第29話 海から陸へ

 1941年秋。

 バルト海の冷たい風は、海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督の軍服を容赦なく叩いていた。

 視線の先には、ドイツ海軍の希望そのもの――最新鋭戦艦『ティルピッツ』が巨大な影を落としている。

 その姿は圧巻だった。

 38センチ連装主砲塔が青空を切り裂き、気品を湛えた鋼鉄の装甲は、もはや芸術の域に達する威容を放っていた。


 その甲板に、総統の乗艦する連絡艇が接舷した。

 本来であれば、ここから総統の「狂気じみた情熱」が始まるはずだった。

 かつてのヒトラーならば、技術将校を捕まえては装甲厚の数値を秒単位で論じ、排水量と機関馬力のバランスについて何時間でも語り尽くしたはずだ。

 だが、現れた男――ウィリアム・パトリックは違った。

「……さっさと写真を撮れ。終わったら帰るぞ」

 男は波に揺れる甲板で足をもつれさせ、顔を青ざめさせている。

 たまたま主砲の旋回テストで低音が響いただけで、男はビクリと肩を震わせ、護衛のSS将校の後ろに隠れるようにして震えた。

「総統閣下、主砲の光学照準器の精度につきまして……」


 レーダーが技術報告を試みるが、男はそれを遮った。

「分かってる。そんな事は俺は全部知ってる。早く写真だけ撮れ」

 卑小な叫び。

 海軍の誇り高き大艦巨砲主義の象徴を前にして、この男の目はただの臆病な逃亡者のそれだった。

 冷たい潮風の中、レーダーは確信した。

 ――あの男の背中には、帝国を率いる指導者の重みが一切存在しない。

 中身は空っぽの……似ているだけの別人だ。

 

 数日後、ベルリンのOKM (海軍総司令部)に戻ったレーダーのデスクには、さらに絶望的な報せが積み上げられていた。

 潜水艦艦隊司令官カール・デーニッツが、青ざめた表情で執務室に駆け込んできた。

「提督、限界です。総統大本営から……信じ難い命令が下りました」

「言え」

 レーダーは重い声で促した。

「……Uボートを出せと。これは乗員の休憩や補給を考えないローテーションです。大西洋の通商破壊戦を徹底的にやれと……」

「馬鹿な!」


 レーダーは机を叩いた。

「今、Uボートは英連邦の生命線を断ち切る唯一の剣だぞ! こんな無茶な運用……今配置を変えれば、どれだけの犠牲が出るか計算すらできんのか!」


「彼らは……ベルリンの地下で、自らの保身しか考えていないのです……まるでUボートだけで戦況をいくらでも好転出来るかのように考えているようです……」


 デーニッツの言葉に、レーダーは深い絶望を覚えた。

 海軍の主力は今、港に縛り付けられたまま、錆びついて朽ち果てる運命にある。

 あの無知な「代役」によって。

 その夜、レーダーは決断した。

 このまま海軍だけで死ぬわけにはいかない。

 彼は最も信頼する海軍情報将校……ホフマン大尉を、深い夜の闇に紛れさせて走らせた。

 宛先は、唯一この狂気に気がつき、大本営でレーダーに「あの男は偽物です」と囁いた男……。

 

 レーダーはホフマンが退室した後、総統の呆れた言動を記録した報告書を、ゲシュタポの監視が及ばない暖炉へ放り込んだ。

「宣伝省の犬め……偽物の総統が艦艇の知識など皆無であるという事実を、完璧な広報術で塗り潰している」

 宣伝省のカメラマンが、今まさに「戦艦の視察に訪れ、将兵を激励する自信に満ちた総統」という映像を撮影している。

 だが、その背後で総統は、波の揺れにひどく顔を歪め、今にも倒れそうなのを親衛隊員に支えられているのだ。

 

 その姿が国民の目に届くことはない。

 ニュース映画として編集された暁には、その不調な姿はカットされ、かつての演説映像だけが加工された「強固な指導者」が映し出される。

「我々軍の上層部だけが知るこの『死せる総統』の真実が、いずれ帝国を墓場へ引きずり込むのだ」

 

 1941年、秋。

 大ドイツ第三帝国の首都ベルリン。

 国防軍情報部(アプヴェーア)の最深部に位置する防音化された執務室には、高級な葉巻の重い紫煙と、蓄音機から流れるワーグナーの『神々の黄昏』の荘厳な旋律が低く漂っていた。

 部屋の主であるヴィルヘルム・カナリス提督は、およそ軍の諜報トップには見えない、ヨレヨレの背広を着た背の低い初老の男である。

 一見すると少し疲れた市井の銀行員にしか見えないこの男こそが、ヨーロッパ中のあらゆる機密情報を掌握し、密かにナチス党の暴走と狂気を憎悪し続ける「老狐」であった。


「……つまり、あの方は『ティルピッツ』の主砲の口径すら覚えていなかった、と」

 カナリスは足元にすり寄る愛犬のダックスフントの頭を優しく撫でながら、革張りのソファーに深く腰掛ける男に静かな視線を向けた。

 対座しているのは、海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督である。

 プロイセン貴族の末裔であり、伝統ある海軍の長は、苦渋と屈辱に満ちた顔で深く頷いた。

「ああ。口径はおろか、装甲厚の数値や機関の馬力にも一切の関心を示さなかった。かつての総統閣下であれば、技術将校を何時間も質問攻めにするほどの異常な情熱を持っておられたはずだ。我々が辟易するほどのな……。それが……今のあの方は、ただ怯えた目で『主力艦は港から絶対に出るな』と繰り返すばかりだ……」

 レーダーはギリッと奥歯を鳴らし、吸いかけの葉巻を灰皿へ乱暴に押し付けた。

「カナリス。我々の知る『天才』は、もうどこにもいない。あの中身は空っぽだ。地中海戦略などの理詰めの議論すら全く成立しない……会話にならないんだ……。兵器への情熱も、大局的な戦略眼も、完全に失われている…………そして数少ない報告や会話の時間は、すぐにボルマンが邪魔をするんだ」

「ええ、その通りです、エーリヒ」

 カナリスは静かに、だが恐ろしいほど冷徹な声で応じた。

「私の部下たちからの極秘の報告でも、最近のゲシュタポの動きは異常です。エヴァ・ブラウンの周辺の記録が不自然に消去され、官邸の地下室には、身元不明のユダヤ人の少女たちが極秘裏に運び込まれ続けている」

「……なんだと?」

「お察しの通りです。ハイドリヒとボルマンの『黒服ども』は、我々の頭(ヒトラー)を『完全に別の操り人形』にすり替えるという、悪魔の所業を成し遂げたのですよ。そして今、総統の威光を傘に着て、軍を顎で使い、国家のすべてを私物化しようとしている」


 レーダー提督の目が驚愕に見開かれ、やがて激しい怒りに全身が震えた。

 海軍の誇り高き伝統が、そんな下劣な策謀によって港の泥水に縛り付けられているという事実に、彼の堪忍袋の緒はすでに切れかかっていた。

「奴らを……あの権力亡者どもを排除せねばならん。だが、海軍(我々)だけでは動けない。すでに軍港にもSSの不気味な監視網が敷かれ始めている」

 カナリスはダックスフントを抱き上げ、その青い瞳を刃のように細めた。

「ええ。だからこそ、『仲間』を集めるのです。……まずは『陸』。彼らもまた、最前線で同じ絶望を味わい、我々と同じ真実に辿り着きかけているはずですから。」

「『空(ヘルマン・ゲーリング帝国元帥)』はダメだろうな。奴らの仲間である可能性すらある……」


 同じ頃。

 ロシアの泥将軍(ラスプーチツァ)に沈み、底冷えのする前線司令部。

 徴発されたソ連のコンクリート造りの建物の内部に、隙間風と音を防ぐための分厚い天幕が何重にも張り巡らされていた。冷たい秋雨が外壁を叩く音だけが、絶え間なく響いている。

 第2装甲軍司令官ハインツ・グーデリアン上級大将は、ランプの薄暗く揺れる黄色い灯りの下で、泥に塗れ、一向に進まない進撃路の地図を血走った目で睨みつけていた。

「閣下。野戦郵便の配達と、少々の補充物資が到着しました」

 幕僚の事務的な声と共に、一人のみすぼらしい伍長がテントに入ってきた。

 泥と機械油にまみれた軍服を着た、どこにでもいる平凡な兵士だ。

 部屋の入り口の外には、相変わらず黒い制服を着たSSの歩哨が、無言でこちらに氷のような監視の視線を向けている。


「ご苦労。そこに置いておけ」

 グーデリアンが顔を上げずに苛立たしげに応じると、伍長は書類の束を机に置き、その一番上の受領書にサインを求めた。

 グーデリアンがペンを取ろうと顔を近づけた瞬間。

 伍長は外のSSの死角となる位置へ滑らかに身を滑り込ませ、周囲には絶対に聞こえないほどの、極めて微かな囁き声を落とした。

「……中央の『老狐』と、海の『長』からの伝言です」

 グーデリアンのペンの動きが、ピタリと止まった。

「――玉座の主は、すでに死に絶えた。我々は、見えない蜘蛛の巣を焼き払う必要がある、と」

 伍長は表情一つ変えず、ただサインされた書類を受け取ると、自然な敬礼をして部屋を出て行った。


 一人残されたグーデリアンは、泥に汚れた地図の上に両手を突き、長く、深い息を吐き出した。

(……やはり、そうか……海も……)

 今まで彼を苦しめ、胃の腑を握り潰すようだった得体の知れない絶望と疑念の霧が、その一言で完全に晴れ渡った。

 総統は偽物だ。

 あの無能な人形の背後で、ボルマンたちが糸を引いているのだ。

 そして何より――SSの監視網という見えない蜘蛛の巣の中で、自分たちは決して孤独ではなかった。

 はるか後方のベルリンで、海軍と情報部が同じ真実に辿り着き、水面下で反撃の牙を研いでいる。

「……ホトよ」

 誰もいない部屋の中で、グーデリアンは暗闇に潜む虎のような、獰猛な笑みを浮かべた。

 それは、絶望に打ちひしがれた将軍の顔ではなく、巨大な標的を完全に見定めた「機甲部隊の父」の恐るべき顔であった。

「我々の『本当の敵』の正体が分かったぞ。……策を練らねばならん」


 暖炉はただ、静かに炎を揺らしていた。

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