第37話 狂気の世界

 1942年1月。

 モスクワ前面に広がる果てしない雪原は、大ドイツ第三帝国陸軍にとって、世界最大にして最悪の墓標と化していた。

 前年12月初旬から開始されたソ連軍・シベリア師団による冬季大反攻は、モスクワの尖塔を視界に捉えていたドイツ軍の前線を、文字通り跡形もなく粉砕した。

 それは戦略的な後退などではない。ただの悲惨な「敗走」であった。


 猛吹雪の中で部隊の連絡網は寸断され、将兵たちは雪崩を打って西へ西へと逃げ惑った。

 部隊によっては100キロ、甚だしい箇所では250キロ以上も押し戻されている。

 彼らが辿った撤退の道程は、地獄の絵巻物そのものであった。

 補給線を絶たれ、底を突いた燃料。

 戦車の潤滑油はコールタールのように固まり、起動輪は凍りついて動かない。

 かつて電撃戦の主役としてヨーロッパを蹂躙したIII号、IV号戦車たちは、自爆処分すらままならないまま、ただの巨大な鉄屑として雪原に延々と放棄されていた。

 そして何より兵士たちを絶望させたのは、絶対的な「冬への無防備」であった。

 秋までにモスクワを陥落させるという上層部の狂った前提により、冬服は前線に届いていなかった。

 野戦服の裏に新聞紙を詰め込み、ボロボロの布きれを被って歩き続けた兵士たちは、次々と雪の中に倒れ伏した。


 ――――氷点下40度。


 殆どの液体が瞬時に凍結し、頑強な鋼鉄すら、その靭性を奪われていく極限の地獄。

 人間の脆弱な肉体など、数時間で命の火を吹き消される。

 道沿いには、青ざめた肌を硬直させ、大理石の彫刻のように凍死した戦友たちの死体が、折り重なるようにして放置されていた。

 死者を弔うために凍土を掘り返すスコップすら、弾き返されて使い物にならなかったのだ。

 だが、前線で何十万の将兵が文字通り血の涙を流し、氷の彫像へと変わっていくその同じ時刻。


 遥か後方、東プロイセンのラステンブルクに位置するヴォルフスシャンツェ(総統大本営)の地下壕は、異常な熱気と、かつてない狂気に支配されていた。

「将軍たちは臆病風に吹かれているだけだ! 戦車が動かぬと言うなら、兵士が戦えばよい! 空軍は何をしているんだ!?」


 重厚なコンクリートに守られた暖炉のある会議室。

 高級な葉巻の甘い煙と、淹れたてのコーヒーの香りが漂う暖かな密室に、唾を飛ばす激昂の声が響き渡った。

 巨大な作戦地図が広げられたマホガニーの机を両手で叩きつけ、血走った目で喚き散らしているのは、大ドイツ帝国の最高指導者たる「総統」である。

 だが、その男の瞳には、かつて数々の軍事的奇跡を起こした論理的な天才の面影は一切なかった。

 地図上の地形も、兵站線の限界も、気象条件も何も見えていない。

 ただ、自分の引いた赤い線が西へ押し戻されていることにヒステリーを起こしているだけの、素人の醜態であった。


 その総統の狂った剣幕に対し、一人の男が一歩前に出た。

 帝国元帥ヘルマン・ゲーリングである。

 軍の非常事態にもかかわらず、場違いなほど豪奢な特注の軍服に身を包み、胸元に無数の勲章を煌めかせた彼は、恭しく、だが中身のない自信を顔に分厚く張り付けて応じた。

「我が総統、空軍総司令官としてご報告いたします。……以前お話しした通り、空軍もロシアの凍土によるエンジン凍結には苦慮しておりますが……」

 ゲーリングはそこで一度言葉を切り、周囲の将官たちをチラリと一瞥してから、堂々たる声で嘘を吐き出した。

「それでも、我が誇るBf109、Me110、そしてJu87シュトゥーカの編隊が、ソ連軍の反攻を空から勇猛に食い止めている状況であります」

 それは、身の毛もよだつほどの虚言であった。


 実際には、猛吹雪と極低温による天候不順、機材の凍結により、空軍の航空機はまともに飛ぶことすらできていない。

 整備兵たちは凍りついた金属部品に触れ、皮膚を剥がしながら泣き叫んでいるのが現実だ。

 ……にもかかわらず、ゲーリングは己の保身と、総統の機嫌を取るためだけに、平然と絵空事のような楽観的見通しを垂れ流したのである。


「おお……そうか、空軍は戦っているか!」

 その虚言を完全に真に受けた総統は、まるで欲しかった玩具を与えられた子供のように顔を輝かせたかと思うと、次の瞬間、さらに顔を真っ赤にして周囲の陸軍将官たちへと怒りの矛先を向けた。

「ならば! なぜ空軍が勇敢に戦っているのに、陸軍は『後退』しているんだ! これは明らかに将軍たちの怠慢であり、裏切りだ!」

 総統は発作のように腕を振り回し、口角に泡を溜めて叫んだ。

「一歩も退くことはまかりならん! 臆病風に吹かれて撤退を口にした者は、階級を問わずすべて反逆者として処断しろ!」


 戦線の崩壊という冷酷な現実を前に、「偽物のヒトラー」は自身の軍事的才能への幼稚な思い込みを完全に暴走させていた。

 彼の中では、「自分の立てた完璧な計画を、無能な陸軍将官たちが邪魔をしている」という都合の良いストーリーが完成してしまっているのだ。

 そして彼は、この歴史的大敗北の責任をすべて陸軍上層部に押し付けるという暴挙に出る。


 すでに先日――――1941年12月19日。

 スケープゴートとして、陸軍のトップである陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥を冷酷に解任していた。

 青ざめて沈黙する元帥から一切の権限を剥奪したのだ。


 そして宣言されたのは絶望。

「これより、余が自ら陸軍総司令官として直接指揮を執る!」


 それは、大ドイツ帝国が致命的な破滅へと舵を切った瞬間であった。

 軍事の基本すら理解していない一介の素人が、陸軍の全権を握ったのだ。


 彼が前線へと下す命令は、ただ一つ。

 現場の兵站も物理的限界も一切無視した、「死守」という狂気の二文字のみ。

 かつて、電撃戦という革新的な戦術でポーランドを、フランスを、世界を席巻した無敵の大ドイツ陸軍。

 その栄光の神話は、いまや天才を気取る「中身のすり替わった」無能な政治家の妄想によって、絶対零度の墓場へと引きずり込まれようとしていた。


 暖かい暖炉の火が爆ぜる音だけが、絶望に沈む地下壕の密室に空しく響き続けていた。

 だが、全軍が地獄の底で崩壊していく中、東部戦線の一角にだけ、その地獄を力技でねじ伏せるような異常な「真空地帯」が存在していた。


 

 ハインリヒ・シュミット少佐率いる第199独立特務戦車大隊の防衛セクターである。

 彼はすでにホトの麾下にある。

「……第2中隊、陣地放棄。後退せよ。第1中隊、稜線の向こう側で待ち構えるT-34の群れを叩く。……目標距離1200。ハルダウン姿勢を維持し、稜線を越えた瞬間の車体底面を狙え」

 無線機から漏れるシュミットの冷徹な声は、この零下の地獄にあって、まるで精密機械のように正確だった。

 前方、純白の雪煙を上げて、シベリアの精鋭……白いT-34が殺到してくる。

 ソ連の戦車兵たちは、逃げることしか出来ないはずの、敗走するドイツ軍を狩る喜びに酔いしれ、無警戒に丘の頂上を越えた。

 その瞬間、彼らはシュミットが仕掛けた完璧な「死の罠」に飛び込んだ。


「まだだ…………現在距離1200。まだ撃つな。ハルダウン姿勢を維持――800まで引きつけろ。稜線を越えた瞬間の車体底面を狙え」


「今だ、撃て!」

 シュミットの号令と同時に、斜面の下に隠れていたIV号戦車を主軸とした装甲車両群が一斉に火を噴く。

 徹甲榴弾(K.Gr.rot.Pz.)が稜線に躍り出たT-34の、僅か20ミリしかない車体底面を垂直に貫く。

 底面には装甲の傾斜など関係ない。

 内部で炸裂した榴弾が、積載されていた76.2ミリ砲弾を誘爆させた。

 巨大な砲塔が火柱と共に浮き上がり、雪原がソ連戦車の肉片と鉄の残骸で塗り潰される。


 シュミットの方程式は、攻撃と同じ精度で「撤退」を組み込んでいた。

「ユーバーシュラーゲンデス・フォーゲーエン(尺取り虫機動)へ移行! 第3中隊が射撃で釘付けにしている間に、第4中隊が後退して援護陣地を構築しろ! 第1、第2は煙幕を展開、そのまま下がれ!」

 シュミットの指示は秒単位で更新される。


 各中隊はまるで一つの意思で動く細胞のように陣形を組み替え、T-34の群れを「死の回廊」へと誘導していく。

 追いすがるT-34が雪に隠れた対戦車壕に突っ込み、あるいは凍結した河川で氷を割り、自ら沈んでいく。 

 シュミットにとって、それは戦いではなく、ただの「演算結果の確認」に過ぎなかった。


 1月24日、スモレンスク近郊。

 鋼鉄の咆哮を上げ、黒い装甲列車がプラットホームに滑り込んだ。

 降り立ったホト上級大将は、呼び出しておいた少佐を前に、満足げな笑みを浮かべた。

「よくやってくれた、ハインリヒ。お前の大隊だけが、唯一この冬の敗北の例外だ」


「……お褒めにあずかり光栄ですが、これ以上の防衛は現状の火力では演算上のリスクが高すぎます。IV号戦車では、T-34を仕留めるのに多大なコストがかかりすぎるのです」


「ならば、これで解決しろ」

 ホトが顎でしゃくった無蓋貨車から、防水ターポリンが剥がされる。

 そこに積まれていたのは、冷徹なまでの機能美を湛えた鋼鉄の獣――IV号戦車F2型であった。

 長大な43口径7.5センチ砲。

 マズルブレーキが威圧的な影を落とす。


「……F2型」

 シュミットの青い瞳が、初めて熱を帯びた。

「グーデリアンが、お前のために用意してくれた置き土産だ。今日、俺はこれを受領する為だけにスモレンスクまで来る羽目になった……という事にしてある。……ファルシュを消す計画がある。それを言う為だけにここに来た」


「…………暗殺計画」

 シュミットはF2型の冷たい装甲に手を置いた。 

「まずはソ連だ。どうだF2は?無論、試作品だらけだがな」

 図面は頭の中で何度も反芻していた……計算は完了している。

 この長砲身があれば、もう泥の中を這いずり回る必要はない。

 敵の弱点を探すために戦場の端を歩く必要もない。


「これがあれば、戦場の物理法則を書き換えられる。私の計算では、春を待たずして奴らの戦線は一度麻痺する」

 シュミットの微笑みは、極寒の雪原よりも冷たく、そして鋭利だった。


「……閣下、命令を。この第199独立特務戦車大隊(schwere Panzer-Abteilung z.b.V. 199)…… グロース・ジッヘル・アプタイルング(大鎌大隊)を、適切に解き放って下さい」

 

 1942年2月。

 世界は、文字通り紅蓮の炎に包まれていた。

 前年12月のアメリカ合衆国の参戦により、戦火は欧州から太平洋へと燃え広がり、真の「世界大戦」へと変貌を遂げていた。

 極東では日本軍がマレー半島を破竹の勢いで南下し、難攻不落と謳われたシンガポール要塞が陥落。

 北アフリカでは「砂漠の狐」エルヴィン・ロンメル率いるドイツ・アフリカ軍団が反撃に転じ、大西洋ではカール・デーニッツのUボートの群れがアメリカ東海岸沿岸にまで出没して商船を沈め続けていた。

 だが、それらの華々しい戦果の裏で、大ドイツ第三帝国の主戦場たる東部戦線は、依然として死の泥沼にあった。


 シュミットの計算通り、ソ連軍の大反攻は1月末から2月にかけてようやく勢いを失い、戦線は膠着状態に陥りつつあったが、前線にはルジェフ突出部やデミャンスク包囲陣など、無数の歪な激戦区が形成されていた。


 何より致命的だったのは、ベルリンの玉座に座るファルシュ(偽ヒトラー)の狂気である。

 彼は陸軍総司令官の座を自ら奪い取り、前線の物理的限界を完全に無視した命令を地図上の線引きだけで乱発していた。


「死守せよ」

「一歩も退くな」


 その狂信的な言葉の代償として、何十万ものドイツ軍将兵が、補給もない零下の雪原で積み重ねられた土嚢のように死んでいった。


 かつての電撃戦の栄光は失われ、ドイツ国防軍は、ただ前線の将兵たちの「優秀な現場将校の戦術的機転と夥しい流血」のみによって、辛うじて崩壊を免れているという異常事態に陥っていたのである。

 

 

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