第39話 未来へ向けたシナリオ
1942年3月28日。
すべてを凍りつかせたロシアの絶対零度がようやく緩み始めると、大地は白から黒へとそのおぞましい本性を現した。
ズブッ、ズブズブッ……。
軍靴が泥に沈み込み、引き抜くたびに粘り気のある嫌な音を立てる。
ロシア名物、春の泥将軍(ラスプーチツァ)の到来であった。
雪解け水が広大な平原を巨大な底なし沼へと変え、戦車はおろか、馬車や歩兵の足すらも完全に吸い込んでいく。
そして、分厚い雪と氷の下に隠されていた、凍結していた何十万という両軍兵士の死体が溶け出し、一斉に腐敗を始めた。
むせ返るような死臭と腐敗臭が、春の生ぬるい風に乗って前線を覆い尽くしていく。
呼吸するごとに液体のように濃密に臭う、耐え難い腐臭が兵士の嘔吐を誘っていた。
地平線まで広がる恐ろしいほどの数で這い回るウジと、蠅の大群。
それがまるで蠢く黒い粘土のように、広大な大地を不気味に染め抜いていた。
物理的に軍事行動が不可能となるこの泥将軍(ラスプーチツァ)の時期、広大な東部戦線には自然発生的な、そして奇妙な膠着状態が訪れていた。
だが、前線の将兵たちが泥の海で息を潜め、束の間の静寂を貪っているその同じ時刻。
遥か後方、ベルリンの総統大本営の奥深くでは、次なる破滅へのシナリオが狂気と共に書き進められていた。
「モスクワはもうよい! 奴らの首都など後回しだ、次は南だ!」
分厚いコンクリートと防音壁に守られた密室に、ヒステリックな怒声が響き渡った。
眩い人工光の下、重厚なマホガニーの机に広げられた東部戦線の巨大な作戦地図。
その中央に身を乗り出し、血走った目で喚き散らしているのは、大ドイツ帝国の最高指導者たる「偽物のヒトラー」である。
ガリッ、ガリガリッ!
彼は太い赤鉛筆を握りしめ、地図の上へ大雑把に、あまりにも乱暴な二つの矢印を描き殴った。筆圧に耐えかねて赤い芯がポキリと折れ、高級な地図の表面を無惨に引き裂く。
「将軍どもは、毎日のように『燃料が足りない』と泣き言ばかり言ってくる! なぜ足りない! 燃料が足りなければ、資源地帯を丸ごと獲れば良いだろうが! この無能どもめ!」
口の端に泡を溜め、唾を飛ばしながら総統は叫んだ。
「陸軍は、これよりカフカスの油田地帯と、ヴォルガ河畔の交通の要衝……スターリングラードを同時に奪取する!」
その言葉が発せられた瞬間、部屋を取り囲むように座っていた陸軍参謀や高級将官たちは、一斉に息を呑み、絶望のあまり凍りついた。
重苦しい沈黙が降り下りる。
葉巻の煙が澱む空気の中で、誰かの唸り声と、引きつった喉で生唾を飲み込む音だけが異様に大きく聞こえた。
――狂っている。
将官たちの脳裏を占めたのは、ただその一言であった。
前年の冬、モスクワ前面での大敗走により、ドイツ国防軍はすでに数十万という精鋭の兵力と、数千両の装甲戦力をすり潰したばかりなのだ。
部隊の再建はおろか、泥濘で補給すらままならない現在の状況下で、さらに戦線を遥か南方へと数百キロも引き延ばす。
しかも、バクー油田という「資源」と、スターリングラードという「巨大都市」の二つの目標へ兵力を二分して同時攻略するなど、軍事学の基礎すら解していない狂人の妄言に他ならない。
「……そ、総統閣下。恐れながら申し上げます。カフカスへの進撃路はインフラが極めて乏しく、現在の我々のトラックでの輸送能力では、前線への兵站線が完全に破綻する危険性が――」
一人の参謀将校が、青ざめた顔で微かに反論を試みた。
「黙れッ!!」
総統は目を吊り上げ、折れた赤鉛筆をその将校の顔面に向かって投げつけた。
「兵站だと!? 貴様ら陸軍の臆病者どもは、数字と兵站の言い訳ばかりだ! 私の直感は、数字などという卑小なものを超越している! 意志だ! ゲルマン民族の強固なる意志さえあれば、スラブの劣等民族など鎧袖一触で粉砕できるのだ!」
もはや、誰も口を開くことはできなかった。
モスクワ敗退の責任を転嫁して前陸軍総司令官ブラウヒッチュを更迭し、自らが陸軍総司令官の全権を握ったこの「素人の偽総統」を、合法的に止めるブレーキは帝国のどこにも存在しない。
異を唱えれば即座に「反逆者」としてゲシュタポに連行されるだけだ。
地図の上に引かれた、不気味に分岐する二つの赤い矢印。
そもそもが、兵力に勝る相手に兵力を分散させるなどという作戦の愚かさは、教育を受けた兵ならば誰しもが理解できる事であった。
そして、二つの大目標を戦力を分散させて侵攻する……それは軍の限界を完全に無視した死への道標であった。
総統の頭の中では、チェス盤の駒を動かせば簡単に「油田」が手に入ると思い込んでいる。
しかし、軍を動かすというものはそんな簡単なものでは無かった。
後に大ドイツ帝国に致命傷を与え、東部戦線の泥沼へ何十万の将兵を生き埋めにすることになる夏季攻勢計画『ブラウ作戦(Fall Blau)』――――。
皮肉にも、ドイツ語で「青」という美しく清冽な名を与えられたその作戦名は、大ドイツ第三帝国を崩壊へと導いた呪いの言葉となる。
そんな狂気の震源地である首都ベルリンへ、ハインリヒ・シュミット少佐は呼び戻されていた。
「モスクワ前面での損害ゼロの撤退戦。そして新兵器による重戦車部隊の粉砕。夥しい数の撃破スコア……見事な戦功である、シュミット少佐」
新総統官邸の豪奢な謁見室。
磨き上げられた大理石の床に、巨大なクリスタルシャンデリアから人工的な黄金の光が降り注ぐ。
シュミットの首元に、最高位の武勲の証である「柏葉付騎士鉄十字章」の冷ややかな金属が掛けられた。
名誉ある総統からの直接授与。
幾多の将兵が夢見る最高の栄誉の瞬間であった。
しかし、不動の姿勢で完璧な敬礼を維持するシュミットの鼻腔を突いたのは、目の前の男から漂う無意味なポマードの香りと、病的なまでの消毒薬の匂いだった。
(……この男は、戦争の何たるかを全く分かっていない……直接会って確信した……偽物だ!)
シュミットは、数秒の対面で目の前の男の正体を完全に弾き出していた。
かつての総統であれば、シュミットの戦功を聞けば、すぐさまF2型のサスペンションの不具合や、主砲の諸元と戦果、新設された独立大隊の運用データ等……病的なまでの情熱で矢継ぎ早に質問してきたはずだ。
だが、目の前の男の瞳は空っぽだった。
戦場の流血にも、鋼鉄の兵器にも一切の関心がない。
ただ用意された原稿通りに将校を褒めそやし、威厳を取り繕っているだけの、哀れな操り人形。
(……距離、1.2メートル。右斜め後方にSSの護衛が2名。私がこの男の喉笛を引き裂くのに0.4秒。護衛が発砲するまでに1.2秒。相打ちならば、今ここで確実に殺せる……しかしながら武器は……無いか……)
青い瞳の奥で、どす黒い殺意の数式が組み上がるが、武器に出来るものは見つからなかった。
それに、今導き出した解は「否」だ。
今この男を殺しても、ボルマンか……或いはヒムラーが実権を握り、帝国はより凄惨な内戦へと突入するだけだ。
「はっ。すべては、総統閣下の偉大なる指導の賜物であります」
シュミットは感情を完全にシャットアウトし、一糸乱れぬ声で忠誠を誓って見せた。
胸元で銀色に輝く勲章の重みは、彼にとってはただの「くだらないデモンストレーションの鉄塊」でしかなかった。
授与式を終えたその足で、シュミットは陸軍兵器局の極秘会議室へと足を運んでいた。
部屋には紫煙が立ち込め、むせ返るようなタバコの匂いと、真新しいブループリント(青写真)のインクの匂いが充満している。
そこに集まっていたのは、奇才フェルディナント・ポルシェ博士をはじめ、ヘンシェル社やクルップ社の技術者、そして兵器局の技術将校たちだった。
「……以上が、IV号戦車F2型による実戦データだ。長砲身の威力は申し分ない。だが、問題は防御力にある。現在の垂直装甲のままでは、いくら装甲板を増厚したところでいずれ限界が来る」
カツカツカツッ!
シュミットは黒板にチョークを鋭く叩きつけ、T-34の傾斜装甲がいかに運動エネルギーを逸らすかという物理法則を、流れるような美しい数式で描き出した。
その姿はまるで、講義に没頭する物理学教授である。
「前線が求める次期主力戦車には、二つの道しかない。一つは、ソ連のT-34の設計思想を取り入れ、避弾経始を極限まで高めた『長砲身7.5センチ砲搭載の中戦車』。もう一つは、敵のあらゆる砲弾を正面から弾き返し、8.8センチ砲でアウトレンジから粉砕する『圧倒的な装甲を持つ重戦車』だ」
「少佐、君の要求スペックは現場の悲鳴としては理解できる。だが、8.8センチ砲を載せ、前面100ミリの装甲を施せば、重量は50トンを超える。トランスミッションが耐えられない!」
ヘンシェル社の技師が脂汗を浮かべて頭を抱えると、シュミットは冷徹に言い放った。
「マイバッハ製エンジンと転輪の配置を再計算すればいい。この自重に対しては、接地圧の分散にオーバーラップ式の転輪が不可欠になる。……T-34の群れを前に、我々には理論上『絶対に撃破されない鋼鉄の城』が必要なのだ。ソ連の工業力と設計思想を演算すれば、奴らは遠からず必ずF2を凌駕する鋼鉄の怪物を作ってくる」
シュミットはチョークを持ったまま、技術者たちを振り返り、微かに口角を上げた。
「『被弾傾斜に優れた中戦車』も、『絶対的な装甲を持つ重戦車』も、現在の帝国の技術力ならばどちらも不可能ではあるまい。さあ、もう一度避弾経始から計算をやり直すぞ」
単なる現場の野戦指揮官だと思っていた技術者たちは、揃って戦慄を覚えていた。
身の毛もよだつほど冷徹で、完璧な理詰めの要求……「技術的に不可能です」と言う言葉が通用しないのだ。
目の前にいる若き少佐は、単なる指揮官ではない。
極めて優秀な技師であり、数学者であり、そして徹底したテクノクラート(技術官僚)であった。
技術者たちは押し黙り、やがて取り憑かれたように設計図への書き込みを始めた。
シュミットがこの日、ベルリンの会議室に叩きつけた数式こそが、後に大ドイツ第三帝国を支える二匹の猛獣――ティーガーとパンターの原点となったことは、歴史には刻まれていない。
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