第34話 白い悪魔達

 1941年12月5日。

 カール・ツァイス製双眼鏡の分厚いレンズ越しに、ハインリヒ・シュミット大尉は「それ」を確かに捉えていた。

 灰色の重い雪雲の切れ間から、微かな光を反射して鈍く輝く黄金色のタマネギ屋根。

 モスクワの中心、クレムリンの尖塔である。

 距離にして残り数十キロ。

 今日のような吹雪ではなく、晴れた日であれば、前衛部隊の将兵たちの肉眼でも確認できるほどの距離まで、大ドイツ第三帝国陸軍は肉薄していた。

 あと一歩……。

 機甲部隊であれば本来数時間の距離だ。

 

 だが、その数十キロは、もはや月までの距離よりも遥かに遠く、絶対に到達できない絶望の空間へと変貌していた。

 気温はついに氷点下40度を記録した。

 すべての内燃機関は凍てつき、最後の一滴まで搾り取られた燃料タンクは乾ききっている。

 マイバッハエンジンの咆哮は絶え、前線の兵士たちは雪に掘った浅い塹壕の中で、凍傷で黒く壊死した指を抱え、ただ静かに凍死していくのを待つしかなかった。

 ドイツ軍の進撃は、ここで完全に停止したのである。


 刹那……凍てついた静寂を破り、モスクワ前面の広大な雪原から、地鳴りのような重低音が響き渡った。

 それは、ソ連軍による大規模な冬季大反攻の開始である。

 消耗しきったモスクワ防衛軍の残存兵などではなかった。

 極寒の環境下で戦うためだけに、ソビエト指導部が極東シベリアからシベリア鉄道で呼び寄せていた冬期戦のスペシャリスト――「シベリア・ディヴィジョン(シベリア師団)」の投入であった。

「前方に敵影! 白い! 雪と見分けがつきません!」


 301号車のキューポラの下で、無線手のフリッツ・バウアー伍長が悲鳴のような報告を上げた。

 シュミットがハッチから身を乗り出し、双眼鏡を構える。

 猛吹雪の向こう側から現れたのは、戦車兵にとって悪夢のような光景だった。

 真っ白な冬季迷彩を無骨に塗りたくられた新型中戦車『T-34/76(1941年型)』の群れが、雪煙を上げながら猛烈な速度でこちらへ殺到してくる。

 

 ドイツ軍のIII号、IV号戦車の細い履帯(ケッテン)は凍結したまま深い雪に埋まり、もがくようにしか動けない。

 だが、T-34の巨大で幅広な履帯がもたらす「圧倒的な接地圧の低さ」とクリスティー式サスペンションがもたらす優れた操作性で、雪の上をまるでスキー板のように滑走する機動を可能にしていた。

 

 さらに恐ろしいのは、戦車に随伴する歩兵部隊だった。

「右翼の森から敵歩兵! 馬鹿な、進軍の足音が全く聞こえなかったぞ!」

 真っ白な防寒着とフードに身を包み、足にスキー板を履いたソ連軍のスキー歩兵たちが、凍えて身動きすらとれないドイツ軍陣地の側面に、音もなく幽鬼のように忍び寄ってきたのだ。

 彼らが構えるPPSh-41短機関銃(バラライカ)が、毎分900発という恐るべき連射速度で火を噴く。

 7.62ミリトカレフ弾の弾幕が、夏服と変わらない軍服のまま凍えていたドイツ軍の歩兵たちを、次々と薙ぎ払っていく。

 冬用コートを着ている者もいるが、一部に過ぎない。

 反撃しようにも、ドイツ軍歩兵の主力兵装であるKar98k小銃のボルトは、凍りついて引くことができず、頼みの綱であるMG34機関銃も潤滑油が固着してまともに作動しなかった。


 一方的な虐殺。

 純白の雪原が、瞬く間にドイツ兵の鮮血で赤く染め上げられていく。

(……見事な作戦だ。環境に完全に適応した兵器と、気象条件を味方につけた戦術。盤面の支配権は、完全に奴らの手にある)

 しかし、シュミットの青い瞳に絶望はなかった。

 

 極寒の車内で、彼は冷徹な思考の歯車を最高速で回し始めていた。

 彼の指揮下にある第3中隊は、壊滅した他部隊からの生き残り車両と、わずかな歩兵の補充を受けて再編されていたが、まともに動く戦車は半数にも満たない。

 歩兵の補充といえば聞こえが良いが、要するに原隊が壊滅した歩兵が一時的に第三中隊に合流したに過ぎない。

 おまけに、旋回ギアの凍結により「砲塔が回らない」という致命的な欠陥を抱えたままである。


「各車、パニックを起こすな。敵のスペックに怯える必要はない。俺はいい加減、奴らの数値を把握し終えた」

 シュミットの氷のように冷たく、しかし絶対的な自信に満ちた声が、パニックに陥りかけていた中隊の無線網を支配した。

「T-34は車長が砲手を兼任する2人用砲塔だ。車長は照準器を覗き込んでいる間、外部の状況を一切把握できない。しかもキューポラ(車長用展望塔)すら無い。奴らは極端に視界が狭い『盲目の獣』だ。さらに、無線機が搭載されていない車両がほとんどだ。現に指揮官車の『手旗信号』でしか連携してないように見える。……フリッツ、歩兵小隊に伝達。MG34の機構部にこびりついた油を拭き取れ! 零下では油こそが作動不良の原因だ!」


「了解ッ! 機関銃分隊に伝達します!」

 シュミットは車内インカムに切り替えた。

「カール、砲塔が回らない以上、貴様の操縦がこの車の照準だ。履帯が滑ることは計算済みだ、摩擦係数の低下を逆算してクラッチを繋げ!」


「任せてくだせえ! エンジンは絶好調に唸ってますぜ!」

 操縦手のカール・シュミット曹長が、トランスミッションのギア鳴りを無視して強引にレバーを引く。マイバッハHL120TRMエンジンが咆哮を上げ、301号車(IV号戦車D型)が雪を軋ませながら、車体ごと目標へと向き直る。


「敵戦車群、距離800。機動を予測する。雪上を高速で滑走するT-34の旋回半径は、泥濘の時よりも広がる。第1小隊(クライン)と第2小隊(ハルト)は、敵が左に大きく膨らむ特異点を狙い撃て! 目標は車体側面ではない。スプロケット(起動輪)だ!」

 シュミットの命令は極めて論理的だった。

 真正面から撃ち合えば弾かれる。

 ならば、足回りを砕いて強制的にスピンさせ、弱い側面を晒させればいいのだ。


『第1小隊、目標、先頭の指揮官車! 起動輪を砕け!』

 クライン少尉の号令を受け、第1小隊のホフマン伍長がTZF5b照準器のレティクルを微調整する。

 IV号戦車の短砲身が火を噴き、被帽付徹甲榴弾(K.Gr.rot.Pz)が雪原を這うように飛翔した。

 グーデリアンが優先的に第三中隊に補給を回したのである。

 

 ガガァァァンッ!!


 砲弾はT-34の巨大な起動輪に直撃し、キャタピラの連結ピンを粉砕した。

 履帯が外れ、高速で滑走していたT-34は片側のキャタピラだけで強引に進もうとした結果、雪原の上でコマのように激しくスピンし、木にぶつかると、その無防備な車体側面を完全にドイツ軍側へと晒して停止した。


「ベルガー! 今だ!側面ターレットリング! 撃て!」

「フォイア!」

 ベルガー曹長の踏み込んだペダルが反応し、301号車の短砲身が咆哮する。


 放たれた次弾は、木にぶつかり停止したT-34の砲塔と車体の隙間――装甲の避弾傾斜が機能しない垂直の装甲帯――に吸い込まれるように命中した。

 遅延信管が作動し、車内に入り込んでから炸裂した徹甲榴弾が、T-34に積載されていた76.2ミリ砲弾を誘爆させる。

 真っ白な車体が内部から膨張し、巨大な砲塔が火柱と共に数十メートル上空へと吹き飛んだ。


「敵指揮官車、撃破! 指揮が乱れているうちに撃破しろ!」

 シュミットの予想を上回り、指揮官を失った残りのT-34はパニックに陥った。

 新兵が多く練度が低い部隊であったことなど、シュミットが知る由もない。

 無線がないため後続車は前方の状況を把握できず、視界の開けていない盲目ゆえに味方の残骸に衝突しそうになって急ブレーキをかけ、次々とスリップして雪原で立ち往生していく。


『ハハハハッ! 大尉の計算通りだ! 奴ら、面白いように滑って腹を見せやがる! マルティン、車体回せ! 獲物だ!』

 IV号戦車を駆るハルト軍曹の狂信的な笑い声が響く。

 

 彼の第2小隊も、シュミットの指示した「敵が滑る予測地点」にあらかじめ車体ごと砲口を向けておくことで、次々と白いT-34の足回りを砕き、横っ腹に徹甲弾を叩き込んでいく。

『大尉殿! 左翼の敵、なんかわかんねえけど群れなして窪みに突っ込んで、勝手に履帯外して身動きとれなくなってますぜ!』


 第4小隊のグリム軍曹から、相変わらず間の抜けた報告が入る。

 視界不良のT-34が、雪に隠れた自軍の対戦車壕に自ら突っ込んだのだ。

「よし。動けない敵はただの的だ。ゼーリヒ、確実にハッチの隙間を狙って仕留めろ」


『ヤーヴォール(了解)! いただきだぜ!』


 同時に、右翼の森から迫っていたスキー歩兵たちも地獄を見ていた。


『敵のスキー部隊、完全に機関銃の射線に入りました! 薙ぎ払えええッ!』

 油を拭き取られ、極低温下でもなんとか作動を取り戻したMG34機関銃の咆哮が森に響き渡る。


 シュミットの計算した、地形の起伏と積雪量によって、彼らが必ず通らざるを得ない「峡谷の出口」に設定された十字砲火のキルゾーン。

 そこに現れたソ連兵たちは、毎分900発の7.92ミリ弾の弾幕を正面から浴び、白い雪煙と共にバタバタと倒れ伏していった。

 シュミットの指揮下にある第3中隊の周辺だけが、まるでそこだけ別の物理法則が支配しているかのように、圧倒的な蹂躙劇を演じていた。

 絶対的な脅威であった白い迷彩のT-34は次々と鉄の墓標に変わり、音もなく迫っていたスキー歩兵たちは、自らの流した赤い血で雪原を染め上げている。

 寄せ集めの補充兵たちでさえ、シュミットの完璧な演算に組み込まれることで、恐怖を忘れ、精密な『シュミット』という一つの機械の歯車として最高のパフォーマンスを発揮していた。

「敵部隊、後退していきます! 追撃の起動音なし。我々の勝利です、大尉殿!」


 砲手のベルガーが、凍りついたヒーターの前で歓喜の声を上げた。

 数十分の死闘の末、第3中隊の防衛線は完全に死守された。

 戦車兵たちも、歩兵たちも、シュミットの異次元の指揮能力に心酔し、神を称えるかのように彼の名を呼んでいる。

 

 ――――だが。

 301号車のキューポラに立つシュミットの瞳は、足元に転がるソ連軍の残骸を一瞥しただけで、すぐに絶望的な鉛色の空へと向けられた。

 彼の耳には、フリッツの無線機が拾い続ける、前線全体からの悲痛な叫び声が絶え間なく流れ込んできているのだ。

『第4装甲師団、戦線崩壊! IV号戦車は凍結して半分も起動しない!敵の戦車部隊に側面を突破された!』


『第3自動車化歩兵師団より軍団司令部! 陣地が完全に包囲されている! 機銃が動かない!退却の許可を!』


『駄目だ! 総統大本営から「一歩も退くな」という死守命令が出ている! 退却すれば反逆罪で銃殺だ! 』


 ノイズと共に途切れる断末魔の悲鳴。


(……無意味だ)

 シュミットは、極寒の外気で顔を白く凍らせながら、冷え切った双眼鏡を静かに下ろした。

 彼がここでどれほど完璧な数式を組み上げ、敵の弱点を突いて局地的な勝利を得ようとも、それは数千キロに及ぶ広大な戦線の中の、ほんの小さな「点」での抵抗でしかない。

 

 彼の方程式は完璧だった。

 だが、大ドイツ第三帝国陸軍という巨大なシステム全体は、兵站の欠如と、狂ったトップの精神論によって、すでに完全に破綻しているのだ。

 隣接する師団が崩壊すれば、いずれ第3中隊も左右から完全に包囲され、すり潰される。

 

 局地的な戦術の勝利では、崩壊する戦略の波を押し返すことは絶対にできない。

 シュミットは、地平線の彼方に霞むクレムリンの尖塔を再び見つめた。

 それは、本物の総統が夢見、グーデリアンが目指し、自分たちが流血の対価として手に入れるはずだった「完璧な勝利」の幻影。

 

 その黄金色の幻は、絶望的な白い吹雪の中に、ゆっくりと、しかし確実に溶けて消えていこうとしていた。


「大尉殿……これから、どうしますか」

 操縦席のカールの震える声が下から聞こえた。

 シュミットは、首に巻いた薄いマフラーで口元を覆い、感情の消え失せた機械の目で前を向いた。


「機動可能な全車両に伝達。我々はこれより、独断で戦線を後退する」

「退却……ですか? しかし、死守命令が……!」


「死守命令など、狂人の寝言だ。俺の計算式において、これ以上の陣地死守は全滅を意味する……防衛戦だ……。戦わないわけじゃない……勝てる戦いをすべき場所に行くんだ。これからここにT34の群れが来るぞ」

 シュミットの言葉に、車内の乗員たちは息を呑み、やがて無言で深く頷いた。


 そして……同日。

 モスクワ前面の雪原で、無敵を誇ったドイツ軍の神話は完全に凍りつき、崩れ去った。

 第2装甲軍司令官であるグーデリアンから、事実上の攻勢中止と敵反撃への備えを命じる指示が届いた。

 そして、この絶望的な退却戦の中で、ハインリヒ・シュミットと彼の部下たちは、さらなる地獄を見ることになる。

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