第31話 寄り道の意味

 1941年9月26日。

 ウクライナの広大な黒土の大地は、凄惨な血の匂いと硝煙、そして見渡す限りの「鋼鉄の波」に覆い尽くされていた。


 キエフ大包囲戦の終結である。

 本来、モスクワへの一直線の進撃を企図していたグーデリアン率いる第2装甲集団は、ベルリンからの不可解な命令により、突如として進路を南へと変更させられた。


 モスクワに背を向け、数百キロ南下した彼らは、南から突き上げてきたフォン・クライストの第1装甲集団とウクライナ中部の町ロフビツァで固く手を結び、史上空前の巨大な鉄の網を完成させたのである。


 網にかけられたソ連南西方面軍は完全に壊滅し、司令官キルポノス大将も戦死。


 ドイツ側の発表では実に66万人――。


 一国の軍隊そのものに匹敵する信じ難い数のソ連兵が、うなだれ、果てしない捕虜の列を作って土埃の中を歩かされていた。


 この軍事史上の奇跡とも言える大勝利に、帝国の首都ベルリンは熱狂の渦に包まれていた。

 宣伝相ゲッベルスの放つプロパガンダは、ラジオや新聞を通じて昼夜を問わず勝利の美酒を国民に注ぎ込み、大ドイツ第三帝国の無敵神話を強固なものに塗り固めている。


 しかし、その熱狂から遠く離れたロシアの最前線には、すでに凍てつくような崩壊の予兆が忍び寄りつつあった。

 第2装甲集団の前線司令部として徴発された、壁の剥がれかけた石造りの農舎。

 その奥の薄暗い部屋で、ハインツ・グーデリアン上級大将は、一介の中隊長に過ぎないハインリヒ・シュミット大尉と二人きりで向かい合っていた。

 ドアの向こう側では、グーデリアンの優秀な幕僚たちが、訝しげな視線を交わし合っている。


 プロイセンの伝統が息づくドイツ国防軍において、階級とは絶対的な壁だ。

 軍司令官たる上級大将が、尉官クラスの若造を「個人的な友人」のように扱い、地図を広げて度々二人きりの密談に耽るなど、軍の常識では到底あり得ない異常事態であった。


 だが、密室の空気は、外の者たちが思うような親しげで楽しいものでは無く、想像を絶するほど重苦しいものであった。


「……私は自分の幕僚にすら、まだこの真実を話せんのだよ」

 ストーブで沸かした、焦げた麦の匂いがする代用コーヒーをすすりながら、グーデリアンがひどく疲れたように呟いた。

「閣下、それが賢明かと存じます。国家のトップがすり替わっているという致命的な情報を、不要な者に話せば、混乱と反逆の口実を生むだけです」

 シュミットは無表情のまま、冷えたコーヒーの入ったベークライトのカップを見つめて答える。


 その淡々とした口調に、グーデリアンは苦笑して眉間を揉んだ。

「シュミット……。何度言えば分かる? 他人のいない密室に限って、我々は友人だと言ったはずだ。友人に『閣下』と呼びかける奴がいるか?」


「……なかなかすぐには。善処します……ハインツ」

 シュミットがわずかに言い淀みながらその名前を口にすると、猛将の顔に束の間の柔らかな笑みが浮かんだ。


 だが、その笑みはすぐに消え去り、机の上に広げられた巨大な作戦地図へと鋭い視線が落とされた。

「間もなく、我々の軍集団を中核としたタイフーン作戦(モスクワ攻略戦)が発動されます。しかし……すでに破綻が確定しています」

 シュミットの指が、キエフから再び北東のモスクワへと不自然に折れ曲がった進撃路をなぞる。

「キエフを巨大な罠に閉じこめるため、我々の戦車は本来必要のない数百キロの迂回機動を強いられました。その結果、第3中隊のIV号戦車も突撃砲も、履帯のピンはすり減り、エンジンのシリンダーは焼き付きかけています。……つまり戦車の消耗が深刻なのです。大隊全体で見ても、稼働率はすでに六割を切っている。整備するにも、部品も燃料も足りない。……そして何より、致命的な『時間』を浪費しすぎました」

 シュミットの青い瞳が、残酷な未来の数式を読み上げるように細められた。

「本来の計画通りであれば、モスクワはとうに射程圏内だったはずです。しかし、キエフなどという無用の都市に妄執した結果、絶望はもうすぐそこまで来ています。底なしの泥濘、前面に立ち塞がるT-34の群れ、見えざるソ連の工業力。そして何より、すべての物理法則を停止させる『冬将軍』」

 シュミットはそこで言葉を区切り、チョークを手にとって壁の地図の端に乱暴な数式を書きなぐった。

「さらに計算を狂わせているのが、ルフトヴァッフェ(ドイツ空軍)です。ハインツ、ここ数週間の近接航空支援の稼働率を見ていますか?」


「……急降下爆撃機(スツーカ)の姿を見る日が、目に見えて減っているな……それについては何も連絡が来ないが……」


「出撃率はかなり落ち込んでいます。理由は明白だ。未舗装の大地が秋の雨で泥濘に沈んでいる……。我々陸軍の戦車が泥に沈むように、空軍の未舗装の野戦飛行場もまた、完全な泥の海と化している。爆装した機体は車輪を取られて離陸すらできず、整備兵は泥の中でエンジンの詰まりと格闘している。電撃戦の根幹であった『空と陸の立体機動』という方程式は、すでに崩壊しているのです……」


「……なるほど……野戦飛行場が機能していないのだな」

 グーデリアンはギリッと奥歯を噛み鳴らした。

「だというのに、ベルリンの分厚い絨毯の上を歩く『デブ』……あのゲーリング帝国元帥は、偽総統の耳元で甘い嘘ばかりを囁いている。『我が無敵の空軍が上空から泥濘の敵陣を粉砕し、前線の戦車部隊には空からいくらでも燃料を投下してご覧に入れます!』とな。兵站線の限界も、泥濘の現実も知らぬ素人同士が、互いの妄想を事実だと信じ込んで慰め合っているのだ」


「偽物の総統は、軍事の素人ゆえにその虚言を鵜呑みにする。……最悪の悪循環ですね……」

 シュミットは心底軽蔑したように、冷たく吐き捨てた。


「本物の総統閣下であったなら……あの方ならば、ゲーリングの妄言など即座に見抜き、空軍が飛ばせない泥濘期に強行軍を命じるような愚は犯さなかったはずです。我々の機甲部隊に十分な燃料と予備部品を最優先で安定した陸路から配給し、凡庸な包囲戦ではなく、真の電撃戦を指示してくれたはずだ。キエフの66万人を囲む暇があったのなら、モスクワの背骨を砕くことは十分に可能でした」


「ああ。だからこそ、俺はモスクワへの直進を強く進言したのだ! だが、OKW(国防軍最高司令部)のバカどもと……今の玉座に座るあの『偽物』は、目の前にあるキエフの兵力と、ウクライナの資源を優先した。『北も南も中央も、すべてを同時に手に入れる』ための戦争だというわけだ」

 その時の、偽総統のヒステリックな怒声を思い出し、グーデリアンは無念さに拳を握りしめた。

「すべてを手に入れようとして、結果的にすべてを失う。……彼らは『資源』と『時間』という最も基礎的な変数の上限すら、少しも計算しないのだろうか」


「本来なら、我々は今頃その完璧な作戦を実行に移していた」

 グーデリアンが笑って同意する。


 二人の頭の中には、実現しなかった「完璧なモスクワ攻略の方程式」が、幻影のように共有されていた。

「OKWの連中は、もはや偽総統の狂った命令を追認するだけのスタンプ機関に成り下がっているのですね」

「その通りだ。あの連中は、総統が軍事の素人だということに薄々気づいているくせに、自己保身からそれに乗っかっている。連中の頭の中は、いまだにフランス戦の成功体験で止まっているのだ。舗装された道路を走り、空からはスツーカが的確に援護してくれる短距離電撃戦が、この広大な未開の地で通用すると信じ込んでいる」


「兵站の意味も、空軍の限界も、ロシアの冬の恐怖も理解していない。……ハインツ、私が幾度も上申をお願いした、歩兵用の冬季被服や、車両のエンジン凍結防止装備の件はどうなりましたか?」

 シュミットの問いに、グーデリアンは深く、重い溜息を吐き出した。

「お前の上申はいつも『俺の言葉』として最優先にねじ込んでいる。だがな……OKWに却下されたよ。『まだ冬ではない』と一蹴された」


「馬鹿な……冬になってから冬の準備をするつもりか?この破綻した兵站線で……?」

 常に感情の起伏を見せないシュミットの顔が、この時ばかりははっきりと歪んだ。


 二人は揃って深いため息をつく。

「少しでも計算すれば分かるはずです。前線からの要請を受けて本国で生産し、空軍の輸送機が当てにならない以上、この泥濘の数千キロの補給路を陸路で運んでくるしかない。それにどれほどのタイムラグが発生するか。雪が降ってから手配したのでは、前線の兵士は凍死し、戦車は鉄の棺桶と化します」


「フランスとは比べ物にならない距離の兵站線を維持する、という意味が絶望的に分かっていないのだ。奴らは、馬匹を中心とした我々の歩兵部隊が、この泥濘の国で馬ごと泥に沈んでいく現状すら見ようとしない」


 薄暗い部屋の中に、どうしようもない無力感と沈黙が支配を始める。

 計算外の精神論。

 無能な上層部。

 摩耗しきった戦車。

 飛べない空軍。

 そして迫り来る大自然の猛威。

 すべての変数が、ドイツ軍を死地へと誘導している。


「冬が来て、全てが凍結してからでないと、奴らには分からんらしい」

 グーデリアンは冷めたコーヒーを一息に飲み干し、決意を固めたように軍帽を被り直した。

 その瞳に、猛将としての鋭い光が戻る。

「さあ……それが分かっていても、我々は戦わねばならん。モスクワに向けてな、シュミット」


「ええ。では、これより友人から、従順な部下に戻ります」

 シュミットは立ち上がり、非の打ち所がない完璧な姿勢で踵を合わせた。


「……本物の総統閣下であったなら」

 敬礼の姿勢のまま、シュミットがふと漏らした。


「ああ」

 グーデリアンは窓の外の鉛色の空を見つめ、幻の未来に思いを馳せるように目を細めた。


「君は今頃、私の幕僚たちと共に、陥落したクレムリンの跡地で、最高の勝利の美酒で乾杯していただろうよ」

 二人の密かな共有は終わりを告げた。


 ドアが開き、シュミット大尉が退出すると同時に、グーデリアンはいつもの厳しい司令官の顔へと戻り、幕僚たちを呼び入れた。

 間もなく、破滅の方程式である「タイフーン作戦」の幕が、絶望的な秋雨の中で静かに上がろうとしていた。


※アドルフ・ヒトラー賛美の描写がありますが、登場人物の思考であり、作者の思想とは関わりがありません。

 フィクションとしてお楽しみください。

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