第9話:滝の下に眠る、星の残響(中編)


あそこはまるで、彼岸と此岸の境目だった。


後にお前はそう語っていたけれど、アルコールの回りきった頭の私でさえ、その言葉を聞いた瞬間、酔いが覚めるような気がした。


あの時の体験を思い出すだけで、今でも身震いしてしまう。


神秘と死が隣り合わせになった場所。


そうとしか、言いようがなかった。





♦︎♦︎♦︎♦︎





黒い渦に足を踏み入れた瞬間、滝の音が消えた。


遠ざかったのではない。


まるで誰かが、世界から音だけを抜き取ったみたいに、すとん、と落ちた。


冷たい。


水ではない。


風でもない。


それでも何かが、皮膚の上を薄い膜のように滑っていく。


私は息を止めた。


けれど、自分が本当に息をしているのかどうかさえ分からなかった。


目を開けているはずなのに、何も見えない。


そう思った瞬間――


ソウの持つ星導の灯が、薄青く光った。


闇の中に、小さな灯火が浮かび上がる。


それはまるで何かに導かれるように、あるいは、その先にあるものへ呼応するように、強く脈を打ちながら存在を現した。


ここは洞窟だった。


けれど、私たちが知っている洞窟とは違っていた。


広い。


思っていたよりも、ずっと。


天井は高く、闇に沈んだ岩肌は4〜5mほど上で丸く閉じている。


左右の幅も、大人が10人並んで歩けそうなほどあった。


足裏が石を踏んだはずなのに、広さに見合う反響がない。


ソウの靴音も、自分の呼吸も、すぐ近くで乾いて砕けて、そこで終わる。


音が奥へ伸びていかない。


まるで、この場所そのものが、音を食べているみたいだった。


背後を振り返る。


そこに、滝はなかった。


轟音も、水煙も、朝の陽だまりもない。


ただ、黒い岩壁があるだけだった。


「……本当に、入ったんだ」


声に出してから、私は自分の声の小ささに気づいた。


「ソフィア、離れずについて来るんだ」


気づけば、ソウは少し前を歩いていた。


星導の灯がなければ、すぐに姿を見失いそうになるほどの濃い闇が、そこにはあった。





♦︎♦︎♦︎♦︎





しばらく、私たちは星導の灯の反応に合わせて進んでいった。


どれほど歩いたのかは分からない。


ただ、右腕につけた時計の電子音が正午を告げた瞬間、私の鼻先に鋭い痛みが走った。


「イテっ……つぅぅ……ソウ! 急に止まったせいで鼻先が……ぶつけた……」


文句を最後まで言い切る前に、私は目の前の光景に息を飲んだ。


角を曲がった先。


そこには、今までの洞窟には存在しなかった黄金の岩肌が走っていた。


黒い岩の裂け目を、細い金色の筋が這っている。


鉱脈、というよりも血管に近かった。


あるいは、何か巨大な機械の回路。


それは光を反射しているのではない。


内側から淡く発光しているように見えた。


思わずその岩肌に触れようとした瞬間、ソウが私の肩を掴んだ。


「ソフィア。分かっていると思うが、むやみに触れるなよ」


「わっ……分かってるよ。ただ……これって、金……だよな?」


「解析してみないと分からないが、おそらく金だ。ただ、この状況……普通に考えれば有り得ない。それに…”アイツら”の考えることだ。どんな仕掛けが施されているか分からない。君も気をつけたまえ」


ソウの顔が、一段と険しくなって見えた。


元軍人だから、私にも分かる。


お前がどれほどの戦場で、どれほどの死地を乗り越えてきたのか。


触れれば壊れてしまいそうな繊細さ。


時折見せる、あの柔らかい笑顔。


それなのに、自分自身にはひどく無頓着なところ。


お前はまるで、諸刃の剣だ。


扱い方を誤れば、自分自身を傷つけてしまうような。


そんな危うさを感じさせる後ろ姿だった。


だからこそ、私はお前を放っておけない。


私たちのような、死と隣り合わせの時代を生きた人間なら、誰しもが失ったものを抱えている。


今日を生きるだけで精一杯で、他人に構っている余裕なんてない。


それでも、私は知りたいと思った。


きっと、今にして思えば――


父さんの御伽話よりも、お前が背負っているものを知りたくて、私はその背についてきたのだと思う。






♦︎♦︎♦︎♦︎






黄金の輝きは、奥へ進むほど増していった。


すでにここは、さっきまでのどんよりした空気を纏った洞窟とは、別世界へ変わりつつあった。


けれど、その美しさと同じくらい、不気味さも濃くなっていく。


昔から、黄金には人を惹きつける魅力がある。


人を狂わせる美酒のような。


口に含んだ瞬間、脳を溶かす甘美な毒のような。


この黄金からは、そういうものを感じた。


美しい。


けれど、温かくはない。


財宝ではなく、墓所の装飾に近い。


そう思った瞬間だった。


「待て、ソフィア!」


ソウの右手が、私を制止した。


最初の違和感に気づいたのは、ソウだった。


星導の灯が、強い赤い光を発し始めていた。


今までとは違う。


強く、速く、まるで何かを恐れているかのような鼓動だった。


次の瞬間、私たちは目を疑うようなものを見た。


それは、最初は祭壇の一部に見えた。


金色の骨で組み上げられた、異様に大きな偶像。


頭部は王冠を戴いた髑髏で、背からは観音像めいた複数の腕が、蜘蛛の脚のように広がっている。


腕のあいだを、太い鎖が幾重にも渡されていた。


胸元には、さらに幾つもの髑髏が埋め込まれている。


黄金に輝いているはずなのに、そこには一片のぬくもりもなかった。


神聖さに似た形をしているのに、祈りたいとは思えない。


むしろ逆だった。


これは祈りを受け取るものではなく、祈った者を呑み込むものだと、身体の奥が先に理解した。


「ソウ……なっ……なんなんだ、これは……? これが、お前の探していたものなのか!?」


じり、と大地を擦る音がした。


私の右足が、無意識に後ろへ下がった音だった。


「残念だが、違う。今回も外れのようだ」


ソウの声は低かった。


「それに……こいつは守護者、あるいは番人といったところだ。星の防衛装置と言って――」


そこから先も、ソウは何かを説明してくれていた。


けれど、私の頭には、これっぽっちも内容が入ってこなかった。


事実は小説より奇なり。


そう口にしたら、ソウにまた何か言われそうだったから黙っていたが、正直、理解が追いつかなかった。


「まっ……待ってくれ。一服していいか? 少し整理させてくれ」


私は両手を出して、いったん待てと示した。


左胸ポケットにしまっていたジッポライターとマルボロを取り出す。


指で勢いよくジッポを弾き、咥えたマルボロの先へ火を寄せる。


肺いっぱいに煙を満たしてから、私はそれを一気に頭上へ吐き出した。


ダメだとは思っている……


それでも、やめられない。


これをやるたびに、頭の中の震えが少しだけ鎮まっていく。


輪の形をした紫煙が薄く広がり、黄金の壁の一部へと溶け込んでいった。


その瞬間。


壁の奥で、何かが微かに脈を打った気がした。


「……確かに、俺も初めて見た時には言葉を失った」


それを見計らったように、ソウが口を開いた。


「まっ……前にも、こんなものに対峙したのか!? さっきも言っていたが、なんなんだよ……」


「今回で8回目だ。ただ、こんなデカい奴は初めてだ。まあ……どこの世界にも、宝物の前には番人がいるということだ」


周囲の黄金も、目の前の異形も、理解するにはあまりにも現実離れしすぎていた。


それと同時に、ふと思ってしまった。


もしかしたら、父さんが語ってくれた御伽話の中には、こんな奴らもいたのだろうか――と。


その時だった。


カラッ、と。


金属特有の、高く鈍い音がした。


それは私の足元へ転がってきた。


見ると、古い金貨のようなものだった。


どこから落ちたのか、一瞬分からなかった。


けれど、視線を上げて気づく。


それは、あの黄金の髑髏の胸元に埋め込まれていた髑髏群の隙間から、剥がれ落ちたものだった。


番人の一部。


あるいは、この墓所に長いあいだ閉じ込められていた、何かの欠片。


そんなふうに見えた。


表面には、翼を広げた竜にも、舟にも見える紋様が刻まれている。


古びているはずなのに、その紋様だけは不思議と鮮明だった。


触れてはいけない。


そう思った。


ソウにも、むやみに触れるなと言われたばかりだった。


それなのに。


私は、それから目を逸らせなかった。


金貨が、私を呼んでいる。


そんな馬鹿げた感覚が、確かにあった。


不用意だった。


本当に、不用意だったと思う。


けれど、その紋様を見た瞬間、私は反射的にそれを拾ってしまった。


冷たい。


けれど、ただの金属の冷たさではなかった。


手のひらに触れた瞬間、胸の奥のどこかを、小さく叩かれたような気がした。


「ソフィア――――ッ!!」


ソウの声に反応して振り返った、その瞬間だった。


黄金の髑髏が、大きく口を開けた。


「κατάρα, ἀνάθεμα――――!!」


音が、来た。


いや、音ではなかった。


耳で聞くものではない。


頭蓋の内側へ、直接流し込まれる圧力だった


空気が震えた。


骨の奥を、汚されたような感覚がした。


耳を塞ごうとしても意味がない。


それは、耳ではなく、記憶に食い込んでくる。


この世すべての負。


未練。


怨嗟。


絶望。


そういうものを、凝縮して浴びせられた気分だった。





正直、今でも思い出すだけで、吐きそうになる……


あの時はソウに起こされるまで、その間の記憶はほとんどなかった。


それでも、感覚だけは覚えている。






黄金の光が、白い粉塵へ、


洞窟の冷気が、焼けた鉄と灰の匂いに変わる。


滝のないはずの場所で、何かが崩れ落ちる轟音がした。


左眼が、焼けるように痛んだ。


――また、ここだ。


そう思った瞬間、私はもうソフィア・マクレーガンではなく10歳の身体で、瓦礫の下にいた。


そこには……


「……お兄ちゃん?」


かつて私が忘れていた真実があった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る