第28話 海の夢の残骸
違和感という名の冷たい毒に気がついていたのは、ロシアの底なしの泥濘で苦闘するグーデリアンら陸軍の将官たちだけではなかった。
帝国の首都ベルリン。
ティルピッツ河岸沿いの重厚な石造りのOKM(海軍総司令部)の執務室で、大ドイツ帝国海軍総司令官エーリヒ・レーダー提督は、手元の書類から視線を上げ、深く、ひどく疲労の滲む溜息を吐き出した。
窓の外には鉛色の空が広がっている。
しかし彼の心を覆う暗雲は、あの玉座に座る「男」に対する疑惑によって、日に日にどす黒さを増していたのである。
「……提督。やはり、今月の造船所への鋼材割り当てが理不尽な規模で削減されています。党官房のボルマンが強引に横槍を入れてきたようです」
副官からの報告に、レーダーは眉間を深く刻み込んだ。
「またか。あの黒服……ヒムラーの手先どもめ……誇り高き海軍の聖域を、自分たちの裏庭か何かと勘違いしているのか」
レーダーの脳裏に、かつての総統の姿がフラッシュバックする。
ヒトラーは、戦車や航空機だけでなく、巨大な戦艦に対しても異常なほどの執着と愛情、常人が及ばない深い知識を持っていた男だった。
彼は艦船の排水量、主砲の口径と射程距離、装甲の厚さ、果ては機関の馬力に至るまで、海軍の技術将校すら舌を巻くほどの正確さで暗記していたのだ。
レーダー提督と共に「Z計画」などの壮大な建艦計画の図面を広げ、少年のように目を輝かせて何時間でも熱弁を振るう――それが、彼の知る「敬愛する総統」の姿であった。
だからこそ、時にその要求が強引で耳の痛いものであっても、レーダーは「軍備に深い造詣を持つ指導者の言葉」として、ある程度の敬意を払い、受け入れることができたのである。
しかし、先日の総統との会議は、思い出すだけでも悲惨で、空虚なものでした。
会議において、レーダーがUボートに搭載する新型魚雷の不具合や、主力戦艦の装甲板改修プランについて緻密な説明を行った時のことだ。
『……で? それはいつ終わるのだ。細かい話はどうでもいい!』
総統は専門用語をまったく理解できない様子で苛立ち、ひたすら退屈そうに酒臭に汚れたあくびを噛み殺して聞き流すだけであった。
かつてあれほど愛し、自ら嬉々として語り尽くした「鋼鉄の巨城」のディティールに対し、一切の興味を示そうとしない。
その酒に濁った眼差しは、レーダーの背筋に「中身が別人にすり替わっているのではないか」としか思えないほどの、不気味な悪寒を走らせていた。
狂いの兆候は、大局的な戦略会議の場でも如実に表れていた。
1940年から1941年にかけて、レーダー提督は幾度も総統に具申していた。
「ソ連を攻撃する前に、まずはイギリスの息の根を止めるべきです。ジブラルタルとスエズ運河を制圧し、地中海を我々の内海とする『地中海戦略』こそが、大英帝国を干上がらせる唯一の道なのです」と。
総統は、この提案を最終的に採用しなかった。
しかしながら、資源の確保や地政学的な観点から「なぜソ連を先に行うべきなのか」を理詰めで反論し、軍人としての高度な議論で応じていたのだ。
しかし、バルバロッサ作戦の直後から、総統は海軍の戦略的価値を完全に忘却してしまったかのように振る舞い始めた。
『とにかく東だ! 東へ進め! 陸軍の歩みだけが我が帝国の意志なのだ!』
地図を乱暴に叩き、ヒステリックに喚き散らすばかりの男。
そこに、かつて欧州の盤面を冷徹に見据えていた天才政治家の面影は微塵もなかった。
戦略の議論など、今の総統とは完全に成立しなくなっていたのです。
そして、レーダーの疑念を「確信」へと変える決定的な出来事が起きた。
1941年5月。
ドイツ海軍の誇る最新鋭の巨大戦艦「ビスマルク」が、北大西洋においてイギリス軍の執念とも言える集中攻撃を受け、波間に沈んだのである。
海軍にとって、そして帝国にとって、身を切られるような痛手であった。
だが軍人であれば……帝国の指導者であれば、どれほどの損害であっても冷静に戦果と要因を分析し、次の作戦への教訓として活かすのが責務である。
しかし、その報告を受けた総統の反応は、レーダーの目には「素人の狂乱」としか映らなかった。
『沈んだだと!? あのビスマルクが!? ああ……次は私の番だ! イギリス軍が私を殺しに来る!』
総統は蒼白になり、まるで亡霊でも見たかのようにパニックを起こしたのだ。
国家の象徴たる戦艦を喪失したことの戦略的損失には一切触れず、ただ「自分の権威の象徴が壊されたこと」への底知れぬ恐怖と、「次は自分が殺されるのではないか」という極端なまでの自己保身。
そして、震える声で信じ難い命令を叩きつけた。
『残存する大型水上艦艇は、絶対に港から出すな! いかなるリスクも冒してはならん!』
ポケット戦艦をはじめとする誇り高き残存艦隊に対し、海軍の存在意義そのものを否定するような「引きこもり命令」を下したのである。
この過剰反応と臆病さは、かつての総統が持っていた冷酷なまでの「果断さ」とは、まさに対極に位置するものだった。
極めつけは、SS(親衛隊)による海軍への露骨な政治介入である。
プロイセン時代からの貴族主義的で伝統的な気風が強いドイツ海軍は、陸軍以上にナチス党やSSの政治介入を極端に嫌悪していた。
ヒトラーも、海軍の専門性の高さとレーダー提督の面子を尊重し、軍港や造船所といった聖域へのSSの強引な介入は意図的に抑え込んでいた。
海軍という思想を理解しての気遣いであった。
しかし最近はどうだ。マルティン・ボルマンやハインリヒ・ヒムラーの息がかかった黒服たちが、我が物顔で造船所の資材割り当てに口を出し、あろうことか海軍将兵の思想調査まで強行するなど、異常なまでの介入を始めている。
そして総統は、それを咎めるどころか、無関心に追認しているのだ。
「……総統閣下。今のあなたは、一体誰なのですか……」
レーダー提督は、誰もいない執務室で一人ごちた。
あの権力の亡者どもが、無能な別人を総統の玉座に座らせ、傀儡として操りながら国家の私物化を企んでいるのでは無いか?
あの男は総統閣下では無い……「海軍の専門技術に対する絶望的な無知」……「一国の指導者らしからぬ極端な臆病さ」そして「海軍の伝統の無惨な破壊」。
この三つの事実がパズルのように合わさった時、レーダーの胸中にあった疑念は、もはや覆しようのない氷のような『確信』へと変わっていた。
エーリヒ・レーダー提督は、執務室の金庫の奥底に眠る、色褪せた分厚い設計図の束を取り出した。
表紙には『Z計画』と印字されている。
それは、大ドイツ帝国海軍がかつて本気で夢見た、あまりにも壮大な「幻の大艦隊」の記録であった。
時計の針を、開戦前の1939年初頭へと戻す。
当時、ドイツ海軍が直面していた最大の仮想敵は世界最強と言われ、七つの海を支配するロイヤル・ネイビー(大英帝国海軍)であった。
彼らの圧倒的な海上戦力に正面から対抗するため、総統とレーダーがぶつかり、認め、熱に浮かされるように練り上げたのが、この大規模な艦隊整備計画である。
「1948年までに、大英帝国を海から締め上げる無敵の艦隊を創り上げるのだ」
図面上に描かれたその陣容は、まさに鋼鉄の怪物たちの狂宴だった。
ビスマルク級をさらに凌駕する、主砲口径40センチ超の超弩級H級戦艦を6隻。
この完成しなかったこの超戦艦は、完成していれば300m近くの全長を持ちながら、車一台分の質量の主砲弾を40km超(フルマラソンの距離に匹敵)まで叩き込む、まさに海上の神である。
さらには、大西洋の通商網を高速で寸断するためのO級巡洋戦艦を3隻。
新たな海の覇権を握るであろう航空母艦を4隻。
それに加え、無数の重巡洋艦、軽巡洋艦、駆逐艦。そして海の中からは250隻以上のUボートの大部隊が獲物を狙う。
この巨大な軍艦の群れを、約10年という歳月をかけて緻密に建造していく。
それがZ計画の全貌であった。
当時の総統は、レーダーの目を真っ直ぐに見据え、「1945年、あるいは1948年までは、絶対にイギリスと開戦することはない……しかし時がくれば……」と固く約束していた。
だからこそ、この気の遠くなるような10年計画は、国家の正式な目標として承認されたのである。
しかし、その壮大な夢は、産声を上げる前に残酷に打ち砕かれた。
1939年9月。
総統との約束は反故にされ、計画の開始からわずか数ヶ月で、想定より何年も早く第二次世界大戦の火蓋が切って落とされたのだ。
海軍の完成を待たずに始まった戦争。
もはや悠長に戦艦を建造している猶予などない。
限られた国家の莫大な予算、資源、そして鉄鋼材は、造船所ではなく、泥濘を這い進む陸軍の戦車や、空を舞う航空機へと優先的に回されることとなった。
船台で組み上がりかけていた巨大戦艦たちは解体され、その貴重な鉄は、安価で即効性のあるUボートへと姿を変えていった。
Z計画は、「一時凍結」という名の事実上の死を宣告されたのである。
レーダーは設計図をゆっくりと丸め、再び金庫の奥へと封印した。
かつての総統は、あの実現不可能なほどの巨大な夢を共に語り合い、戦艦のディティールに瞳を輝かせる男だった。
(あの時は開戦時だ……仕方が無かったのだ……。総統閣下は、いつか英国に負けない艦隊をドイツに与えてくださる……そう思っていた……)
だが今、玉座に座るあの「臆病者」は、戦艦の装甲厚の意味すら忘れ、ただ沈められることに怯えて港に引きこもることを命じている。
(Z計画……ロイヤル・ネイビーを沈めるはずだった俺たちの……鋼鉄の夢は、もはやこの紙切れの中にしか存在しないのですね……本物の総統閣下……貴方はどこに?)
運河を抜ける冷たい風が、ベルリンの窓を虚しく叩いていた。
提督の胸に残されたのは、偉大なる未完成の夢と、現在進行形で帝国を蝕む狂気への絶望だけであった。
はるか東方の泥濘の中で、グーデリアンたち陸軍の将兵が正体不明の絶望と戦っているその裏で。
誇り高き海軍総司令官もまた同じであった。
視察で見るキール軍港のドックに無残に鎖で縛り付けられた巨大な戦闘艦の群れを見つめながら、怒りと無力感に血が滲むほど唇を噛み締めていたのである。
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