時に総統官邸を取り囲み、文字通り官邸もろとも総統を粉砕するための、B班の「確実な暗殺実行部隊」となるからだ。


「……総統不在となった後の、後継者問題が残りますが」

 カナリスが静かに懸念を口にする。


「分かっている」

 グーデリアンは重々しく頷いた。

「誰が次なる帝国の舵を取るのか……血を洗う権力闘争になるやもしれん。それに、誰があれほどの……『本物のアドルフ・ヒトラー』ほどのカリスマ性を発揮できるというのだ。だが……あの狂った素人に、国家ごとロシアの泥沼で心中させられる現状よりは遥かにマシだろう」

 そう言って、グーデリアンが琥珀色の満ちたグラスを掲げた。


「今ここで決められる事ではないがな」

 ルートヴィヒ・ベック上級大将が、静かに、しかし威厳のある声で引き継いだ。

「『狂気に陥った総統と、国を私物化した黒幕どもを、我々国防軍が排除した』という事実を国内外に公表し、西側諸国と名誉ある講和の道を探るのが適切だろう。……無論、帝国の解体や無条件降伏などには断じて応じないが」


 その言葉に、密室の同志たちは無言で頷く。

 だが、いつこの巨大な狂気を盤上から消し去ることができるのかすら分からない現状において、確固たる戦後の対外方針など、到底定められるはずもなかった。

 今はただ、目の前の破滅のシナリオを止めること。

 それだけが、彼らに課せられた絶対の至上命題であった。


 シュミット、シュタウフェンベルク、そしてカナリスたちもまた、己の命と帝国の命運を懸ける覚悟と共に、無言でグラスを合わせた。


 カチィン……。


 上質なクリスタルグラスが触れ合う澄んだ音が、密室に響く。

 それは、やがて大ドイツ第三帝国全土を揺るがすことになる巨大な反逆の嵐と、血塗られた暗殺劇の幕開けを告げる、静かなる号砲であった。


 狂った帝国を内側から破壊するための密談は、白み始めた夜明けの光がベルリンの街を照らすまで続いた。

 そして互いに視線を交わすこともなく、一人……また一人と、他人の顔をして夜闇に乗じて消えていった。

 

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