第30話 殺人の約束

 暖炉の薪がパチパチと爆ぜる司令部の一室。

 コツ、コツ、コツ。

 乾いたチョークの音が響いていた。

 ハインリヒ・シュミット大尉は、黒板にソ連の怪物『T-34』の装甲厚や避弾経始に対する「最適解(履帯と背面への集中攻撃)」を、幾何学的な数式のように書き出し、感情の交じらない声で淡々と戦術報告を終えた。


 その完璧すぎる演算と実戦での証明に舌を巻くグーデリアンに対し、シュミットはチョークを置き、静かに、しかし明らかに何らかの逡巡を見せていた。

 ただの戦術報告ではない。

 その瞳の奥にある異質の光を察したグーデリアンは、周囲の幕僚をすべて退席させると、「これで話せるか?」と小声で囁いた。

「閣下。前線の戦術レベルにおける解は以上です。……しかし、より上位の戦略レベルにおいて、現在、致命的な変数のエラーが発生しています」


「エラーだと? 補給のことか、シュミット大尉」

「いいえ。……ベルリンから下される、最高司令部の命令そのものです」


 シュミットは、かつて自分が本物の総統と謁見した際の記憶を語り始めた。

「私が以前、総統閣下と直接言葉を交わした際、あの方はIII号戦車のサスペンションの限界荷重や、次期主力戦車の要求スペックを、小数点以下まで正確に把握し、恐るべき論理的思考で電撃戦の戦術を構築されていました。……あの方は、私と同じ……分かるのです。同類とはそういうものです。総統は『数式で世界を見る』類の天才でした」

 シュミットの青い瞳が、グーデリアンを真っ直ぐに射抜く。

「ですが、現在のモスクワへの命令、そして兵站を完全に無視した進撃路の指定。これらはすべて、軍事の基本すら理解していない素人で『感情』に基づいています。計算では無い。平凡で冷徹なOKW(国防軍最高司令部)の思考とも違う。……閣下。私がかつて忠誠を捧げた『総統閣下の演算能力』と、現在の命令の思考は、論理的に絶対に繋がりません。同一人物の思考回路としては、100パーセント破綻しています」


「お前は……自分が何を言っているのか分かっているのか、シュミット」

 グーデリアンの声が低く震えた。


 それは反逆罪を疑う怒りではなく、一介の大尉が、純粋な「計算」だけで自分たち将官が抱いていた疑念の核心――『総統は偽物である』に辿り着いたことへの、戦慄に近い驚愕だった。

「計算が合わないのです、閣下。……玉座に座っているあの男は、私の知る天才(総統)ではありません」

 シュミットからの「致命的な変数のエラー(総統の異常)」という報告を受け、外の雨音だけが聞こえる完全な密室に、怒号が響き渡った。


「貴様、自分が何を口走ったか分かっているのか!」

 グーデリアンは机を激しく叩き、猛将としての凄まじい威圧感でシュミットを怒鳴りつけた。

「総統閣下を愚弄する反逆罪だ。ゲシュタポに引き渡せば、お前だけでなく第3中隊の部下たち全員が銃殺刑になるのだぞ!」


 それは本気の脅しであった。

 彼がカナリスから得た真実を知らないふりをして、シュミットが少しでも狼狽えたり、あるいは不審な誘導尋問を仕掛けてきたりしないかを見極める、命がけの「踏み絵」だった。


 しかし、シュミットは眉一つ動かさなかった。 

 グーデリアンの圧倒的な圧を真っ向から受け止めながら、冷徹な声でさらに深く踏み込んでいく。

「引き渡していただいて構いません。ですが、私の計算ですと、閣下もすでにお気づきでしょう?……バルバロッサ開始時の補給限界点、冬将軍に対する兵站の欠如、そして現在の破綻した進撃命令。総統閣下がかつて見せた『兵站と機動戦への完璧な理解』が、いつの時点から『狂ったわがまま』にすり替わったか。……閣下は、とっくに気づいておられるはずだ」


 シュミットは、自分の命の危険よりも「自分の導き出した計算式が間違っているはずがない」という絶対の自信を持って、グーデリアンの目を真っ直ぐに見据え返した。


 ――――沈黙。


 暖炉の薪が崩れる音だけが響き、張り詰めた糸が切れるかのような数秒間の後。

 グーデリアンの威圧的な態度が、ふっと氷解した。

 彼は深く、とても長く重い溜め息を吐き出し、重い体を椅子に沈めた。

「……お前という男は。その計算式のせいで、いつか必ず命を落とすぞ、シュミット……」

 それは、反逆者を糾弾する将軍の声ではなく、同じ絶望を共有する一人の「疲れ果てた男」の声だった。


「お前の言う通りだ。……玉座に座っているのは、ただの怯えた人形に過ぎん。そしてその後ろで、ボルマンと黒服どもが我々の帝国を食い物にしている」

 グーデリアンは机の上の電話を取ると、「私だ……来てくれ」と短く告げた。


 そして引き出しを開け、コニャックを三つのグラスに注ぐ。

 一つを自分に、もう一つを、ただの「大尉」に過ぎないシュミットに差し出した。

「だが、手が出せん。奴らはすでに国家のシステム自体を乗っ取っている。私一人でどうにかできる次元は、とうに超えてしまったのだ」


 続いて入室してきたのは、第17軍司令官ヘルマン・ホト上級大将であった。

 この日、ホトはグーデリアンの元を訪れていたのだ。

 今まで一切動じなかったシュミットの瞳に、この時ばかりは流石に驚愕の色が浮かんだ。

 グーデリアンが差し出したコニャックのグラスを、シュミットは静かに受け取る。

 彼の手は微塵も震えておらず、その青い瞳には、巨大な陰謀を知った者特有の恐怖や動揺は一切浮かんでいなかった。

 ただ、頭の中の巨大な黒板に、新たな、そして極めて難解な『変数』を書き加えているだけの、冷たい機械の目に戻っていた。

「ホト……、この男、自らの計算だけで玉座のファルシュ(偽物)に気がついたぞ」

 ホトが目を丸くし、小声で返す。

「バカな……大尉の身でか!」


「はい。……そして、私の計算では迂闊に手を出せないでしょう」

 シュミットが淡々と答える。

「操られているとはいえ、ゲシュタポと親衛隊はファルシュの隠蔽に全力を尽くすでしょうから」


「……手が出せん、か」

 グラスを見つめながら、グーデリアンは自らの弱音を反芻するように呟いた。


 軍のシステムが乗っ取られ、SSの監視網が張り巡らされている現状では、一個大隊や師団が蜂起したところで、瞬く間に反逆罪で処断されるだけだ。

 物理的な兵力差と政治的な盤面を計算すれば、勝率はゼロ。

 それはグーデリアンの頭脳が誰よりも正確に弾き出していた。

 シュミットはグラスを口に運び、焼けるようなアルコールを喉の奥へ流し込んだ。

 そして、グラスを机に置き、真っ直ぐに猛将の目を見据えた。

「そう……今は無理です。いかなる戦術を用いても、現在の盤面で奴らを討つ解は存在しません。……仲間を……閣下方には、水面下で信頼できる将官の仲間を集めていただきたい」


 氷のように冷たい声だった。

 しかし、その後に続く言葉には、狂気すら孕んだ絶対の確信が満ちていた。

 自らを認めてくれた本物の総統への忠誠が、底知れぬ殺意へと変貌しているのだ。


「君は大尉の身でありながら、我々上級大将に命令するか……」

 ホトが呆れたように、しかし可笑しそうに言うと、グーデリアンがニヤリと猛禽のような笑みを浮かべた。

「こんな国家の深淵を知っている大尉など……自らの知略だけでここに辿り着く尉官などいるものか!宜しい、シュミット……他人がいない時に限って、我々は友人だ……」


「その友人には俺も入っているんだろうな? ハインツ。宜しく頼むぞ、シュミット。……本物の総統が愛した、戦車の天才よ」


「はっ、光栄の極み!」


「バカ、友人に完璧な敬礼をするやつがあるか」

 グーデリアンが苦笑し、コニャックのグラスを掲げた。

「我々は戦場に行かねばならん。その間、奴らはベルリンで自らの力を増し続けるだろう……しかし、ファルシュの戦争指導は酷い。裏にいるであろうボルマン、ハイドリヒ、ヒムラー……この三人も戦争の素人だ。……手遅れになる前に葬らねばならん」とホトが低く唸る。

 

 それに答えたのは、明日の天気を予報するかのような、シュミットの淡々とした声だった。

「しかしながら、時が来たら……私が葬ります」

 グーデリアンは息を呑んだ。

 大尉は「戦ってみせます」とも「祖国を救います」とも言わなかった。ただ、時が来れば、自分が奴らを物理的に『葬る』という結果だけを口にしたのだ。


 その瞳の奥にあるのは、正義感ではない。

 自分を見出してくれた総統閣下という絶対的存在が、偽物という『唾棄すべき汚物』によってぐちゃぐちゃに踏みにじられたことに対する、純粋で絶対的な殺意だった。


「……フッ、ハハハハ!」

 グーデリアンは、気づけば腹の底から低く笑い声を漏らしていた。

 

 数ヶ月ぶりに、彼の肩から得体の知れない重圧が少しだけ軽くなった気がしたのだ。

 国家の絶望を前にして、この若き戦車兵はまったく絶望していなかった。

 ただ、いつか来るかもしれない『死刑執行の日』へ向けて、新たな方程式を組み始めただけなのだ。

「頼もしいことだ、シュミット。……ならばお前は、その時が来るまで、あの泥濘の中で絶対に生き延びてみせろ。お前の『数式』でな」


「了解しました、閣下」

 シュミットは完璧な角度で踵を合わせ、再び敬礼をした。

「だから友人だと言っているだろう……ハインツ、こいつは計算以外は学習しないのか?」


「はっ、こいつは嬉しくなると計算で頭を使いすぎてな……感情的な概念は、すぐに頭から消えるんだ」

 コンクリート造りの司令部の外では、相変わらず冷たいロシアの秋雨が降り続いている。


 大ドイツ帝国の崩壊という、誰も逃れられない巨大な破滅の足音が近づく中。

 ランプの薄明かりに照らされた密室の三人は、グラスを打ち鳴らし、誰にも知られることのない『殺しの約束』を静かに交わしたのだった。

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