第33話 零下の戦場
1941年11月下旬。
大ドイツ第三帝国が誇る「タイフーン作戦」は、モスクワを目前にして、完全に白く凍りついた地獄へと突入していた。
気温、氷点下38度。
それはもはや「寒い」という次元の気象現象ではなかった。
大気中のあらゆる水分が微細な氷の刃となって肺を刺し、吐く息は瞬時に凍って顔や胸元に真っ白な霜を形成する。
何より恐ろしいのは、兵士たちが着ている軍服だった。
偽総統(ウィリアム・パトリック)が「冬将軍が到来する前にソビエトは崩壊する」という素人じみた妄想を撒き散らし、それをOKWが手放しで賞賛した結果、冬季迷彩はおろか、まともな防寒着すらほとんど間に合っていなかったためである。
前線の将兵たちは、冬用に作られたわけではないウールの野戦服の下に、丸めた新聞紙や奪い取った民間人の毛糸のボロ布を限界まで詰め込み、ガタガタと震えながら塹壕や車内で身を寄せ合うしかなかった。
「……フリッツ、周波数を合わせろ。第2小隊と通信が途絶している」
中隊長車である301号車(IV号戦車D型)のキューポラの下で、ハインリヒ・シュミット大尉が白く濁った息を吐きながら命じた。
「は、はいっ……大尉殿」
無線手のフリッツ・バウアー伍長は、紫色に変色した唇を震わせながら、無線機のダイヤルに手を伸ばした。
極限の寒さで感覚が麻痺し、彼は無意識のうちに薄い手袋を外し、素手で金属製のダイヤルを回そうとしてしまった。
その瞬間。
「――っああああああっ!!」
フリッツの悲鳴が狭い車内に響き渡った。
極限まで冷え切った金属に素手で触れた結果、指先の皮膚がダイヤルに完全に張り付いてしまったのだ。
彼が反射的に手を引いたため、指の腹の皮膚が肉を伴ってベリッと音を立てて剥がれ落ち、露出した赤黒い肉から滲んだ血が、ダイヤルの上で一瞬にして凍りついた。
「馬鹿野郎、素手で鉄に触るなと言っただろうが!」
砲手のハンス・ベルガー曹長が怒鳴りながら、救急箱から汚れた包帯を引き出す。
「零下の地獄」である。
弾丸に撃たれる前から、兵士たちは凍傷で手足の指を黒く変死させ、ただ鉄に触れただけで皮膚を失っていく。
これが、ベルリンの玉座の上でぬくぬくと葉巻を燻らせている「偽物」がもたらした、無能な作戦計画の代償であった。
だが、絶望は肉体だけにとどまらなかった。
シュミットの視線の先、車外では操縦手のカール・シュミット曹長が、泥まみれの軍服で雪の上に這いつくばり、IV号戦車の車体下部で小さな焚き火を起こしていた。
「カール、油温はどうだ」
「駄目です、大尉殿! エンジンオイルが完全にねちっこい飴玉みたいに固まっちまってる! 下から直接炙って溶かさねえと、マイバッハのクランクシャフトがピクリとも動きません!」
カールが煤だらけの顔を上げて叫んだ。
ドイツの誇る精密機械は、この極低温下において完全に設計思想の限界を超えていた。
オイルや潤滑油は凍りつき、エンジンを始動させるためには、引火の危険を承知で戦車の下で薪を燃やすしかなかった。
光学照準器のレンズは曇った端から凍結し、ボルトや小さな金属部品は脆くなり、強打すれば破損するものまで現れ始めていた。
(……戦車が、戦車として機能していない)
シュミットは青い瞳を閉じ、脳内に展開された巨大な黒板を思い描いた。
戦場を精密な「数式」として処理する彼の方程式は、『戦車が入力された物理的操作通りに動く』という大前提の上に成り立っている。
アクセルを踏めば v の速度で前進し、ハンドルを切れば θ の角度で旋回する。
だが今、その数値は全て変数に変貌していた。
(機械が動かない。物理法則そのものが停止している。計算ができない……。俺の数式は……この零下の世界の前では無力だと言うのか)
天才戦術家の奥底に、かつてないどす黒い「絶望」が這い上がり始めたその時だった。
『敵襲!! 前方、雪煙の中から敵戦車! 距離1000!』
第1小隊のクライン少尉から、悲痛な無線が飛び込んできた。
シュミットがハッチから双眼鏡を覗き込むと、猛吹雪の向こう側から、悪夢のような光景が姿を現した。
真っ白な冬季迷彩を施され、雪原に完全に溶け込んだ『T-34』の群れである。
彼らは幅広の履帯で深雪をものともせずに進み、ドイツ軍の陣地へと殺到してくる。
これこそがソ連が極東から呼び寄せた冬期戦に慣れた、シベリア師団の反攻部隊だった。
「総員戦闘配置! エンジンを回せ! 暖機など気にするな、無理やりにでもクラッチを繋げ!」
シュミットの鋭い声が飛ぶ。
カールが運転席に飛び込み、祈るように24V電動セルモーターを回す。
重苦しい金属の摩擦音の後、マイバッハエンジンが黒煙を吹き上げながら、悲鳴のような駆動音を響かせた。
これでエンジンが始動しなければ、イナーシャ・スターターを使わなければならない。
これは手回し(電動の場合もあり)で重いフライホイールを高速回転させ、その運動エネルギーをクランクシャフトに伝えてエンジンを回す為、敵前でやるにはリスクがあった。
「第1小隊、左翼へ散開! 第3小隊は丘の稜線から狙撃姿勢をとれ! ベルガー、目標正面のT-34、徹甲弾装填!」
「装填よし! 目標捕捉……! 砲塔旋回させます!」
ベルガー曹長が旋回ハンドル(ターレットトラバース)に力を込める。
しかし……。
「……動かないッ!」
ベルガーが血走った目で叫んだ。
「砲塔旋回ギアのグリスが凍りついてやがる! ハンドルが岩みたいにビクともしねえ!」
シュミットは戦慄した。
砲塔が回らない戦車。
それはもはや機動兵器ではなく、死を待つ固定砲台に過ぎない。
「カール! 車体ごと回せ! 履帯で照準を合わせるんだ!」
「駄目です! 泥と一緒に凍りついた履帯が、地面に張り付いて……無理に動かせばトランスミッションが砕けます!」
シュミットの数式が、音を立てて崩壊していく。
旋回不能……機動不能……。
ただ目の前に迫る白いバケモノたちを、凍りついた鉄の箱の中から見つめることしかできない。
『大尉殿! 敵が撃ってきま――』
第1小隊の無線が、凄まじい爆発音と共に途切れた。
シュミットの視界の端で、クライン少尉の部下である314号車に、T-34の76.2ミリ砲弾が命中した。
(被弾角45度……浅い。しかも距離が遠すぎる。IV号戦車の装甲でも、あの角度なら助かるはずだ!)
シュミットの計算は正しかった。
しかしながら、それは常温であればの話だ。
だが、極限の零下に冷え切った鋼鉄に「低温脆化現象」が起きていた。
ガシャァァァァンッ!!
砲弾は浅い角度で装甲板を叩いた。
貫通こそ免れた――はずだった。
だが、極低温で脆さを増した鋼板には大きな亀裂が走り、内側から剥離した鋼鉄片が車内へ飛び散った。
巨大な鋼鉄の破片が車内に飛び散り、一瞬にして314号車は真っ赤な炎と黒煙を吹き上げるスクラップと化した。
「……装甲が……機能していない……」
シュミットは無意識のうちに呟いていた。
装甲の避弾傾斜という物理法則すら、この寒さは否定したのだ。
次々と上がる味方車両の黒煙。
動かない砲塔。
凍りつく手足。
戦場を俯瞰し、万物を因果律で支配してきた天才の思考が、絶対的な「冬将軍」の前に白紙に還元されていく。
(俺は……ここで死ぬのか? この零下の地獄で……。いや、考えろ……考えなければ俺は部下と共にここで死ぬ……)
キューポラの縁を握るシュミットの手が、ミシミシと音を立てた。
その時、無線からノイズ混じりの、間の抜けた声が響いた。
『大尉殿ォ! なんか車体が動かないんで、砲塔じゃなくて砲身の方を蹴っ飛ばしたら、ちょっとだけ横に動きましたぜ!』
第4小隊という「不確定要素」、グリム軍曹だった。
『ゼーリヒ! お前の勘で適当に撃て! どうせ照準器なんか凍って見えねえだろ!』
『ヤーヴォール(了解)! 当たれえええっ!』
グリムの341号車(III号突撃砲)から放たれた砲弾が、凍気を切り裂いて飛翔し、信じられないことにT-34の砲塔の付け根にクリーンヒットした。
即座に敵戦車が火を吹き、動きを止める。
その瞬間、シュミットの脳内で、停止していた数式の歯車が再び暴力的な音を立てて回り始めた。
(……そうだ。物理法則が狂っているなら、変数として新しい方程式を組めばいいだけだ……まずは戦車という概念を捨てる!)
シュミットの瞳に、極寒の嵐を焼き尽くすような、底知れぬ殺意の炎が宿った。
「各車に通達! 砲塔の旋回を放棄しろ! 車体の機動も最低限でいい! 我々は今から戦車ではない。ただの『待ち伏せ用の対戦車砲』だ!」
シュミットは喉から血が滲むような声で、絶望の方程式を再構築していく。
「敵も同じ条件だ! あの幅広の履帯も、凍結した雪の上では旋回時に横滑りする! 距離を100メートルまで引きつけろ! 敵が横滑りして側面を見せた瞬間、車体を微動させて正面に捉え、固定した砲から徹甲弾を叩き込め!」
それは、機動戦を旨とする機甲部隊にとって屈辱極まりない、原始的で泥臭い戦術だった。
だが、もはや戦車戦の理論などどうでもよかった。
……生き残るためだ。
生き残りたければ、彼らはこの零下の地獄を耐え抜かなければならないのだ。
「カール! トランスミッションが砕けても構わん、車体を右へ15度向けろ!氷を割るんだ!」
「了解ッ! 砕け散れええええッ!」
カールが全体重をかけてレバーを引き、ペダルを踏み込む。
バキバキと氷を砕く凄まじい音と共に、301号車が強引に車体を回した。
「ベルガー! 砲塔は固定だ! 俺がタイミングを叫ぶ。敵が射線に入った瞬間に引き金を引け!」
「任せてくだせえ大尉殿! こいつだけは引いてみせる!」
シュミットはハッチから半身を乗り出し、吹きつける氷の刃に顔を切り裂かれながらも、双眼鏡で白い悪魔の動きを凝視した。
敵のT-34が雪原を滑りながら、わずかに車体を旋回させる。
履帯が滑り、脆弱な側面装甲が、301号車の固定された主砲の射線と交差する、そのコンマ数秒の特異点。
「今だッ! フォイア!!」
ベルガーの踏み込んだペダルが、IV号戦車のKwK37 L/24短砲身を咆哮させた。
放たれた砲弾は、吹雪の中に一筋の赤い軌跡を描き、T-34の車体側面に突き刺さる。
装甲を貫通し、内部の弾薬に引火した巨大な爆発が、雪原を真っ赤に染め上げた。
「……次弾装填!」
シュミットの声は、戦闘の狂気の中で極限まで冷え切っていた。
被害は甚大だ。
第3中隊の戦車は次々と凍りつき、破壊され、乗員たちは凍傷に呻いている。
完全な敗北……戦死者も多い。
泥濘よりも恐ろしい「冬将軍」という大自然の暴力が、ドイツ軍の無敵神話を完全に打ち砕いていた。
だが、燃え上がる敵戦車の炎に照らされたシュミットの横顔には、もはや絶望はなかった。
あるのは、自分たちをこんな地獄に準備も無く放り込んだベルリンの上層部と、あの男に対する、凍てつくような純粋な殺意だけだった。
(俺は……あの男(偽総統)を殺す……!)
氷点下38度の吹雪の中で、天才戦車兵の狂気は、静かに、そして誰よりも熱く燃え上がり続けていた。
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