第26話 ドッペルゲンガー

 1941年6月27日。

 グーデリアンの第2装甲集団とホト将軍の第3装甲集団はミンスク付近で合流し、巨大な包囲網を完成させた。

 数十万人という信じがたい数のソ連兵がこの網の中に閉じ込められ、赤軍は壊滅的な打撃を受けた。

 ドイツ軍全体が、史上空前の大勝利に狂喜乱舞し、勝利の美酒と熱狂に包まれる中。

 シュミットだけは、熱を持ったままのキューポラの上で、手元の粗末な地図と、目の前に無限に続くロシアの平原を、交互に冷たい瞳で見つめていた。


(ミンスクの包囲は完了した。次はスモレンスク……。だが、どれだけ敵の戦車を削ろうと、この大地に刻まれた『距離』という絶対的な分母を削ることはできない。補給路はすでに数千キロに達しようとしている)


 彼に心酔し、狂信的なまでの信頼を寄せる中隊の部下たち。

 しかし、シュミットの脳は、すでに彼方の地平線に、計算不可能な底なしの泥濘と、すべての物理法則を凍てつかせて崩壊させる絶望的な変数――『冬将軍』が待ち構えていることを、予見し始めていた。


(食糧が、そして戦車の血である燃料が凍結する。そうなれば、機動戦という我々の方程式は完全に破綻し、戦争そのものが継続不可能となる。現在の進撃速度と補給線の延伸率から計算すれば、どれほど急ごうとも、冬将軍の到来までにソビエトを崩壊させる確率は『ゼロ』だ。加えて、間もなくモスクワ前面の強固な防衛線という巨大な抵抗係数にも衝突するはずだ)


 シュミットは手元の地図を見つめながら、思考の迷路に入り込む。


(もし……俺が一介の中隊長ではなく、軍中枢の参謀であったなら、この絶望的な変数に介入し、国家の進路を変えられたのだろうか?……いや。俺が弾き出せる程度の致命的な事象など、陸軍総司令部の優秀な参謀たちなら、とうの昔に計算済みのはずだ。彼らがこの破綻した数式を放置するわけがない。戦術レベルの歯車に過ぎない俺の立場で、国家規模の戦略に対する『解』など出せるはずもないのだ)


「……進むしかない。俺は、前線の事だけ考えてればいいのだ……」


 泥と硝煙にまみれたキューポラの上で呟いたシュミットの言葉は、無限に続くロシアの乾いた風に吸い込まれ、どこかへ消えていった。


 1941年夏。

 東部戦線の中央、ベラルーシのボリソフに設営された中央軍集団の前線司令部。

 厳重な警備が敷かれたその重厚な会議室は、むせ返るような熱気と、高級な葉巻の煙、そして将官たちの放つ目に見えない緊張感で満たされていました。


 第2装甲集団司令官、ハインツ・グーデリアン上級大将は、長机の向かいに座る大ドイツ帝国総統、アドルフ・ヒトラーに向けて、軍人らしい明瞭で力強い声で戦況報告を行っていました。


「――以上のように、総統閣下。我が第2装甲集団の戦線は、予定通り極めて順調に敵防衛線を押し込んでおります。兵站線は伸び切る寸前ではありますが、各部隊の奮闘により、モスクワを一路目指すための橋頭堡は確保されつつあります」

 グーデリアンは、手元の指示棒で巨大な地図の「モスクワ」を強く指し示し、自信に満ちた笑みを浮かべました。

「特に、最先鋒を務める第1装甲師団、第1戦車大隊の働きは特筆に値します。その中でも、ハインリヒ・シュミット大尉の率いる第3中隊の活躍は目覚ましいものがあります。彼は戦場を数式として処理する異能の持ち主であり、被害を最小限に抑えながら、最大の戦果を上げ続けております。……よろしければ、この後の視察の際、シュミット大尉をお呼びしましょうか? 彼の機動戦術は、総統閣下の耳に入れるに値する大いなる価値があるかと存じます」


 グーデリアンは、現場の英雄を誇らしげに紹介しました。

 本物のヒトラーであれば、記憶力が異常に発達しており、優秀な前線指揮官やエース兵士の名前、果ては彼らの出身地や勲章の数に至るまで暗記しているのが常でした。

 彼が前線の将兵を熱狂させてきたのは、そうした「現場への異常なまでの執着と関心」があったからです。

 だからこそグーデリアンは、特に総統お気に入りの「シュミット大尉」の名前を出せば、総統が身を乗り出して興味を示すと確信していました。


 しかし。

 総統は、まるで薄汚い虫でも見るかのように眉根をひそめ、大仰な身振りで鼻で笑ったのです。


「…………馬鹿馬鹿しい。大ドイツ帝国の総統たるこの私が、なぜいちいち名も知らぬ大尉風情と会う必要があるのかね? 将官ならともかく、下士官風情に会う必要などない」


 その言葉に、会議室の空気が一瞬にして凍りつきました。

 グーデリアンは、自らの耳を疑いました。

(名も知らぬ下士官風情……だと?大尉を下士官と呼ぶか……)

 シュミットの名前は、フランス戦の時からすでに報告書に何度も上がり、総統司令部でも「奇跡の英雄」として認知されているはずでした。

 何より、「泥にまみれた兵士」を誰よりも賛美し、プロパガンダに利用してきたのは、他ならぬ総統自身だったはずです。


 だが、違和感はそれだけでは終わりませんでした。

 総統は、椅子から大袈裟に立ち上がると、老練な役者が舞台で演説をするように、両手を大きく広げて叫んだのです。


「いいかね、グーデリアン。モスクワを目指すのは当然だ。だが、それだけでは足りん! 北のレニングラード方面も、南のウクライナの穀倉地帯も、そしてコーカサスの油田もだ! ソ連のすべてを!全て同時に!手に入れるのだ! 兵力を分散させ、全方位から泥の巨人を叩き潰せ! 私は忙しいのだ。絶対にしくじるなよ、グーデリアン!」


 総統の口から飛び散る唾。

 異常に力の入った、しかしどこか底の浅い、台詞じみた怒声。

 グーデリアンは、直立不動の姿勢のまま、背筋にぞっとするような氷の刃を当てられたのを感じました。


(……総統閣下? いや……違う。目の前にいるこの男は、本当にアドルフ・ヒトラーなのか?)

 グーデリアンの疑念は、拭いがたいものから、ほぼ「確信」に近いものへと一瞬で変貌を遂げていた。


(シュミットを知らないだけではない。以前の軍議で擦り合わせたあの周到な作戦命令はどこへ行った? 『無意味な直進は避け、モスクワ前面の防衛線にぶつかったら、油田方面を制圧した軍がモスクワの後背を突く』……あれほど補給と資源の重要性を説き、ナポレオンの愚を避けると語っていた冷徹な戦略眼が、跡形もなく消え失せている)


 グーデリアンは、目の前で鼻息を荒くしている男の顔を、双眼鏡で敵陣を観察するように冷徹に観察した。

 姿形は瓜二つだ。

 声色も完璧に近い。

 だが、その瞳の奥には、かつて数百万の民衆を熱狂させた「底知れぬ狂気じみた信念」がない。 

 あるのは、巨大な権力を借りて威張り散らすだけの、小者特有の「醜い傲慢さ」であった。


(モスクワも、レニングラードも、南も、すべてを同時に手に入れるだと……? 前線の補給線がすでに1000キロを超え、破綻寸前であることを全く理解していない。そんなものは戦略ですらない。お菓子屋で目についたケーキをすべて欲しがる、子どもの妄想と変わらん!)


 グーデリアンにとって、目の前の男が発した命令は、100パーセント確実にドイツ軍を冬のロシアで全滅させる「破滅の方程式」そのものであった。

 有能であったはずの本物の指導者は、すでにこの世に存在しないのだ。

 その事実に行き当たった瞬間、グーデリアンの額から一筋の冷たい汗が流れ落ちた。


(あの総統は……偽物だ!)

 グーデリアンは視線をわずかにずらし、総統の後ろの壁際に控えている男たちを見た。

 総統の影のように付き従う党官房長マルティン・ボルマン。

 そして、部屋の隅で能面のように冷え切った無表情を浮かべている、国家保安本部長官ラインハルト・ハイドリヒ。

 ボルマンの脂ぎった顔には、自らの操り人形が完璧に将軍たちを騙せていると確信した、醜悪な優越感がわずかに滲んでいた。


(……ただの影武者ではない。万が一の暗殺に備えて、総統の執務を一時的に補助するための偽装などでは決してない。これは……国家の根幹を揺るがす、致命的な謀略によって『入れ替えられた』のだ。犯人は総統に近い人物だ……しかも一人ではないだろう)


 前線の泥沼で命を削って戦う兵士たちの命運が、ベルリンの安全な密室で私腹を肥やす狂人たちに握られている。

 怒りで震えそうになる拳を、グーデリアンは軍ズボンの側面の縫い目に力強く押し当てて、必死に理性でねじ伏せた。


(表沙汰にしようにも、確たる証拠がない。ここで私が『貴様は偽物だ』と叫んだところで、精神に異常をきたしたとされて親衛隊に連行されるのがオチだ。奴らはやり方を間違えれば、私だけでなく、私の部下たちごと容赦なく『歴史の闇』へ消し去るだろう)


 絶望的な事実。

 ドイツ陸軍最強の矛である機甲部隊は、すでに総統というトップを失い、腐臭を放つ「偽物」の命令に従って、地獄の冬将軍が待つロシアの奥深くへと進軍し続けなければならないのだ。


「……はっ。総統閣下の壮大なるご意志、このグーデリアン、確かに承りました。必ずや、全ソビエトを大ドイツ帝国の御前に平伏させてみせましょう」


 グーデリアンは、腹の底で煮え滾る絶望と怒りを完璧な軍人の仮面の裏に隠し、偽物の総統に向かって、見事なまでに恭しいナチス式敬礼をして見せた。

 その踵を合わせる冷たい音が、破滅へと向かう第三帝国の葬送曲のように、重苦しい会議室に響き渡った。

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