第27話 絶望の始まり
1941年、秋。
無限に続くと思われたロシアの平原は、降り続く冷たい秋雨によって、恐るべき本性を現し始めていた。
ラスプーチツァ(泥将軍)である。
夏の間は乾ききって砂埃を上げていた広大な黒土の平原は、見渡す限りの底なしの泥沼へと変貌したのです。
膝まで浸かるほどの粘り気のある冷たい泥は、ドイツ軍が誇る機甲部隊の進撃速度を劇的に削り落とし、補給のトラックを完全に立ち往生させ、前線への物資は滞り、兵士たちの体温と気力を物理的な足枷となって容赦なく奪い去っていきました。
燃料が……弾薬が食料が目に見えて不足していく。
そして、その時バケモノは現れた。
彼が予測していた、「ドイツ軍に対抗して生み出されるであろうソ連戦車」はシュミットの予測の数倍の値であり、シュミットの方程式を破壊していた。
ソ連軍の新型中戦車『T-34』。
灰色の雨だれの向こう側、双眼鏡のレンズ越しに初めてその異形のシルエットを捉えた時、シュミットの脳内で凄まじい速度の演算が、かつてないほどの不協和音を立てて空回りを起こしました。
(……なんだ、あの車体形状は。避弾経始を極限まで計算し尽くした傾斜装甲。この泥濘をものともせずに突き進む、ありえないほどに広い幅の履帯。そして何より……)
シュミットの青い瞳が、敵の砲塔から突き出た長大な砲身を数値化する。
(長砲身……あの砲は、我が軍の主力であるIII号戦車の5センチ砲、IV号戦車の短砲身7.5センチ砲を遥かに凌駕する火力……。間違いない。あれは、我々の持っているあらゆる兵器カタログの前提を過去の遺物に変える、軍事史上の致命的な『特異点』だ)
「……気をつけろ!今までの敵とは違う!目標、正面の新型戦車。第一小隊、撃て!距離800!」
シュミットの鋭く、しかし微かに焦燥を帯びた声が無線を飛び交う。
クライン少尉の乗る311号車から放たれたIV号戦車の7.5センチ徹甲弾が、正確無比な軌道を描き、T-34の前面装甲に直撃した。
キィィィィンッ!!
戦場に、甲高く、そして絶望的な金属音が響き渡った。
完璧な角度で着弾したはずの砲弾は、T-34の分厚い傾斜装甲に突き刺さることなく、まるで水切り遊びの小石のように無惨に弾き飛ばされ、雨空の虚空へと消え去ったのである。
「弾かれただと!? 馬鹿な! 大尉殿、計算上の貫通限界距離内のはずです!」
常に冷静沈着な砲手のベルガー曹長が、信じられないものを見たかのように、照準器から目を離して叫んだ。
「あの傾斜角だ! 実質的な装甲厚は数値の倍以上あると見ろ! 正面からの撃破は不可能だ!」
シュミットは一瞬にしてすべての変数を書き換える。
その直後、T-34の76.2ミリ砲が火を噴いた。
すさまじい轟音と共に放たれた砲弾は、シュミットの中隊の右翼に展開していた第4小隊のIV号戦車の砲塔を、いとも容易く紙屑のように引きちぎった。
『ぎゃあああああっ!! 燃える! 車内がッ!』
『クソッ! 敵の装甲が抜けねえ! どうなってやがる!』
無線から、今までの中隊では決して聞くことのなかったパニックと断末魔の悲鳴が溢れ出す。
シュミットは歯を食いしばり、喉から血が滲むほどの声で指令を飛ばした。
「各車、足を止めるな! 側面へ回れ! 泥濘に足を取られるな! 履帯を狙って機動力を奪い、砲塔リングのわずかな隙間、あるいは背面装甲に徹甲弾と榴弾をねじ込め! それ以外にあの怪物を殺す解はない!!」
そこから先は、泥と血と鉄が混ざり合う、地獄のような泥仕合であった。
第3中隊の戦車たちは、エンジンから黒煙を吹き上げ、泥濘に履帯を取られながらも、必死の機動でT-34の群れに食らいついた。
ハルト軍曹の突撃砲が死地へ飛び込んで至近距離から敵のキャタピラを破壊し、シュタイン軍曹が泥にまみれて背後に回り込み、エンジングリルの薄い装甲を撃ち抜く。
シュミットの異常なまでの戦術統制と、各車両の職人的な技量が極限で噛み合い、彼らは数時間の死闘の末に、なんとか前方のT-34部隊を全滅させることに成功した。
しかし、その勝利の代償は、あまりにも重く、冷酷なものでした。
戦闘終了後、雨が降り続く戦場に、力なく黒煙を上げる四つの鉄の墓標が残されていた。
「……損害報告、読み上げます」
フリッツ伍長が、泣き出しそうな、震える声でマイクを握る。
「第2小隊より突撃砲2両、第4小隊より戦車2両、被弾により完全大破。……乗員の生存、絶望的です」
今まで、どれほど過酷な戦場でも致命的な損害を出さず、全員で無傷のまま切り抜けてきた『不死身の中隊』に、初めて戦死という欠損が生じたのだ。
キューポラの上に立つシュミットは、雨に打たれながら、燃え盛る部下の戦車を無表情で見つめていた。
だが、双眼鏡を握る彼の手は、白く血の気が引くほどに強く、限界まで握りしめられていた。
(……こんな……バケモノがこの泥濘の中に存在している。戦車という個の性能差が、戦術の数式を暴力的に蹂躙した。撃破不能ではないが圧倒的に過ぎる!このまま進めば、いずれ俺の方程式は完全に破綻し、部下たちは全滅する)
冷たい秋の雨が、シュミットの頬を撫でていく。
彼は己の戦術的限界を痛烈に悟り、かつてない深い絶望の淵に立たされていたのです。
同じ頃。前線の泥濘から数百キロ後方。
グーデリアン上級大将の率いる前線司令部にも、物理的な泥とは別の形をした、重苦しく息の詰まるような絶望が広がっていました。
司令部の入り口や、作戦会議室となる重要な天幕の周囲には、国防軍の歩哨に混じって、黒い制服に身を包んだSS(親衛隊)の兵士たちが、Kar98k小銃を抱えて無言で立ち尽くしている。
彼らは「パルチザン対策と占領地の治安維持」という名目でベルリンから直接配属されてきた部隊であった。
だが、その氷のような視線が常に司令部の将校たちに向けられていることから、彼らの実態が前線の将軍たちを監視し、反逆の芽を摘むための『反逆しそうな対象を監視する任務』であることは、誰の目にも明らかでした。
深夜。司令部の奥深く、厚い幕で覆われ、ランタンの灯りが細々と揺れる防音テントの中。
グーデリアンは、第3装甲集団司令官のヘルマン・ホト上級大将と、誰にも聞かれないよう声を潜めて密談を交わしていた。
「……信じ難い話だが、お前の疑念は正しいのかもしれん、ハインツ」
ホトは、テーブルに置かれた安物のコニャックのグラスを見つめながら、苦渋と疲労に満ちた声で呟いた。
「俺も先日、作戦会議で総統閣下と直接言葉を交わした。だが、そこにいたのは、俺たちが知るあの『天才』ではなかった」
かつての本物のヒトラーは、軍部の硬直した旧態依然たる思考を激しく嫌い、新兵器の有用性や電撃戦といった革新的な戦術に対し、誰よりも深い理解を示していた。
世界中の軍人がいまだ第一次大戦の塹壕戦で思考が止まっていた時代。
航空機が空を支配し、爆撃機が敵陣に混乱を招き、装甲部隊が大地を蹂躙し、自動車化された歩兵が敵地を瞬く間に占領する――そんな「夢物語」のような電撃戦構想に莫大な予算を割き、現実の軍隊として結実させたのは、間違いなくヒトラーの慧眼あってのことだった。
新型戦車の装甲厚、エンジンの馬力、急降下爆撃機との戦術的連携。
彼はそれらの細かなスペックすら驚くべき記憶力で正確に暗記し、将軍たちと何時間でも熱を帯びた議論を戦わせる男だった。
だからこそ、前線の将官たちは時に彼の干渉に反発しながらも、その恐るべき軍事的嗅覚には畏敬の念を抱いていたのである。
しかし、今の総統はどうだ。
グーデリアンが前線の泥濘から「T-34という化け物が現れた。対戦車兵器の抜本的な見直しが必要だ」と血を吐くような悲痛な報告を上げても、総統は地図から目を背け、ただ退屈そうに欠伸を噛み殺すだけだった。
会議では軍事的な細部や技術的課題には一切触れようとせず、ただ地図の上の矢印を指揮棒で乱暴になぞり、「意志の力で進め」「精神力で泥を乗り切れ」「すべての都市を占領しろ」と、素人のような暴論を喚き散らすばかりなのだ。
「海軍のレーダー提督や、南方軍集団のマンシュタイン将軍も、極秘裏に強い疑念を募らせているそうだ。あの方の命令は、あまりにも支離滅裂に過ぎると。兵器への関心も、兵站への理解も、別人のように崩れ去っている」
ホトの言葉に、グーデリアンは怒りで震える拳を机に叩きつけた。
「当然だ! 今のあの男は、総統閣下などではない! あの顔を被った、ただの無能で臆病な人形だ! だが……問題は、我々がそれに気づいたところで、誰が敵で誰が味方なのか、この前線司令部の中でさえ全く分からないということだ。……ホトよ、俺はまだ自分の幕僚にすら、この疑念を口にできていない」
「俺もだ、ハインツ……。相手を間違えれば、我々ごと消されるだけだからな」
「気をつけろよ、ホト。……ゲシュタポ(秘密警察)もSS(親衛隊)も、間違いなくこの謀略に噛んでいる。俺はそう見ている。彼らは真実を知らずに総統の命令を受けているに過ぎないのだがな……」
グーデリアンは声を極限まで潜め、テントの入り口へと鋭い視線を向けた。
分厚い天幕の向こうには、歩哨に立つ黒服のSSの影が揺れている。
「明確に分かっているのは、常に総統の背後に隠れている党官房長マルティン・ボルマンと、あの忌々しい黒服どもを率いるハインリヒ・ヒムラー……あの二人の権力亡者が、完全に我々の『敵』だということだけだ。奴らの最近の動きを見ていれば自ずと分かる。党の名目で広大な土地を買いあさり、己の個人資産として着服しているのだ。かつての厳格な総統閣下であれば、あのようなあからさまな私物化を決して許しはしなかったはずだ。奴らは今や総統の威光を傘に着て、軍への介入と人事の掌握まで権力を強めている……OKW (国防軍最高司令部)も言いなりだ」
「ああ。だが、下手に動けば、あるいは総統の正体に気づいた素振りを少しでも見せれば、あの黒服どもに即座に『反逆罪』で消される……ハインツ、我々は今、見えない蜘蛛の巣の中で手足を縛られ、身動き一つ取れない状態なのだ。我々将官の力だけで解決など、できるはずもない」
「誰か頼れるか……?」
「誰に頼ればいいんだ?……解決など出来るものか……」
二人の歴戦の将軍は、ランプの薄暗い光の中で、かつてない無力感に苛まれていた。
前線では、シュミットたち将兵が血と泥にまみれて絶望的な怪物と死闘を繰り広げ、死んでいく。
しかし、彼らを導くべき頭脳はすでに何者かにすり替えられ、「無能な人形」が帝国を破滅の淵へと引きずり込んでいる。
それを知っていながら、彼らを救う手立てが何一つないのだ。
一方その頃、帝国の心臓部であるベルリン、総統官邸。
偽りの玉座に座る男――ウィリアム・パトリック・ヒトラーは、自らが抱え込んだ巨大すぎる重圧と、いつ発覚するか分からない恐怖から逃避するため、底なしの堕落と背徳へと沈み込んでいた。
「総統閣下。本日は『エヴァ』様とお会いになる予定となっておりますが」
ボルマンが、執務室の豪奢なソファに寝そべるウィリアムに近づき、脂ぎった顔に下劣な笑みを浮かべて恭しく囁いた。
「ああ……ああ、そうだ。彼女に会いに行かねばな。総統として、彼女を愛でてやらねば」
ウィリアムは、強い酒で赤く濁った目をギラつかせ、総統官邸の地下に設けられた隠し部屋へとよろめくように足を向けた。
本物のヒトラーには、エヴァ・ブラウンという長年の愛人がいた。
しかし、ただの影武者に過ぎないウィリアムにとって、本物のエヴァと直接接触することは、自らの正体が即座に露見する致命的なリスクでしかなかった。
そのため、本物のエヴァはすでにハイドリヒの手によって秘密裏に「処分」されていた。
彼女の突然の不在を怪しまれぬよう、秘密警察の偽造専門部隊が彼女の筆跡を完璧に真似て、定期的に友人たちへ『偽の手紙』を送り続けるという、念の入った隠蔽工作が行われていたのである。
本物の愛人を消し去った上で、ボルマンとハイドリヒのゲシュタポは、ウィリアムの獣のような色欲を満たし、同時に彼を「総統という役」に縛り付けて精神的に飼い慣らすための、極めて残酷で悪魔的なシステムを構築していました。
重厚な扉を開け、ウィリアムが薄暗い寝室へと足を踏み入れると、そこには薄い絹のドレスを着せられた若く美しい少女が、ベッドの端で怯えた小鳥のように震えて座っていた。
彼女は当然、エヴァ・ブラウンではない。
ベルリン市内のゲットーや、東部占領地から極秘裏に連行されてきた、名もなきユダヤ人の少女である。
ゲシュタポの将校たちは、恐怖に泣き叫ぶ彼女たちを冷たい地下室に引きずり込み、耳元で甘く恐ろしい嘘を吹き込んでいた。
『いいか、お前は今日から総統閣下の寵愛を受けるのだ。首尾よく閣下の夜の伽を務め、心ゆくまで喜ばせることができれば、いずれ特別列車でスイスや第三国へ逃がしてやる。もし、妻にでも選ばれれば大したものだ。薔薇色の人生がお前を待っている。そしてお前だけでなく、収容所へ送られるはずのお前の両親も、兄弟もすべて助かるのだ』と。
絶望の淵に立たされた少女たちに、選択肢などあろうはずがありません。
彼女たちは愛する家族の命を救うため、自らの尊厳を完全に殺し、血の涙を流しながら、憎むべき独裁者の体を抱き入れるしかなかったのです。
「さあ、俺を愛していると言え! 総統であるこの俺のことが、心から好きだと言ってみせろ!」
酒の匂いを撒き散らしながら、ウィリアムは自分を「絶対的な権力者」として恐れ、震えながらすがりついてくる少女の柔肌に、その醜く歪んだ顔を埋めた。
自分の命令一つで涙を流し、必死に泣きながら命乞いをする美少女を力任せに組み敷く。
その嗜虐的な行為によって、ウィリアムは歪んだ全能感とドロドロとした色欲に溺れ、自らが「本物の支配者」に成り代わったかのような甘い錯覚に狂おしく酔いしれるのだ。
戦場で泥にまみれた兵士たちが流す血の代償が、この男の醜い欲望を満たすためだけに使われている。
しかし、少女たちに約束された「第三国への切符」が存在するはずもなかった。
ウィリアムがその身体に飽き、新しい女を要求すれば、彼女たちは「スイス行きの列車に乗せる」と騙されて夜の闇に紛れてトラックに乗せられる。
そして、行き着く先はアウシュビッツなどの絶滅収容所であり、秘密保持のために誰にも知られることなく『優先的に』ガス室で処理され、煙突から灰となって消え去っていった。
そして別の夜には、また新しい、何も知らない悲劇の「エヴァ」が官邸の地下室へと補充されるのだ。
新しい総統閣下は、軍事には無知で臆病だったが、色事と女の消費にだけは異常なほど熱心だった。
前線の兵士たちが泥の中で未知の怪物と死闘を繰り広げ、祖国のために命を散らしているその瞬間。
大ドイツ帝国の中心は、かくも醜悪で、狂気に満ちた、取り返しのつかないほどの腐敗の毒に、骨の髄まで侵されきっていたのである。
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