第25話 初夏の快進撃

 1941年6月下旬。

 作戦開始(バルバロッサ)から数日が経過した東部戦線は、世界がこれまで目にしたことのない規模の暴力と、凄まじい速度の機動戦によって完全に支配されていました。


 ハインツ・グーデリアン上級大将率いる第2装甲集団は、中央軍集団の南翼としてブグ川を渡河。 

 国境の要衝である堅牢なブレスト要塞をあえて無視して迂回し、広大なソビエト領の深奥へと、その巨大な鋼鉄の楔を容赦なく打ち込んでいた。

 彼らの最初の主要目標は、北から進撃するホト上級大将の第3装甲集団と大きな顎を形成し、合流点であるミンスクにおいてソ連軍の大部隊を完全に包囲・殲滅すること。

 電撃戦の生みの親であるグーデリアンの部隊は、「疾風ハインツ」の異名通り、初期の数週間で数百キロを前進するという、従来の軍事史の常識を根底から覆す凄まじい機動を見せていたのです。


 その最先鋒を務めるのが、第1装甲師団である。

 師団長キルヒナー中将は、グーデリアンの機動戦思想を誰よりも深く理解し、忠実に体現する冷徹な戦略家であった。

 彼は前線近く、排気ガスと巻き上がる土埃の匂いが充満する野戦司令部のテントで、机上の巨大な地図に一本の特異な赤い矢印を引きながら、傍らに立つ将校たちに尋ねた。


「第1戦車連隊、ヴァルテンベルク大佐。例の『総統閣下のお気に入り』の調子はどうなっている?」


「はっ。我が連隊が誇る最高の精密機械……ハンス・ヴェーバー少佐の第1戦車大隊、その中でもハインリヒ・シュミット大尉の率いる『第3中隊』は、現在、軍集団の最先鋒として敵防衛線の結節点を完璧に食い破り続けております」

 古き良きプロイセン貴族の血を引く、規律と伝統の体現者たるヴァルテンベルク大佐は、自らが溺愛するその部隊の報告を、ひどく誇らしげに語った。

 その横で、実戦派の第1戦車大隊長ハンス・ヴェーバー少佐が、歴戦の傷が刻まれた口元をニヤリと歪める。

「キルヒナー閣下。シュミット大尉の能力は、フランス戦の時よりもさらに純度を増しております。彼に20両の最新鋭戦車を与えたのは正解でした。あの中隊はもはや部隊ではない。シュミットの思考の通りに動く、戦車中隊という生き物です」

 ヴェーバー自身、かつて中隊長としてフランス戦を戦い抜き、シュミットの異能に底知れぬ恐怖と心酔を抱いた男だ。

 彼はシュミットを自らの直属に置くためだけに、第1戦車大隊長へと強引に横滑りした経緯がある。

「司令部では、ソ連軍のBT-7快速戦車やT-26軽戦車の『ブリキ装甲』を過小評価する声もありますが、シュミットはそれらを他の戦車中隊よりも圧倒的に早く片付けて居ます。ただ……」

「ただ、何だ?」

「いえ、彼が時折口にする、まだ見ぬ敵の新型戦車への漠然とした懸念。まだ見ぬ敵に過剰なまでに敏感な彼が、それを口にするのが、少し気がかりではあります」

 キルヒナー中将は、ヴェーバーの言葉を静かに受け止めた。

「グーデリアン上級大将は、この特異なシュミット中隊を、無闇な消耗戦や単なる敗走兵の追撃には決して投入しない。強固な対戦車砲の十字陣地、あるいは敵の予期せぬ装甲部隊の反撃など、戦局の数式が複雑に絡み合い、通常の部隊では突破に数日と甚大な損害を要するであろう『致命的な特異点』においてのみ、彼らを戦場へ解き放つ。それはまるで、固く結ばれた金属の輪を、力任せに引きちぎるのではなく、ただ一度の精密な工具の一撃でハラリと解体してしまうような、美しくも恐ろしい運用だ。……その運用に、彼が言う登場もしていない新型戦車がどう影響するか……我々は見守るしかない」


 ミンスクへと続く街道。

 シュミット率いる第3中隊は、濛々と立ち込める硝煙と初夏の焼け付くような熱気の中、街道沿いの林縁を進撃していた。

 シュミットの搭乗する中隊本部班・301号車(IV号戦車D型)の車内は、エンジンの咆哮と履帯が刻む金属音、そして異様な緊迫感に支配されていた。

 シュミット大尉はキューポラのハッチから上半身を出し、首から提げたカール・ツァイス製の10倍双眼鏡で見ていた。

 彼の脳内では、脳内の方程式で計算したTzf5b照準器の倍率で沈黙する敵陣地を冷徹に舐め回している。

 彼の脳内では、すでに敵の射界、装甲の貫通限界距離、風速による弾道のズレ、そして配下20両の現在位置とガソリンの残量が、三次元の幾何学模様となって流れていた。


 その時。

 前方の林縁に巧妙に偽装されていた、ソ連軍の45mm対戦車砲陣地が一斉に火を噴いた。

 さらに、街道の側面からは、快速を誇るBT-7戦車の群れが、土煙を上げて突撃してくる。

「……敵対戦車砲陣地、距離1400。偽装網の奥、45ミリ砲が4門。さらに右翼よりBT-7、約一個中隊」

 シュミットは瞬時に演算を完了する。

(陸上戦力のみでの正面突破は、損耗率15%。……許容不能だ。中隊の数式が破綻する)

 彼は車内へ鋭い指示を飛ばした。

「フリッツ! ルフトヴァッフェ(空軍)へダイレクト・エア・サポート(攻撃要請)を要求。座標、第2セクター北端の林縁。敵対戦車砲陣地だ」

「は、はっ! 空軍へ、ダイレクト・エア・サポート要求!」

 熱気とオイルの匂いが充満する車内で、若き無線手フリッツ・バウアー伍長が、激しい音を立ててモールス信号のキーを叩き始める。

 シュミットの脳内で毎秒更新される戦術変更を無線で打ち込み続ける彼は、すでに人間の限界を超えた過酷な任務により、目の下にはどす黒いクマが張り付いていた。


「各小隊へ伝達しろ。陣形『シグマ』へ移行。第1小隊はBT-7を牽制、第2、第3小隊は空爆と同時に突撃」

「了解! 陣形シグマ!」

 フリッツの指が狂ったような速度でキーを叩き、シュミットの意思を即座に無線に乗せる。


 中隊が陣形を変える間もなく、BT-7の主砲が火を噴き、45mm対戦車砲弾が301号車の装甲をかすめ、甲高い金属音を撒き散らす。

「カール、速度を維持しつつ、蛇行しろ。回避運動!敵の未来予測射撃を攪乱する」

「了解、大尉殿! マイバッハ(HL120TRMエンジンの名前)の回転数、3000を維持!」

 操縦手のカール・シュミット曹長は、ベルリンの地下鉄で信号管理をしていた元鉄道員だ。

 彼はエンジンの振動とリーフスプリング式サスペンションのたわみを、線路の継ぎ目と転轍機の感触として捉え、シュミットの脳内で弾き出される機動ルートを、ステアリング操作(運転)へ即座に変換する。

 301号車は、まるで巨大なスケート選手のように、滑らかで不気味な蛇行を始めた。


 その時。

 はるか上空から、切り裂くような金属音が響き渡った。

 敵味方関係無く戦場にいるすべての者が、その音を知っていた。

――Ju87B-1「スツーカ」の急降下サイレンだ。

 シュミットの要求に応え、急降下爆撃隊が飛来したのである。

 Ju87の飛行隊は、太陽を背に、ほぼ垂直に近い角度でソ連軍陣地へ突き刺さる。

 パイロットは、爆撃照準器の中央に敵陣地を捉え、ダイブブレーキを作動させ、高度数百メートルで500kg爆弾を投下。

 ドゴォォォォン!ドゴォォォォォドゴォォォォォドゴォォォォォン!!!

 次の瞬間、ソ連軍の45mm対戦車砲陣地は、巨大な炎と土煙の中に消し飛んだ。

 大破ではない。

 消滅である。

 凄まじい衝撃波が、街道を突き抜ける。


「……空爆、成功。敵対戦車砲陣地、壊滅」

 シュミットは双眼鏡から視線すら動かさず、ひどく平坦な声で命じた。

「各小隊、突撃。BT-7をすり潰せ」


 フリッツの指が、再び狂ったような速度でキーを叩き続ける。

 その信号を受信した瞬間。

 土煙を上げていた第3中隊という20両の鉄塊は、爆撃の混乱に乗じ、まるで一つの巨大な生き物のように変形を完了した。


『こちら第1小隊。了解。我々が前面でBT-7を引き付ける』

 中隊の「盾と矛」の役割を担う主力小隊。

 311号車の車長、フランツ・クライン少尉の落ち着き払った声が無線に響いた。

 シュミットの大学時代からの兄貴分であり、実直なベテランである彼は、シュミットの難解な命令を咀嚼して統制する役割を果たしている。

「フランツ。距離800で停車、仰角プラス2。敵の砲弾を最も分厚い前面装甲で受け止めろ」

『了解した。……エリック、滑らかに停車しろ! スプリングを沈み込ませて、姿勢を安定させろ!』

 操縦手のエリック・フェルナー軍曹が、泥濘の微細な起伏を読み取り、車両の消耗を極限まで抑える職人技で車両を止めた。

 ガン!ガン!ガ!

 IV号戦車の前面装甲に、BT-7の放った45mm砲弾が次々と着弾し、火花を散らすが、フェルナーの精密な操縦によって、装甲の最も厚い箇所……50mm前面装甲で受け止めることで、貫通を免れる。


『カール、目標は正面の敵BT-7快速部隊。風の計算は終わっているな? 撃て!』

『任せてください少尉!』

 砲手のカール・ホフマン伍長がペダルを踏み込む。

 7.5センチKwK 37 L/24主砲の正確な一撃が、榴弾を発揮し、BT-7の薄い装甲を易々と打ち抜き、巨大な火柱を上げた。


 その囮の隙を突いたのが、中隊の「遊撃・打撃」を担当する突撃砲小隊、第2小隊であった。  

『 聞いたな野郎ども! シュミット大尉の計算通りに動きゃあ、俺たちは無敵だ』

 321号車(III号突撃砲A型)の車長、ヴィルヘルム・ハルト軍曹は、ハッチから身を乗り出し、獰猛に笑っていた。

 本来、幾何学的な戦術など一切理解できない射撃特化の自信家だった彼だが、バルバロッサを経て、シュミットに完全に心酔し、今や狂信的なまでの尖兵へと変異していた。

『シュルツ! エンジンブロックを焼き切るつもりで踏み込め! 左へ回り込んで、BT-7の側面を蹂躙するぞ!』

『任せとけ軍曹! 内臓が飛び出しても文句言うなよ!』

 操縦手のマルティン・シュルツ伍長が強引なダブルクラッチを踏み込み、突撃砲が狂ったような急旋回を見せる。

 普通なら履帯が外れていたような無茶な運転だが、シュルツの操縦は、リーフスプリング・サスペンションへの負荷を紙一重で見切った「神の機動」へと昇華していた。

『カスパル! あの快速野郎どもを側面から吹き飛ばせ!』

『了解! 貰ったぜ!』


 ドゴォォォォォ!!

 StuK 37 L/24主砲が火を吹く。

 砲手ヴィクター・カスパル伍長の放った榴弾が、BT-7の側面の15mm装甲を粉砕し、隠れていた乗員を血の海へ沈めた。

 初速の劣るAP (徹甲弾)を避け、あえて榴弾の爆発力で撃破したのだ。

 ハルトの狂信的なまでのシュミットへの信頼が、第2小隊を恐るべき速度の打撃部隊へと変貌させていた。


 一方、中隊の「狙撃」を担当する第3小隊では、昔は泣き言ばかりを漏らしていた男が、別人のような氷の顔つきで戦場を睨みつけていた。

 331号車の車長、ヨハン・シュタイン軍曹。

 極度に慎重で、生存本能の塊であった彼は、今や「シュミットの数式」を信じ切った、冷徹な勇者へと変わっていた。

『ミュラー! 右のくぼみに入れ! 車体を22度傾けろ! 敵の45ミリ砲弾を弾き返す被弾傾斜にする!』

『了解! 角度を微調整します!』

 _操縦手クラウス・ミュラー伍長は、戦場の地形を瞬時に理解し、生存のための安全圏を見つけ出す。


 突撃砲が窪みにすっぽりと身を隠し、車体を斜めに傾けた瞬間。

 ギィィィィン!

 BT-7の徹甲弾が装甲の表面を掠め、金属音を撒き散らしながら、斜め上方へと弾き飛ばされた。


『マイヤー、視界はクリアか?』

『ええ。照準器の十字目盛りが、敵のバイザーの隙間にピタリと合っています』

 砲手のゲオルグ・マイヤー伍長は、焦って無駄弾を撃つような真似は決してしない。

 ズパンッ!!

 低く鋭い射撃音とともに、敵のBT-7が一つ、また一つと正確に沈黙していく。

 彼もまた、神域の射撃手へと変貌を遂げていた。


 そして、中隊の「囮」を担う遊軍小隊、第4小隊。

 341号車の車長、アルフレート・グリム軍曹は、呑気に構えていた。

『いやー、今日もいい天気っすねぇ。ロシアの空も青いんだなぁ。大尉殿からの指示は……適当に右へ回って牽制しろ、か。ヘス、適当に右へ!』

『グリム軍曹!真面目に指揮してくださいよ!』

 操縦手ペーター・ヘス伍長が車両を縦横無尽に振り回す。

 一見すると陣形を乱しているように見えるが、敵の未来予測射撃をすべて間一髪で躱す機動となっていた。


『ゼーリヒ、あそこの快速野郎撃ってみろ。あれは当たるぞ』

『了解っす! そぉい!』

 砲手ルドルフ・ゼーリヒ伍長が適当に放った一撃。

 BT-7が急に蛇行したため、本来ならギリギリ外れていたはずの砲弾は、敵が移動した先に直撃し、木っ端微塵に粉砕した。

『うおっ!? お見事っす、軍曹! さすがの観察眼!』

『だろ?こっち見て慌ててたからな!俺も大尉みたいに計算してみたんだ』

 シュミットの方程式には、「341号車の強運」すらも「不確定なプラス変数」として組み込まれていた。


 同じ頃。

 少し離れた戦区で残敵掃討を進めていた第2戦車大隊、第6中隊。

 通称「死神の道標」。

 中隊長カール・シュナイダー大尉は、自らのIII号戦車H型を機動させながら、キューポラから双眼鏡越しに隣接戦区の第3中隊の動きを見て、背筋に冷たい汗が流れ落ちるのを感じていた。

 5cm KwK 38 L/42主砲のIII号戦車より高性能なIV号戦車を主軸とした中隊とはいえ、異常な機動だった。

「……信じられん。なんだ、あの異常な機動は……中隊じゃない。一つの生き物だ」

 20両の戦車と突撃砲が、まるで完璧に連動する時計の歯車のように、一切の無駄なく、流れるように敵陣を解体していく様。

 人間の感情が引き起こす「焦り」や「恐怖」といった無駄が一切存在しないように見える。

「ハインリヒ……お前の計算は戦場をどれだけ操れるんだ……?」

 シュナイダーは、双眼鏡を握る手に力を込めた。

 彼に対する絶対的な畏怖の念によって、密かな願望が押し潰されそうになるのを感じていた。


 中隊本部車、301号車。

 シュミットの視界の中で、ソ連軍の防衛線はすでに崩壊したと言う『解』に到達していた。

「ハンス、目標。後方へ逃走を図る快速装甲車。距離1200。風速、左から2メートル。標的の移動速度、時速30キロ」

「了解。……視認……」

 砲手ハンス・ベルガー曹長。

 彼は照準器の距離測定目盛りに敵車両を捉え、繊細な指先で主砲の仰角と旋回ハンドルを微細に調整し、因果の歯車を完璧に噛み合わせた。

 静かに、呼吸を止め、引き金を引く。


 車体を揺るがせて放たれた砲弾は、低初速ながら正確な弾道を描き、1200メートル先の敵車両の側面に吸い込まれるように直撃。

 車体を木っ端微塵に粉砕した。


「……敵部隊、完全沈黙。戦術目標クリア」

 シュミットは双眼鏡を下ろし、無表情のまま小さく呟いた。

「カール、停車しろ」

「了解、大尉殿! マイバッハ、HL120TRMエンジン、アイドリングへ!」

 操縦手のカールは、エンジンのエンジンブレーキを滑らかに使い、車両を停める。

 彼は、シュミットの思考速度に同調し、指示が下ったコンマ数秒後にはすでにアイドリング状態にしていた。


「だ、大隊本部より通信入りました! 『味方主力は敵陣の突破を確認。このままミンスクへの包囲網を形成する』とのことです……! そして、我々第3中隊には……っ!」

 ヘッドセットを押さえたまま、フリッツは信じられない言葉を聞いたかのように、赤く充血した目を大きく見開いた。

「我々は……後方での補給・整備命令です! グーデリアン上級大将閣下、直々のご指名で、『よくやった。少し休め』とのことです……!」


 フリッツが掠れた声で報告する。

「了解した。各車、燃料と弾薬の残量を再計算して報告しろ。陣形を整える」

 シュミットの声には、強固な陣地と快速戦車部隊を無傷で突破したという勝利の歓喜も、疲労の色もなかった。

 彼にとって数式を解き終えたという、満足感だけはあった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る