第11話:私の帰る場所
崩れ落ちた天井。
焦げた空気。
白い粉塵。
冷たいコンクリートに残った、かすかな熱。
それらを感じ取った瞬間――
あぁ……私はまた、此処に戻ってきたんだと思った。
悪夢の続きに。
崩壊した建物。
泣き叫ぶ声。
もう二度と動かない、誰かの手。
すべて、あの日に起きた出来事だった。
折り重なった、屍の山は這いずるように私の所へくる。
目を背けようとしても、コイツらは口を揃えて囁いてくる。
“羨ましい”
“どうして、お前だけが生きている”
“痛いよ”
“苦しいよ”
“こっちへ来れば、もう何も感じなくて済むのに”
気づけばこいつらは、私の足元に群がっていた。
渇望とも、飢えとも似た衝動で、私の身体を掴んで離さない。
「嫌だ……! やめろ、離せ……私は……!」
私は、できる限り抵抗した。
終わりたくなんてない。
私は、みんなに生かしてもらった。
だから、みんなの分まで生きていかなきゃいけないんだ。
そうやって、ずっと自分に言い聞かせて生きてきた。
混沌を極める時代。
いつ終わりが来るかも分からない世界で、私はとにかく前だけを見て駆け抜けてきた。
嫌なことも、たくさんあった。
思い出したくないことも、数えきれないほどあった。
もう、こんな想いは私だけで十分だ。
だから私は軍へ志願した。
衛生兵として、戦場を駆け回った。
助けた命より、助けられなかった命の方が多かった。
それでも……
それでも、みんなが繋いでくれたこの命を、誰かの助けにしたかった。
そんなふうに思った瞬間、をわが耳元で囁いた。
“それは、ただの傲慢だろ”
“誰かを助ければ、自分が生き残った理由になると思ってる”
“本当は分かってるんだろ?”
“私なんかが残るべきじゃなかったって”
「違う!!!!」
喉が裂けそうなほど、私は叫んだ。
「そんなこと、一度も……!」
けれど、その言葉は心臓の奥を正確に掴んだ。
的を射た一言だった。
だからこそ、悪寒がした。
“だったら、どうして見ないふりをしている?”
“怖いんだろう?”
“自分自身の弱さが”
“あの日の真実が”
“瓦礫の下に置いてきた、小さなお前自身が”
「やめろ……!」
声が震える。
「やめてくれ……頼むから……!」
まるで世界を拒絶するように、私は両手で耳を塞ぎ、その場に座り込んだ。
でも――
本当は、怖かった。
だから、受け入れられなかった。
あの日、私は死んだも同じだった。
でも、それでも生きてしまった。
その事実を抱えきれなくて、私は全部をあの子に押しつけてきた。
瓦礫の下で震えていた、少女の私に。
“なら、目を開けろ”
“ちゃんと見てみろよ”
“お前が置き去りにしてきたものを”
“お前が殺した、最愛の兄のことを”
胸の奥深くに封じていた記憶が、音を立てて開いていく。
あの日の私には、耐えられなかった。
兄の死の真実。
♦︎♦︎♦︎♦︎♦︎
何かに挟まれて、身動きができない。
周りは暗くて、ほとんど何も見えなかった。
自分が生きているのか、もう終わってしまったのかさえ分からない。
ただ、左目の鋭い痛みだけが、まだ私が生きていることを告げるノイズのように響いていた。
パパ。
ママ。
お兄ちゃん。
どこ?
私はここだよ。
ここにいるよ。
寒い。
痛い。
怖い。
助けに来て!!
少女の私は、忍び寄る死神の気配に怯えながら、ただ待っていた。
死神の鎌が、小さな鼓動の方へ近づいてくる。
一歩。
また一歩。
重い鎌を引き摺る音。
そんな幻聴が、暗闇の中で鈍く響いていた。
そんな時だった。
頭を、優しく撫でる温もりがあった。
「……大丈夫か、ソフィア?」
聞き慣れた声だった。
「少し、気を失いかけてたみたいだ」
「お兄ちゃん……?」
私は、震える声で呼んだ。
「もしかして……私を、庇って……」
あの日。
出口は、もうすぐそこだった。
あと一歩。
本当に、あと一歩だった。
けれど私は足を挫いて、倒れた。
その瞬間、崩れ落ちる天井から私を守るように、お兄ちゃんが咄嗟に覆い被さってくれた。
私が身体を動かせなかったのも。
周りが暗くて見えなかったのも。
小柄な私を守るために、お兄ちゃんがその身体で覆い尽くしてくれていたからだった。
「ごめんね……」
涙が滲む。
「私が、あんなところで転ばなければ……」
これは、左目が痛いからじゃない。
この状況が怖いからでもない。
私は、この先の“結末”を知ってしまったからだ。
お兄ちゃんの温もりが、私の両手の中へ流れ少しずつ遠ざかっていくのが分かったからだ。
だから、泣いていた。
「大丈夫だよ、ソフィア」
お兄ちゃんは、いつものように笑おうとした。
「兄貴が妹を守るのは、当たり前だろ」
少し苦しそうに息を吐きながら、それでも私を怖がらせないように、声だけは優しかった。
「これくらい、どうってことないって……だから、待ってろ」
そう言って、お兄ちゃんは私の上から身体をずらした。
辛うじて開く右目が、少しずつ暗闇に慣れていく。
そこには、崩れた天井の破片と瓦礫が、歪なドームのように積み重なっていた。
私たち2人が、かろうじて身を寄せられるだけの、小さな空間。
私は隣に倒れ込んだお兄ちゃんへ、必死に手を伸ばした。
「お兄ちゃん……! お兄ちゃん!!」
触れた身体には、まだ温もりがあった。
けれど、その温もりが少しずつ遠ざかっていくのが分かってしまった。
掴んだ手から、命の灯が静かに弱くなっていく。
「嫌だ……」
私は首を振った。
「嫌だ、嫌だ、嫌だよ……死んじゃ嫌だよ……約束したじゃん」
涙で、声が滲む。
「私が将来結婚するまで、側にいてくれるって……」
「ふっ……」
お兄ちゃんが、かすかに笑った。
「そんな約束もしたな……7歳くらいの時だろ? ……まだ覚えてたのかよ」
苦しそうに息を吐きながら、それでも少しだけ笑う。
「ソフィアは、変なところで……律儀だな」
そうやって軽口を叩くのは、私を怖がらせないためだったのだと、今なら分かる。
でも、当時の私は泣いて縋ることしかできなかった。
「大丈夫だよ、ソフィア」
お兄ちゃんは、ゆっくりと言った。
「お前はさ、泣き虫で甘えん坊で……変なところで頑固」
一度、浅く息を吸う。
「でも……芯は強い」
「それに、俺の妹だからな」
ほんの少しだけ、照れたように笑う。
「可愛いに決まってる……だから、さ……いつか……」
その声が、少しずつ細くなっていく。
「お前のこと、ちゃんと見てくれる……良いやつが、現れる……」
「その時は……怖がらないで、手を伸ばすんだ……」
お兄ちゃんは、掴んでいた手をゆっくり離した。
そして最後に、私へ小指を差し出してきた。
これは、マクレーン家の約束の証。
私達家族は、必ず約束を守る時にはいつもこれをしていた。
だから私は、お兄ちゃんの小指に、自分の小指を重ねた。
パパと同じ、力強い指だった。
でも、お兄ちゃんとのそれは、パパとは違った。
そこにあったのは――
ママ似の、柔らかい笑顔。
「兄貴との……約束……だからな……」
その瞬間が、訪れた。
重なり合っていた指が、力を失う。
まるで眠りに落ちるように、地面へ静かに沈んだ。
「お兄ちゃん――――!」
当時の私には、その言葉の意味も、目の前の事実も、受け入れられなかった。
それから私は、声が枯れるまで泣いた。
涙が尽きても、まだ泣こうとした。
どれほどの時間が経ったのかも分からなくなるまで、もう返事をしてくれない兄に縋りついていた。
自分の身体の限界が来るまで、ずっと……。
その後、私はあの隊長さんに助けてもらった。
大人になり当時の記憶に齟齬があるのは、PTSDによるものだと軍医者には言われた。
でも、違った。
私は、私を守るために。
ここに、彼女を切り捨ててきたのだ。
瓦礫の下で泣き続ける、少女の私を。
ごめんね。
辛いことを全部あなたに押しつけて。
あなたを見ないふりをして、ひたすら前ばかり見て生きてきた。
私は、小さくうずくまっている彼女を抱きしめた。
「大丈夫だよ……」
声は震えていた。
それでも、今度は逃げなかった。
「もう、あなたをここに置いていかない」
小さな私は、ゆっくりと顔を上げる。
「辛いことを、あなた一人に背負わせたりしない」
私は、その小さな背中を強く抱きしめた。
「一緒に帰ろう」
「大変なこともあったよ。笑えないことも、たくさんあった……でも、意外と何とかなった」
少しだけ、笑う。
「それに……お兄ちゃんが言ってたみたいに、変な男も現れた。口は悪いし、すぐ一人で抱え込むし、全然素直じゃない」
「けどね、たぶん……悪い男じゃない」
私の顔を見て安心したのか、少女の私は小さく頷いた。
そして、笑った。
その身体が、淡い光の粒へと変わっていく。
消えたのではない。
戻ってきたのだ。
ずっと瓦礫の下に残してきた、10歳の私が。
ようやく、私自身の中へ。
その時だった。
どこからか、声が聞こえた。
最初は遠く。
けれど、少しずつ近づいてくる。
夜の帳のように閉ざされた空間に、光が満ちていく。
それと同時に、私の内側でまだ形にならない想いが、脈を打つように大きくなっていった。
あぁ。
この声は。
気づけば、その声に安心している自分がいて、思わず笑ってしまった。
「吊り橋効果は、信用しないんだけどなぁ……」
「ソフィア――!」
光の向こうから、ソウが手を伸ばしていた。
その瞬間、今まで姿を隠していたソイツらが、一斉に声を上げる。
“ふざけるな”
“お前だけ助かるのか”
“私たちを置いていくのか”
“お前は、こっち側の人間だ”
“家族のいない現実に、何の意味がある”
腕を掴まれる。
足を取られる。
心の奥へ、冷たいものが入り込んでくる。
けれど、今度はもう目を逸らさなかった。
「ソウ!」
私は、光の向こうへ叫んだ。
「悪い、今ちょっとコイツらに掴まれて動けない!」
こんな時なのに、少しだけ笑いそうになった。
「引っ張ってくれないか!」
それから、私はコイツらを見た。
「私は、生きていいんだ……」
声は震えていた。
それでも、折れなかった。
「私の大切な人たちは、それを望んでくれている。それは、お前たちが見せた真実だ」
その一言で、私を掴む力が緩んだ。
ソウもそれを感じ取ったのだろう。
差し出された手に、いっそう強い力がこもる。
「行くぞ、ソフィア!」
“待って”
“置いていくな”
“忘れるな”
“死神は、いつだってお前の側で笑っている”
光の中で、ソウが少しだけ眉を寄せた。
「まったく……君の周りには、ずいぶん厄介な男たちが多いらしいな」
こんな時まで、皮肉を忘れない。
「アレは、かつて君が振ってきた連中の亡霊か?」
これだよ。
お前はこんな時まで、そんな冗談で私をからかってくる。
呆れて、少しだけ泣きたくなって、でも笑ってしまった。
まったく……。
お前の言う通り、私の周りには碌でもない男が多いらしいな。
ねぇ、お兄ちゃん。
だから、もう私は大丈夫だよ。
最後にまた、あの大好きな笑顔を見せてくれて、ありがとう。
……またね。
「さぁ、戻るぞ。ソフィア!」
「あぁ」
私は、ソウの手を強く握り返した。
「還ろう。私たちの世界へ」
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