第38話 IV号戦車F2型
東部戦線において、絶望的な消耗戦が続く中。
東部戦線南部、ヘルマン・ホト上級大将直轄の防衛セクターにおいて、一つの「異常な現象」がソ連軍司令部を震え上がらせていた。
「距離1600。敵装甲部隊、T-34およそ20両……続いて後方に重戦車KV-1が5両」
凍てつく車内に、車長用ペリスコープを覗き込むハインリヒ・シュミット少佐の冷徹な声が響き渡った。
第199独立特務戦車大隊、大隊長車『301号車』。
それは、従来の短砲身IV号戦車ではない。
兵器局から最優先で秘密裏に回されたプロトタイプ、長大な43口径7.5センチ戦車砲 KwK40 L/43を搭載した『IV号戦車F2型』であった。
「風速、北北西から4メートル。気温、氷点下22度。空気密度による弾道低下を補正」
シュミットの脳内で、戦場のあらゆる事象が「数式」へと変換されていく。
これまでは、T-34の分厚い前面傾斜装甲を撃ち抜くためには、側面や背面に回り込むか、履帯を砕いて動きを止めるという、極めてリスクの高い幾何学的な機動防御を強いられてきた。
だが、今は違う。
彼の頭の中には、全く新しい、そして圧倒的な方程式が書き込まれていた。
(……長砲身から放たれる被帽付徹甲榴弾(PzGr.39)の初速 v0は 740 m/s。運動エネルギー E = 1/2mv²…劇的な向上により、距離1500メートルにおける装甲貫徹力は72ミリ。……T-34の避弾経始を考慮しても、限界点を完全に突破する)
「バウアー、全中隊に打電。本大隊はこれより、敵を『正面から』粉砕する」
「ヤーヴォール(了解)!」
無線手のフリッツ・バウアー軍曹が、徹夜明けの充血した目で電鍵を猛然と叩く。
大隊規模、約70両の戦車へ向けたシュミットの指令が、モールス信号となって雪原を駆け巡った。
前方から雪煙を上げて殺到してくるソ連軍の戦車兵たちは、絶対的な自信に満ちていた。
「距離1500! まだドイツの豆鉄砲は届かない! 一気に距離を詰めて蹂躙しろ!」
「車長!何か形が……初めて見るんですが……」
「バカ!変わるわけねぇだろ!」
彼らの知るドイツ軍の37ミリ砲や短砲身75ミリ砲では、この距離でT-34の装甲を抜くことは物理的に不可能だった。
彼らは「無敵の盾」を過信し、無防備に横腹すら晒しながら雪原を突進していた。
「愚かな…………」
シュミットの青い瞳が、双眼鏡の中で微かに細められた。
「第1中隊、目標、先頭のT-34群。……フォイア」
ドッガァドガァドガァァァァァァドガァァァンッッ!!!
一斉に放つ鋼鉄の『死』――――雪原を揺るがす凄まじい轟音が、連鎖的に弾けた。
大隊の最前列に陣取る第1中隊――ヴィルヘルム・ハルト少尉の率いるF2型の群れが一斉に長砲身の火を噴いたのだ。
マズルブレーキ(砲口制退器)から左右に強烈な爆風と雪煙が噴き上がり、放たれた高速徹甲弾が、音速を遥かに超える絶叫と共にソ連戦車群へと殺到した。
「なんだと!?」
ソ連軍の先頭車両の車長が悲鳴を上げた瞬間、そのT-34の前面装甲はまるで紙のように易々とブチ抜かれていた。
分厚い傾斜装甲も、強靭な鋳造鋼も関係ない。
物理法則を暴力的に書き換える圧倒的な運動エネルギーが、装甲を貫通し、車内へ致死的な金属片の嵐を撒き散らした。
積載されていた砲弾が次々と誘爆し、距離1500メートルという「絶対安全圏」にいたはずのT-34群が、一瞬にして十数本の巨大な火柱へと変わった。
『ハハハハハハッ!! 見たか、抜けやがる! 正面から抜けやがるぞォ!!』
無線の向こうで、第1中隊長のハルト少尉が狂信的な哄笑を上げている。
『新型ならいける!クソッタレのソ連野郎ども、俺たちの新しい鉄はどうだ! カスパル、次弾装填! 次の獲物だ!』
ソ連軍は大混乱に陥った。
触ったら死ぬ見えない壁にぶつかったかのように次々と味方が爆散していく。
彼らは恐怖の極みに達して、パニックを起こして散開しようとした。
だが、そこにはすでにシュミットの『片腕』が網を張っていた。
『第1中隊、突出するな。射撃線を維持しろ』
大隊副官のフランツ・クライン中尉が、冷たく厳格な声でハルトの暴走を統制する。
『シュナイダー大尉の第4中隊が右翼へ展開済みだ。敵が逃げ惑う経路は完全に包囲されている』
『……了解。クライン中尉殿の言う通りに動けば、効率よく殺せる』とシュナイダーが応じる。
かつて「死神の道標」と呼ばれた中隊を率いて、今はシュミットの麾下で副大隊長格を務めるカール・シュナイダー大尉の第4中隊が、側面から逃げ惑うT-34の履帯を次々と正確に撃ち抜いていく。
彼はシュミットに心酔して自ら熱望して志願したのだ。
さらに、混乱の極みにある戦場へ、アルフレート・グリム少尉率いる第3中隊が乱入した。
『ヒャッハー! 側面がガラ空きだぜ! ゼーリヒ、撃て!撃て!』
『任せろー!』
グリムの引き起こす予測不能な機動と、ゼーリヒの大雑把だが神がかった射撃が、ソ連軍の指揮系統を完全に崩壊させていく。
『おいグリム! 射界に入るな、死にたいのか!』と、防衛担当の第2中隊長ヨハン・シュタイン少尉が悲鳴を上げているが、第2中隊の砲手ゲオルグ・マイヤーは冷静に、雪煙の隙間を縫うようにして敵のバイザー(視察孔)だけを精密に撃ち抜いていた。
「少佐殿。敵の後続、重戦車KV-1が前進してきます!」
操縦手のカール・シュミット特務曹長が、エンジンの回転数を維持しながら報告を上げた。
43トンの巨大な質量を持つ重戦車KV-1。
これまでのドイツ軍にとっては、8.8センチ高射砲を水平射撃するか、歩兵が肉薄して爆薬を仕掛けるしか破壊手段がない、まさに「絶望の動く要塞」であった。
最大装甲厚は75ミリ。
いかに長砲身のF2型とはいえ、距離1000メートル以上では貫通を弾かれる可能性がある。
「慌てるな。……KV-1の装甲は垂直だ。傾斜装甲(T-34)のような複雑なベクトル計算は必要ない」
シュミットはペリスコープから目を離さず、砲手のハンス・ベルガー少尉に指示を飛ばした。
「距離1200。目標、KV-1先頭車両。……ベルガー、狙うのは車体ではない。砲塔の『砲身基部(防盾の付け根)』だ。垂直の75ミリ装甲に直角に当てれば、F2なら確実に抜ける」
「……了解。合わせます」
かつて時計職人だったベルガーの目が、照準器TZF5fのレティクルと一体化する。
微細なギアを調整するように旋回ハンドルを回し、巨大なKV-1の極小の弱点へと十字線を合わせた。
「撃て」
シュミットの静かな声と共に、301号車が大きく車体を揺らした。
放たれた一撃は、猛吹雪の空間を一直線に切り裂き、KV-1の巨大な砲塔の基部、最も装甲が垂直に切り立っている一点に狂いなく命中した。
ガギィィィィンッッ!!
硬質な金属音と共に装甲が叩き割られ、貫通した徹甲弾が砲塔内部で炸裂。
数秒後、KV-1の重厚なハッチから凄まじい火柱が噴き上がり、無敵の重戦車はただの鉄の棺桶と化した。
「ツィール・フェアニヒテト(目標沈黙)。次弾、右後方のKVへ」
ベルガーは表情一つ変えず、半自動垂直スライド式閉鎖機から排出された薬莢を蹴り飛ばした。
指揮官車が易々と屠られたのを見た残存のソ連戦車部隊は、ついに完全に戦意を喪失した。
逃げようとしているのか、それぞれがフラフラと迷走を始めた。
無敵の盾(装甲)が通用しない。
見えない距離から、絶対に撃破不可能なはずの重戦車(KV-1)すら紙のように撃ち抜かれる。
彼らにとって、それは今までの戦争(一方的な蹂躙)とは全く違う異次元の戦争であった。
黒煙を上げながら、生き残った数両のT-34が雪原を這うように東へ逃げ去っていく。
「……追撃は不要だ。大隊は現在の位置で防御陣形(イゲル)を再構築。弾薬と燃料の再計算を行え」
シュミットはハッチを開け、氷点下の外気に顔を晒した。
戦場には、数十両に及ぶソ連戦車の残骸が黒々とした墓標のように点在し、濛々たる黒煙が鉛色の空へと立ち上っている。
第199独立特務戦車大隊、損害ゼロ。
グーデリアンが遺した「鋼鉄の剣」と、シュミットの「神の数式」が完全に融合した結果であった。
「閣下。聞こえておられますか」
シュミットは車内インカムから、装甲指揮車にいるホト上級大将の直通回線へと切り替えた。
『ああ、見事なものだ、ハインリヒ。お前の大隊のセクターだけ、まるでモスクワからの敗走が嘘のようだな。見ろ、ソ連のブタどもが完全に腰を抜かしている』
ホトのくぐもった笑い声が聞こえる。
『これで、兵器局の連中もF2型の量産ラインをフル稼働させるだろう。春には、全軍にこの長砲身が行き渡る』
「ええ。しかしながら、凍結は防げません……何とかしませんと……」
『ああ……グーデリアンが再三上申していたやつだな……』
シュミットの青い瞳は、燃え上がる敵戦車の残骸を通り越し、遥か西の彼方――ベルリンの総統官邸の地下深くを見据えていた。
――――いつか…総統の皮を被った偽物を殺す為に……。
1942年2月。
世界が未曾有の戦火に焼かれ、大ドイツ帝国が徐々に敗北の坂を転がり落ちていく中。
ふと、硝煙と死臭の立ち込める車上で、シュミットは数ヶ月ぶりに妻の顔を思い出した。
1939年に妻となったリーゼロッテは、戦場のあらゆる物理法則を完璧に演算するシュミットにとって、世界で唯一「計算が立たない」存在だった。
天然で、家事の段取りは悪く、何もない平坦な場所で転ぶ……。
あんな抜けた性格で、うまく近所に友達を作れているのだろうか。
死体と鋼鉄の残骸に囲まれた零下の地獄にあって、冷徹な演算装置たる少佐の脳裏に、ほんの数秒間だけ、愛らしい新妻の笑顔が浮かんでいた。
彼女の笑顔はシュミットの心になんとも言えない心の安寧を与えていた。
しかし、シュミットはそれを自覚することはない。
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