第10話:滝の下に眠る、星の残響(後編)
今までの経験則から言えば、こういうものは、こちらが触れる、踏み込む、認証する――そういった行動を示さない限り、起動しない。
昔から、“アイツら”は人を試すのが好きだ。
それはすでに、“神話”そのものが証明している。
だから、ソフィアの行動にも目を配っていた。
決して、周囲の探索で気を抜いていたわけでも、怠っていたわけでもない。
それでも、遅かった。
金貨は、まるで自らの意思を持っているかのように、髑髏の胸元から剥がれ落ちた。
古びたそれは、黄金の光を鈍く反射しながら、ソフィアのもとへ落ちていく。
ソフィアもまた、それを拾うのが当然であるかのように手を伸ばした。
金貨は、吸い寄せられるように彼女の掌へ収まった。
“人が物を選んでいるんじゃない。物が、人を主として選んでいる――”
一瞬、そんな言葉が頭をよぎった。
いつかの、遠い記憶の中で聞いた言葉だった。
しまった。
そう思った瞬間、番人が口を開いた。
洞窟の奥底が震えた。
咆哮。
いや、音ではなかった。
それは耳から入ってきたものではなく、頭蓋の内側へ直接流し込まれる怨嗟だった。
ソフィアの身体が、糸を切られた人形のように崩れ落ちる。
同時に、千手観音のように広がった髑髏の腕が、ソフィアへ向かって振り下ろされようとしていた。
その瞬間、時間が引き延ばされたように遅くなった。
本来なら、“一般人”をこんな任務に同行させることはない。
もちろん、機密保持の観点もある。
だが、それ以上に――守るべき者は、俺にとって“お荷物”でしかない。
余計なものが増えるほど、任務失敗のリスクは高くなる。
俺には、命を捨ててでも叶えなければならないことがある。
群れは人を弱くする。
判断を鈍らせる。
それに、“人間強度”も下がる。
戦場では、いつだって“良いヤツ”から死んでいく。
だから俺は、ずっと一人でいた。
……だというのに。
彼女は、見ず知らずの俺に、仔犬みたいにまとわりついてきた。
感情表現が豊かで、すぐに顔に出る。
そのくせ、強がりで、後先を考えない無鉄砲。
さらに酒や煙草にルーズときた。
一言で言えば、だらしない女だ。
それなのに――
彼女の瞳の光は、ブレない。
その先を見ている。
芯を見ている。
そして、たまに見せる、あの寂しそうな顔。
ふっ、と小さく笑いそうになった。
我ながら、やっぱり女には甘いらしい。
だから……その姿が重なってしまう。
かつて、俺の前から消えていった者たちに。
守れなかった笑顔。
届かなかった手。
呼び返せなかった声。
瓦礫。
硝煙の匂い。
白い光。
誰かが泣いていた。
誰かが笑っていた。
誰かが……俺に言った。
――生きろ。
その言葉だけが、今でも俺の奥底に残っている。
だから――まだ間に合う。
俺はソフィアのもとへ走った。
もう、“あの時”のような後悔はしたくない。
ナノスーツが俺の意志に応えた。
胸に刻まれた動力部が赤橙に光り、全身へナノエナジーが流れ込む。
出力が跳ね上がる。
視界の端が流れ、踏み込んだ岩肌が砕けた。
「コード・オープン……っ、くそ……!」
右腕に、鋭い痛みが走った。
だが、止まるわけにはいかない。
俺はソフィアの身体を抱え、番人の腕が落ちる寸前でその場を離れた。
距離を取り、左手を突き出す。
「Αιγίς・τρεῖς――アイギス・トリア」
突き出した左の掌に、青白い光が集まった。
次の瞬間、掌の内側から盾の紋章が浮かび上がる。
一重。
二重。
三重。
光は内から外へ押し広がり、三層の結界となって俺とソフィアを包み込んだ。
振り下ろされた髑髏の腕が、最外層で軋む。
怨嗟の残響が、中層で濾されるように薄れていく。
そして内層が、空間そのものの侵入を拒んだ。
番人の腕は、俺たちに届かなかった。
黄金の髑髏は、しばらくこちらを見下ろしていた。
だが、これ以上近づけないと判断したのか、やがて元の場所へ戻っていく。
そして再び、玉座のような岩の上に鎮座した。
当面は大丈夫だ。
だが、問題はソフィアだった。
気を失っているだけではない。
それは、見てすぐに分かった。
辛うじて呼吸はしている。
だが、その息はあまりにも浅い。
虫の息だった。
まるで、魂だけがどこか別の場所へ引きずり込まれているようだった。
番人が放った咆哮は、精神干渉の類だ。
洞窟全体に響いたにもかかわらず、俺への影響はほとんどなかった。
赤い外套の内側で、古い祈りのような熱がかすかに脈打つ。
対象がソフィアに絞られているのか。
それとも、この外套が咆哮を受け流したのか。
いずれにせよ、彼女の意識はここにはない。
――やるしかない。
俺は左手を開いた。
星導の灯が、掌の上に現れる。
淡い光を放っていた立方体が、ゆっくりと輪郭を崩していく。
角がほどけた。
面がほどけた。
立方体だった光は、細い糸の束へと変わっていく。
その一本が、倒れたソフィアの手の中にある金貨へ伸びた。
もう一本は、俺の手首へ絡みつく。
「アリアドネ・リンク、接続」
俺の声に反応して、薄青い糸が震えた。
次の瞬間、その奥で――弦を爪弾くような音が鳴った。
澄んでいて、冷たくて、それでいて、どこか人の祈りに似た音。
「オルフェウス・コール、起動」
それは、かつて神話の時代に神々にさえ認められた音色。
冥界へ降りた英雄が、失われた者を呼び戻すために奏でた声。
これは、失われた者を帰るべき場所へ導くための、古い神話の残響だ。
俺はソフィアを見下ろした。
彼女の掌には、まだ金貨が握られている。
古びた金貨。
翼を広げた竜にも、海を渡る舟にも見える紋様。
それが、薄青い糸の光を受けて、かすかに震えていた。
「ソフィア」
届くかどうかは分からない。
それでも、俺は呼んだ。
「待っていろ」
糸の先が、深い闇へ沈んでいく。
その奥から、焼けた鉄と灰の匂いが漂ってきた。
誰かの泣き声が聞こえる。
子供の声だった。
俺は奥歯を噛みしめた。
「今、迎えに行く」
そして俺は、アリアドネの糸が導く先へ、オルフェウスの音色と共に沈んでいった。
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