第36話 機甲の父の落日
1941年12月26日。
モスクワ南方、オリョールに位置する第2装甲軍司令部。
窓の外では、世界そのものを白く塗り潰そうとする猛吹雪が、獣のような咆哮を上げて吹き荒れていた。
執務室の重厚なマホガニーの机の上に、一枚のテレタイプ用紙が置かれている。
それを見下ろす第2装甲軍司令官、ハインツ・グーデリアン上級大将の顔には、激しい怒りと共に、深い無念が刻み込まれていた。
『ハインツ・グーデリアン上級大将を、第2装甲軍司令官の任から解き、総統予備役へと編入する』
それは、中央軍集団司令官ギュンター・フォン・クルーゲ元帥の具申を受け、ベルリンの総統大本営から直接下された事実上の「更迭命令」であった。
モスクワ前面での大敗北、そして前線の兵士を凍死から救うための無断での戦線後退。
それが、総統の『一歩も退くな』という狂気の死守命令に対する明確な反逆と見なされたのだ。
「……一歩も退くな、か。あの『空っぽの人形』が、よくも喚き散らしたものだ」
グーデリアンは、数日前にラステンブルクのヴォルフスシャンツェ(総統大本営)へ直訴に飛んだ日のことを思い返し、吐き捨てるように呟いた。
かつての総統であれば、凍結した地面の掘削限界や兵站の破綻を論理的に説明すれば、必ず最適解を導き出したはずだ。
だが、暖かい暖炉の前にいたあの男は、酒を飲みながら怯えた目で「砲弾を撃ち込んでクレーターを作ってそこに入れ!」と、物理法則も軍事の基本も無視したヒステリーを起こしただけだった。
あの中身のすり替わったファルシュ(偽物)と、その後ろで糸を引くボルマンやハイドリヒら権力の亡者どもが、今この瞬間も、何十万という誇り高きドイツの若者たちを零下の地獄に置き去りにし、すり潰している。
(……だが、今の私には奴らを止める手立てがない)
グーデリアンは重い革張りの椅子に深く腰を沈め、目を閉じた。
秋の泥将軍の中で、カナリスからの情報とシュミットの計算によって真実を知り、ホトと共に『殺しの約束』を交わした。
水面下で反撃の牙を研ぐはずだったが、モスクワの冬将軍と、偽総統の狂った戦争指導は、彼らの予想を遥かに超える速度で前線を崩壊させてしまった。
軍のシステムに縛られた将官である以上、更迭命令を下されれば、それに従いベルリンへ帰還するしかない。
コンコン、と――――正確なリズムのノック音が執務室のドアを叩いた。
「……入れ」
グーデリアンが声を絞り出すと、重い木製のドアが開き、一人の将校が姿を現した。
第1戦車大隊第3中隊長、ハインリヒ・シュミット大尉である。
彼の軍服は煤と油に汚れ、頬と額には極寒の撤退戦で負った榴弾の痛々しい痕が残っていた。
だが、その青い瞳に宿る冷徹な知性の光は、いささかも失われてはいなかった。
ソ連軍の大反攻が吹き荒れ、第2装甲軍の半数が壊滅状態に陥る中、師団の殿を務めながら「損害ゼロ」という異常な結果を叩き出して生還した、彼が最も信頼する『友人』。
「第1戦車大隊第3中隊長、ハインリヒ・シュミット大尉。出頭命令により参上いたしました」
シュミットは踵を鳴らし、完璧な角度の敬礼を見せた。
グーデリアンはゆっくりと立ち上がり、周囲に誰もいないことを確認すると、優しい父親のような笑みを浮かべて肩をすくめた。
「秋の泥の中で言ったはずだぞ、シュミット。他人がいない時に限って、我々は友人だ。友人に敬礼をする奴があるか」
「……失礼いたしました。私は、感情的変数の処理には少々時間を要するもので……」
シュミットが敬礼を下ろすと、グーデリアンはサイドボードからクリスタルグラスを二つ取り出し、今まで手をつけることの無かった、高級なコニャックを注いで手渡した。
「飲め、ハインリヒ。……撤退戦のコンバット・レポートは読んだ。損害ゼロとはな。相変わらず、お前の頭の中の数式には狂いがない」
「T-34の密集陣形に対する氷の荷重限界を計算しただけです。……ですがハインツ、私がここへ呼ばれた理由は、戦術報告を褒めるためではないはずだ」
シュミットの青い瞳が、机の上に裏返しに置かれたテレタイプ用紙を捉えていた。
「ああ。クルーゲの奴が私の撤退をベルリンへ告げ口しおった。……私は更迭された。明日、軍司令官の任を解かれ、後方へ送られる」
グーデリアンの重い言葉に、シュミットは無言でコニャックのグラスを見つめた。
その表情からは感情を読み取ることはできないが、グラスを持つ手が僅かに白くなるほど強く握りしめられている。
「この零下の地獄の中、クルーゲの奴はまだ歩兵を進めろと言う……主力小銃であるKar98kのボルトすら、凍りついて引けないのが分からんのか? T-34の群れの前に、撃てない彼らを出してどうするというのだ……! おまけに奴は、私の撤退戦への意趣返しとして、こちらへの物資を出し渋り始めた。あんなくだらない意趣返しのために、何千の兵が死んだ? 莫迦げた話だ……。クルーゲの無能に対抗する為に、『軍集団司令部の物資分配停滞につき、総統閣下の直接介入を期待する』と打電してやったよ。……もっとも、あの偽物からまともな返信など来るはずもないがな」
「私の計算でも、あのファルシュと黒服どもが、閣下のような『本物の軍人』をいつまでも前線に置いておくとは思えませんでした。いずれ政治的に排除されるだろうと……。しかし、早すぎる」
「そうだ。私はあの人形を引きずり下ろす前に、舞台から降ろされる。お前やホト、前線で血を流す男たちを置いて、私一人で安全な後方へ去らねばならん」
グーデリアンは血の滲むような悔しさを押し殺し、グラスを一気に煽った。
「だが、ただで去るつもりはない。ハインリヒ、お前をここに呼んだのは、秋に交わした『殺しの約束』のための、せめてもの土産を渡すためだ」
グーデリアンは引き出しから、あらかじめ用意してあった二つの分厚い革張りのファイルを取り出し、机の上に叩きつけるように置いた。
「持っていけ。私からの、最後の置き土産だ」
シュミットが一つ目のファイルを開く。そこには、国防軍最高司令部の印章が押された辞令が挟まれていた。
「……『ハインリヒ・シュミット大尉を、1941年12月26日付をもって少佐に昇進させ、新たに編成される独立重戦車大隊の指揮官に任命する』……」
シュミットが文章を読み上げ、静かに目を細めた。
「大尉という階級では、お前の数式は中隊規模の狭い盤面でしか機能しない」
グーデリアンは重々しく告げた。
「お前ほどの天才が、大隊長や連隊長の無能な命令に縛られて泥の中で死ぬのは、我々の計画に対する致命的な損失だ。少佐(大隊長)の権限があれば、お前は独立した戦術単位として、広大な戦域を自らの計算通りに支配できる。……私が更迭される直前、軍司令官権限で強引にサインした。クルーゲも今更これを覆すことはできん」
「……感謝いたします、ハインツ。私の演算領域が拡大すれば、生存率は飛躍的に向上します。ですが、現在前線で稼働できる戦車は……。それに重戦車とは?」
「二つ目のファイルを見ろ」
グーデリアンの言葉に促され、シュミットがもう一つのファイルを開いた瞬間。
常に冷徹な演算装置のようであったシュミットの目が、驚愕に見開かれた。
そこには、精緻な設計図面と、Heereswaffenamt(陸軍兵器局)の最高機密指定の生産スケジュール表が綴じられていた。
図面に描かれていたのは、現在のIV号戦車とは全く異なる、長大で凶悪な砲身を備えた新たな鋼鉄の獣だった。
「先月、開かれた『戦車委員会』で、兵器局の連中を前線に呼びつけてT-34の圧倒的な装甲を見せつけてやった。奴らもようやく、自分たちの設計思想の甘さを痛感したらしい」
グーデリアンは、図面を指差しながら、獲物を狙う狐のような鋭い笑みを浮かべた。
「現在、兵器局はクルップ、ラインメタル=ボルジッヒあたりに命じ、新型の43口径7.5センチ戦車砲(KwK40 L/43)の量産を急ピッチで進めさせている。これまでの短砲身(24口径)とは比較にならない、完全な対T-34戦闘用の長砲身砲だ。徹甲弾の初速は毎秒740メートル。計算はできるな、ハインリヒ?」
「……はい」
シュミットの脳内で、瞬時に巨大な方程式が組み上がっていく。
「距離1000メートルにおいて、装甲貫徹力は89ミリ。T-34の前面傾斜装甲を、避弾経始ごと真正面から完全に貫通できる数値です。単純には言えませんが……おそらくは……確かに……。なるほど、これならば、もはや敵の弱点を狙い撃つための危険な機動は必要ありません。正面から敵の装甲を無効化できる。……戦場の物理法則を書き換える、悪魔の杖です」
「その通りだ。この長砲身を搭載した『IV号戦車F2型』は、来年の春には第一陣がロールアウトする。……私は兵器局長官に直接掛け合い、生産される初期ロットの最優先配備先を、お前の新大隊に指定しておいた。お前の所にはプロトタイプを含めて他より一足早く届くはずだ。新型弾薬の優先補給枠も確保済みだ。先行試作車両が多くても、お前ならなんとかするだろう?…………『重戦車』とは人形(偽総統)の思いつきだ。いつもの癖だよ、無駄に名前を大仰にしたがる」
それは、機甲部隊の生みの親であるグーデリアンが、己の軍人生命のすべてを賭けて手配した、反逆のための最高の『剣』であった。
「閣下……いや、ハインツ。ご自身の立場が危うい中、これほどのリソースを私に……」
「前線で血を流す友に比べれば、書類にサインして役人を恫喝する手間など大したことではない。……それを持って、ホトの元へ行け。お前の新大隊は奴の直轄だ。お前のような天才をあいつに渡すのは癪だがな……」
グーデリアンはそこで一度言葉を切り、周囲の闇を警戒するように声を一層潜めた。
「……それと、シュミット。俺とホトは今後、『仲違い』をする。互いを罵り合い、軍内部で対立しているように見せかける。……いつか、あの偽物を殺すためにな」
グーデリアンは窓の外の猛吹雪に目をやった。
「ハインリヒ。この冬は、ドイツ軍にとって歴史上最も過酷な冬になるだろう。敵はT-34だけではない。あの狂った偽物の妄言に付き合わされ、前線はさらに後退するかもしれん」
グーデリアンは向き直り、シュミットの両肩を力強く掴んだ。
「……近いうちに必ずお前のもとに新型(F2型)が届く。それまでは、這いつくばってでも生き延びろ。お前の方程式で一人でも多くの部下を守れ!俺が居ない間のドイツを救ってくれ……」
それは、司令官としての命令ではなく、一人の無念を抱えた男から、友への悲痛な願いだった。
「……」
シュミットは、グーデリアンから受け取った二つのファイルを左脇にしっかりと抱え、グラスに残ったコニャックを飲み干した。
そして、感情を排した冷たい演算装置の目の中に、あの日、秋の夜に燃え上がったのと同じ、純粋で絶対的な「殺意の炎」を宿らせた。
「ええ。あの夜の約束は、いささかも変更されていません」
シュミットは、踵を揃え、今度はあえて、完璧な軍隊式の敬礼を行った。
「ハインリヒ・シュミット少佐、これより命を受けます。……あなたが残してくれた新型と階級は、大ドイツ帝国のために、私の数式に組み込ませていただきます。そして……ファルシュを私が必ず、葬ります」
「……ああ。頼んだぞ、ハインリヒ。まずは生き延びるんだ。武運を……」
グーデリアンは、万感の思いを込めて敬礼を返した。
執務室を出ていく若き少佐の後ろ姿を見送りながら、グーデリアンは深く、長く息を吐き出した。
自分が託したものが、彼をさらなる地獄の最前線へ突き落とすことになる。
それでも、グーデリアンは友の計算式に賭けるしかなかった。
1941年12月27日。
モスクワの雪原に、ドイツ機甲部隊の父であるハインツ・グーデリアン上級大将の落日が訪れた。
だが、彼がこの絶対零度のロシアの地に残した「少佐の階級章」と「長砲身の新型」という種子は、やがて来る春に、恐るべき反逆の牙となって芽吹くことになる。
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