第32話 凍結の始まり

 1941年11月中旬。

 数週間にわたり大ドイツ帝国陸軍の進撃を完全に停止させ、すべての車輪と履帯を底なしの泥沼へと引きずり込んだ「泥将軍(ラスプーチツァ)」は、突如としてその様相を変えた。

 急激な気温の低下。

 氷点下を優に下回る冷気がロシアの平原を覆い尽くし、ドロドロだった黒土の大地を、一夜にしてコンクリートのような硬度を持つ凍土へと変貌させたのだ。


「泥が凍ったぞ! これで戦車が動けるんじゃないか?!」

 この凍結を前にしてドイツ軍の将兵は歓喜の声を上げた。

 これで再び戦車が機動できる。

 泥に沈んだ補給トラックが動かせる。

 モスクワへの最後の数十キロを、一気に駆け抜けることができる、と。

 だが、第22装甲師団・第1戦車大隊・第3中隊を率いるハインリヒ・シュミット大尉の青い瞳に、歓喜の色は微塵もなかった。

 彼が乗る中隊長車、301号車(IV号戦車D型)のキューポラから見下ろす大地は、確かに硬い。

 しかし、それは新たな絶望の始まりに過ぎない事をシュミットは理解していた。

(……摩擦係数が極端に低下している。凍結した轍(わだち)は履帯のグリップを奪い、サスペンションへの不規則な負荷を増大させる……これで戦車のサスペンションの負荷は増える……。さらに気温低下による空気密度の変化、装甲板の低温脆化現象。……凍結は泥濘よりもさらに悪質な数式に変貌した……)

 シュミットの脳内で、中隊20両の機動ベクトルと、環境変数を用いた巨大な数式が凄まじい速度で組み上げられていく。

「全車、暖機運転の状況は」

 インカム越しのシュミットの冷徹な声に、車内下部から操縦手のカール・シュミット曹長が応じる。

「マイバッハHL120TRM、V型12気筒、回転数安定しています。ですが大尉殿、オイルの粘度が上がりすぎています。トランスミッションの機嫌をとるのに、普段の倍の力でダブルクラッチを踏まねばなりません」

「問題ない。君の脚力と転轍のタイミングなら、誤差など同調できるはずだ。……フリッツ、各小隊へ伝達」


「は、はいっ!」

 過労で目の下に濃いクマを作った若き通信兵、フリッツ・バウアー伍長が、シュミットから流れるように発せられる戦術命令を復唱しながら、無線機を通じて各小隊へ送り始める。

 彼はシュミット大尉の意志を遅滞なく中隊全体に送り届けていた。


 その時。

 凍てつく平原の向こう、雪化粧をした白樺の森の境界線から、ドイツ人の思考では到達し得ない異形のシルエットが五つ、重低音を響かせて姿を現した。

 ソ連軍の誇る恐怖の新型中戦車『T-34/76』である。

 傾斜装甲(避弾経始)を極限まで計算し尽くした美しい幾何学的な車体と、IV号戦車の短砲身とは比較にならない長大なF-34型76.2ミリ戦車砲。

 距離1200メートル。

(……敵前面装甲の傾斜角θ = 60° 見かけの装甲厚は実数値の倍。我々のKwK37 L/24(7.5センチ短砲身)では、あの距離から正面装甲を貫通する確率は計算上ゼロだ)

 シュミットの目が複雑な思考の果てに細められた。

「正面からの撃ち合いは自殺行為だ。各車、散開。『機動』と『角度』で対応する……第1小隊は左翼へ展開、盾となれ。ただし被弾は許さん!回避しろ!第4小隊は右翼から回り込め。第2、第3小隊は、地形の起伏を利用して距離400まで肉薄しろ。敵の砲塔基部と側面履帯のみを狙え」

 命令が下った瞬間、20両の鋼鉄の獣たちが一斉に咆哮を上げた。

 中隊の「盾と槍」である第1小隊長、フランツ・クライン少尉(311号車)が、生真面目な声で復唱する。

『第1小隊、左翼へ機動!敵の初弾を誘う!』

 クラインの指示を受け、操縦手のフェルナー軍曹が絶妙なクラッチワークで凍った地面を蹴り前進する。

 

 直後、T-34の76.2ミリ砲が火を噴く。

『しまった!間に合わん!停止!』

 超音速で飛来した徹甲弾が、311号車の車体前面に命中。

 しかし、砲弾は車体前面の端部へ極端な角度で命中し、凄まじい火花を散らしながら、幸運にも虚空へ弾き飛ばされた。

『弾きました! 装甲に亀裂なし!』

 砲手のホフマン伍長が叫ぶ。

『よし、運が良かったな。敵の装填の隙を突く! 牽制!榴弾(Sprenggranate)、撃て!』

 第1小隊が敵のヘイトを完全に集めたその裏で、異次元の機動を見せる部隊があった。

 ヴィルヘルム・ハルト軍曹率いる第2小隊(IV号戦車)である。

『ハハハハ! 大尉の計算通りだ!マルティン、踏み込め!!』

 ハルトの狂信的な叫びに、操縦手シュルツがマイバッハエンジンの回転数をレッドゾーンまで叩き込む。

 IV号戦車は凍結した大地を文字通り滑るように爆走し、T-34の群れの懐へと潜り込んでいく。

『距離300! カスパル、やっちまえ!』


『おうよ!』

 砲手カスパルがペダルを踏み込む。

 IV号戦車の短砲身が火を噴き、放たれた徹甲弾が、T-34の起動輪とキャタピラの接合部を正確に粉砕した。

 履帯を吹き飛ばされたT-34は、凍った地面で無様にスピンし、その脆弱な側面装甲を晒け出す。


『側面もらったァ! 第4小隊、撃てェ!』

 無線から、第4小隊長アルフレート・グリム軍曹の間の抜けた、しかし異様に明るい声が響く。

『ペーター、滑ってる! 車体が右に滑ってるぞ!』

『わざとですって! この凍った地面って、こうした方が旋回早いっスから!』

 操縦手ヘスが、常識外れの機動で三号突撃砲を氷の上で横滑りさせる。

 現代人が見ればドリフト走行かと思うであろう横滑り。

 隊列を乱す無茶苦茶な機動だったが、結果的にそれは敵の予測照準を完全に狂わせた。

『ゼーリヒ、撃て! 今なら当たる!』

『了解(ヤーヴォール)! フォイア!』

 砲手ゼーリヒが、大雑把に照準器を覗き込んで引き金を引く。


 だが、グリムの持つ「偶然という名のバグ」は、戦場の物理法則すらねじ曲げた。

 放たれた砲弾は、スピンして停止しかけていたT-34の砲塔と車体のわずかな隙間


 ――砲塔基部の装甲が垂直になっている数センチの死角――へ、吸い込まれるように直撃したのである。

 内部の弾薬庫が誘爆し、T-34の巨大な砲塔が火柱と共に吹き飛んだ。

(……第4小隊の不確定係数は、相変わらず私の演算の範疇外だ……。だが、結果として戦術目標は達成された)

 

 シュミットは双眼鏡を下ろし、極めて冷徹な声で最後の指示を下す。

「フリッツ、第3小隊へ。目標、右翼奥の指揮官車両。シュタイン、位置はついているな」

 

 戦場から少し離れた、凍結した小川の窪地。

 そこには、ヨハン・シュタイン軍曹率いる第3小隊の突撃砲が、車体下部を完全に隠すハルダウン(車体掩蔽)の姿勢で、息を潜めて待ち構えていた。

『……大尉殿の言う通りだ。敵はこちらの窪地に気づいていない』

 かつての臆病者シュタインは、シュミットの数式への絶対の信頼から、もはや冷徹な狩人に変貌していた。

 操縦手ミュラーが、ミリ単位の微速前進で射撃の射線を確保する。

『マイヤー。敵のバイザー(操縦手用視認孔)だ。抜けるか』


『ここからなら抜けます。大尉殿の指示は完璧です』

 射撃手マイヤー伍長が、ツァイス製照準器(Sfl.ZF 1)のレティクルを、T-34の車体前面にある小さなスリットに合わせる。

 放たれた徹甲弾は、分厚い傾斜装甲を完全に無視しバイザー(脆弱部)を正確に撃ち抜いた。

 内部で炸裂した榴弾が、敵の指揮官車を沈黙させる。


「敵部隊、沈黙。近隣に車両の起動音なし」

 シュミットのヘッドフォンに、各車からの報告が次々と入る。

 たった数十分の戦闘。

 20両のドイツ装甲車両は、互いの役割を完璧な歯車のように噛み合わせ、怪物T-34の群れを「機動」と「局所的な物理破壊」によって蹂躙したのである。

 シュミットはハッチから半身を乗り出し、冷え切った空気を肺に吸い込んだ。


 301号車の砲塔内では、砲手のハンス・ベルガー曹長が、愛おしそうに照準器のダイヤルを布で拭いている。

「見事な動きでしたな、大尉殿。中隊の歯車は、今日も完璧でした」

「ああ。君の砲身のブレを抑えるタイミングと、カールのクラッチワークの同期精度は、実に芸術的だった」

 シュミットの言葉に、操縦席のカールが誇らしげに鼻を鳴らす音が聞こえた。

 だが、戦闘の熱が引いていくにつれ、恐るべき冷気が再び鋼鉄の車体を這い上がり始めた。

 泥が凍り、機動力を取り戻した代償として支払うべき「凍結」という名の借金。

 エンジンの排気ガスが真っ白な蒸気となって虚空へ消え、転輪にこびりついた泥は石のように硬く凍りつき始めている。


「……フリッツ。軍団司令部から、冬季被服と不凍液の配給要請に対する返答はあったか」

 シュミットの静かな問いに、疲弊した通信兵――――フリッツは、震える声で答えた。


「『現在手配中につき、現状の装備で進撃を継続せよ』……とのことです」

 シュミットは、冷たいロシアの空を見上げた。


 彼の脳内に書かれた『タイフーン作戦』の数式は、すでに修復不可能なほど赤字で塗りつぶされている。

 部下を、あの狂った無能な玉座の主(偽物)が、狂った冷凍庫(冬のロシアの大地)の中へ放り込もうとしているのだ。

(生き残らねばならない。俺の方程式で、この仲間たち全員を……。そしてベルリンで、あのファルシュ(偽物)を排除する……その日まで)

 ハインリヒ・シュミットの奥底で、かつてないほど熱く、黒い殺意の炎が、凍てつくロシアの風の中で静かに燃え上がっていた。

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