第35話 撤退戦

 1941年12月6日。

 モスクワ前面のドイツ防衛線は、各所で崩壊を始めていた。

 前日より開始されたソ連軍・シベリア師団の冬季大反攻は、大ドイツ帝国陸軍の無敵神話を粉々に打ち砕いた。

 

 グーデリアンからは、事実上の攻勢中止と敵反撃への備えを命じる指示が届いていた。


 氷点下40度。

 オイルはコールタールのように固まり、銃の遊底は凍りつき、兵士たちは文字通り立ったまま凍死していく。

 周囲の友軍部隊が雪崩を打って後方へと敗走し、次々とT-34の群れに捕捉されてすり潰されていく中、ハインリヒ・シュミット大尉率いる第22装甲師団第1戦車大隊・第3中隊は、師団の殿(しんがり)という最も生存率の低い死地に立たされていた。

 だが、彼らが構築した防衛陣地には、狂気じみた静けさと、どこか幾何学的な美しさが漂っていた。


「……現在、中隊の稼働車両20両。全車、マイバッハエンジンのアイドリングを維持。油温ギリギリです」

 301号車(IV号戦車D型)の車内で、操縦手のカール・シュミット曹長が計器板を見つめながら報告する。

「よろしい。フリッツ、各小隊への命令を再度徹底させろ。これより本中隊はヒンターハングシュテルルング(後斜面陣地)を用いた遅滞戦闘に移行する」

 シュミットの青い瞳は、車長用ペリスコープ越しに真っ白な雪原を冷徹に見据えていた。

 彼が構築したのは、丘の稜線ではなく、その後方の斜面に戦車を隠す戦術だった。

 稜線を越えてこようとする敵は、一瞬だけ車体の下部を無防備に晒すことになる。

 

 それがシュミットの弾き出した「対T-34の方程式」であった。

『大尉殿! 稜線の向こうから来ます! 数は……馬鹿な、大隊規模です!』

 第1小隊長のクライン少尉から、悲痛な無線が飛ぶ。

 地響きと共に、純白の雪原の向こうから、V型12気筒ディーゼルエンジンのけたたましい咆哮が響き渡った。

 

 雪煙を巻き上げながら、雑に白い冬季迷彩を施されたT-34の群れが、圧倒的な質量で丘を駆け上がってくる。

「パニックを起こすな。数が多いほど、流体力学的な渋滞を起こす。……目標、稜線を越えた瞬間の敵車両。車体が上を向き、最も装甲の薄い車体下部(底面)が露出する特異点を狙え。引きつけろ」

 シュミットの冷ややかな声が、極限の恐怖に晒される乗員たちの神経を氷のように鎮めていく。

 

 ソ連軍の戦車兵たちは、敗走するドイツ軍を追撃する喜びに酔いしれていた。

 彼らは幅広の履帯で丘の頂上を一気に越え、眼下に広がるドイツ軍の背中を撃ち抜こうとアクセルを踏み込んだ。

 その瞬間である。

 稜線を越えたT-34の車体が斜面に乗り出し、長大な76.2ミリ砲が空を向いた。

 その、急勾配の稜線を乗り越える瞬間――――。

 被弾傾斜の恩恵を一切受けない、僅か20ミリ厚の戦車最大の弱点、『車体底面』が、待ち構える第3中隊の眼前に完全に曝け出された。


「今だ。フォイア!」

 シュミットの号令が無線網に響き渡った瞬間、凍てついた谷底から20門の砲が同時に火を噴いた。


 第3中隊の放った徹甲榴弾(K.Gr.rot.Pz)が次々と雪煙を切り裂き、稜線から腹を晒したT-34へと殺到する。

 分厚い傾斜装甲に守られていたはずの白い悪魔たちは、最も柔らかい下腹部を垂直に撃ち抜かれ、内部で炸裂した榴弾によって次々と火柱を上げた。


『ハハハッ! 面白いように抜きやがる!』

 第2小隊長ハルト軍曹のIV号戦車が、ハルダウン(車体掩蔽)の姿勢から次弾を放つ。

 本来、この短砲身の7.5センチ砲はT-34の前面装甲を撃ち抜くには威力不足だった。

 だが、至近距離から狙うハルトの射撃に死角はない。

 彼は敵の装甲が最も薄い起動輪や車体底面を射抜くことで、あたかも紙を裂くかのような手応えで、難攻不落のソ連戦車を次々と撃破していった。


「次弾装填を急げ! 敵が混乱している間にユーバーシュラーゲンデス・フォーゲーエンへ移行する! 第1、第2小隊は現在の位置で制圧射撃を継続。第3、第4小隊は後退し、次の稜線で援護陣地を構築しろ!」

 シュミットの方程式は、攻撃と同じ精度で「撤退」を組み込んでいた。

 

 ユーバーシュラーゲンデス・フォーゲーエン(尺取り虫機動)――――半数の部隊が射撃で敵を釘付けにしている間に、もう半数が後退して陣地を構え、役割を交代しながら後ろへ下がっていく、基本戦術の一つである。

 だが、この零下の地獄と敵の大攻勢というパニックの中で、それを完璧に実行できる部隊など、東部戦線広しといえども、そう多くは存在しなかった。


『第3小隊、後退完了! 射界クリア!』

『第4小隊、後退完了したっス! いつでも撃てます!』


「よし。第1、第2小隊、スモークディスチャージャー(発煙弾)展開! 後進、そのまま下がれ!」

 カールの絶妙なクラッチワークにより、301号車がガクンと車体を揺らし、履帯を逆回転させる。


 車体前面の装甲を敵に向けたまま、滑る雪原をバックで猛スピードで後退していく。

 煙幕の中から飛び出してきたソ連のT-34が、逃げるドイツ戦車を追って斜面を駆け下りてきた。

 だが、それはシュミットの「計算の範疇」だった。

『マイヤー、目標、追撃してくる敵の先頭車両。右側のケッテン(履帯)を切れ』


『了解。抜きます』

 後方の高所に陣取った第3小隊。

 神域の射撃手マイヤー伍長の覗くSfl.ZF 1照準器のレティクルが、猛進するT-34の右側起動輪に重なる。


 放たれた一撃が、走行中のT-34の右履帯を粉砕した。

 右側の推進力を失ったT-34は、左側の履帯だけが空回りを続け、凍りついた雪原の上で凄まじいスピンを引き起こした。

 戦車のスピンは乗用車などとは比べ物にならない鋼鉄の暴力である。

 そして、その巨大な質量が、後続のT-34の側面に激突する。

 

 ガシャァァァンッ!! ガキィーン!!という連続した金属が拉げる轟音と共に、ソ連軍の追撃部隊の先頭が自滅し、滑落していく。

 三台が狭い谷底で完全に身動きが取れなくなった。


『大尉殿ォ! なんか敵が勝手に事故起こして落ちましたぜ!』

 第4小隊のグリム軍曹が、相変わらず呑気な声を上げる。

「ゼーリヒ、谷底で転がって止まった的だ。放っておいてももう動けないだろうが……確実に脆弱部を抜け」


『ヤーヴォール!』

 グリムの強運とゼーリヒの大雑把だが正確な射撃が、絡み合ったT-34の弱点を次々と撃ち抜いていく。


(……敵の質量Mに対し、摩擦係数 μ が極端に低い。この路面状況で高速追撃を行えば、先頭車両の制御喪失が後続車両の不可避な連鎖衝突を招く。……計算通りだ)

 シュミットは、燃え上がるソ連戦車の群れを冷ややかに見下ろしながら、次の方程式を中隊無電に叩き込んだ。

「全車、現在の援護陣地を放棄。さらに500メートル後退し、凍結した河川の対岸へ渡れ」


 だが、ソ連軍の物量はこんなものではなかった。

 正面からの突破を諦めたT-34の別働隊およそ15両が、迂回ルートをとって第3中隊の側面に回り込んできたのだ。


『大尉殿! 右翼の森を抜けて、敵戦車が回り込んできます! このままでは河を渡る前に横っ腹を撃たれる!』

 フリッツが血相を変えて叫ぶ。


「好機だな……。カール、速度を落とせ。敵の機動ベクトルを、我々の側面ではなく前方へ誘導する。第2小隊、わざと隙を見せて右へ膨らめ」


『了解! 誘い込みます!』

 シュミットの意図を完璧に理解した中隊の戦車たちが、あえて退却の歩みを緩め、右側の防衛線を薄く見せた。


 好機と見たT-34の群れは、美味しいエサ(第2小隊)をめがけて猛スピードで雪原を斜めに横切り、ドイツ戦車の横腹を突こうと殺到する。

 彼らの進路の先には、雪に覆われた平坦な開けた土地があった。

 

 だが、そこは雪原ではない。

(……この時期のこの地域の氷の厚さは、平均して約45センチ。III号やIV号戦車の重量(約20トン)ならば、分散して渡ればギリギリ耐えられる。だが奴らは……重い)

 

 シュミットの青い瞳が、残酷な物理の結論を導き出す。

(……重量約27トンのT-34が、密集陣形で高速侵入した場合、局所的な氷への荷重限界を確実に突破する)


(……偵察済みの浅瀬は、最厚部で約45センチ。20トン級なら、一両ずつ十分な間隔を取れば渡れる限界値だ)

 一方、T-34数両を薄い中央部へ密集させれば破断する。

 そして、ソ連軍の戦車兵たちは、真っ白な雪に覆われて見えなくなっていた凍結した河の上を、ただの平原だと錯覚して全速力で踏み込んでしまったのだ。

 

 ソ連戦車部隊が河の中央に達した瞬間。

 ピキッ……バキバキバキバキッ!!!

 15両のT-34が密集した数百トンの質量に、氷の大地が悲鳴を上げた。

 無数の亀裂が稲妻のように走り、次の瞬間、凄まじい大音響と共に巨大な氷の板が崩落した。

 

 ソ連の戦車兵たちが悲鳴を上げる間もなかった。

 後続車は急制動をかけるが間に合わず、次々と亀裂の走った氷床へ雪崩れ込んでいく。

 水柱が上がり、重い鉄の塊が完全に水没するまで、数秒とかからなかった。

 後には、氷の割れた巨大な黒い穴と、ぶくぶくと浮かび上がる絶望的な気泡だけが残された。


「……単純な奴らだ……隙を見せる機動の戦車など怪しいと思わないのか……」

 シュミットは双眼鏡を下ろし、凍てつく吐息を漏らした。

「全車、追撃の懸念は完全に排除された。これより河川の安全なルート(氷の厚い浅瀬)を経由し、第22装甲師団の第二防衛線まで一気に後退する」


 ――――数時間後。

 猛吹雪を抜け、後方の安全な防衛陣地へと辿り着いた第1戦車大隊の将兵たちは、信じられないものを見るような目で「彼ら」を出迎えた。

 前線にいた師団の半分が壊滅し、多くの戦車が破壊されるか、あるいは凍りついて放棄されたこの凄惨な撤退戦の中で。

 

 ハインリヒ・シュミット率いる第3中隊は、弾薬庫を空にしながらも、完璧な隊列を組んで帰還したのである。

 12月3日に補充を受けた出撃時の車両数、20両。

 夜を徹して整備班が共食い整備を行い、前日まで動かなかった車両まで無理やり戦列へ復帰させていたのだ。


 そして、帰還時の車両数、20両。

 損害、完全にゼロ。

 残弾もゼロ。


 オイルの焼ける匂いと、車体にこびりついた硝煙を漂わせながら、鋼鉄の怪物たちは静かにエンジンを停止した。

 ハッチから身を乗り出したシュミット大尉の軍服は煤に汚れ、その顔は極寒で白く凍りついていたが、彼の青い瞳に宿る知性の光は、いささかも曇ってはいなかった。

「奇跡だ……逃げ回ったのか?」

 出迎えた大隊長ハンス・ヴェーバー少佐が、震える声で呟いた。


「いいえ、少佐殿」

 シュミットは敬礼をしながら、淡々と答えた。

「奇跡などという不確定要素は、私の計算には存在しません。これは単なる、演算結果です」

 中隊が示したコンバット・レポートには驚愕の数字が並んでいた。


 1941年12月6日――モスクワの雪原がドイツ軍の死体で埋め尽くされた大敗北の日。

 その地獄の底で、ハインリヒ・シュミット率いる第3中隊だけが、圧倒的な敵の物量を、数式によってねじ伏せ、「損害ゼロ」という異常値を叩き出したのである。

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