第8話:滝の下に眠る、星の残響(前編)
滝は、まるで山そのものが白い息を吐いているみたいだった。
黒々とした岩肌を砕きながら落ちてくる水は、ひとつの流れというより、幅広い幕となって渓谷の奥を覆っている。
砕けた飛沫は朝の光を受けて細かな銀の粒に変わり、滝壺の上で霧のように漂っていた。
近づくたび、空気がひやりと薄くなる。
濡れた苔の匂い。
石に染みついた水の匂い。
肌に触れる冷気。
耳を圧するほど大きな水音が響いているのに、その奥には妙な静けさがあった。
騒々しさではなく、胸の奥まで洗い流されるような、神聖な静寂。
私は思わず足を止めた。
――父さんなら、きっとこういう場所を指して言ったのだろう。
“古い竜が眠り、妖精が道を隠し、選ばれた者だけがその奥へ進める”のだと。
子どもの頃、暖炉の火を見つめながら聞いた御伽話。
笑って聞き流したはずのそれが、今は目の前の景色と不気味なほどぴたりと重なる。
見たことのないはずの風景なのに、なぜか知っている気がした。
懐かしい、とさえ思った。
「どうした、ソフィア?」
ソウの声で、私は沈みかけていた過去から引き戻された。
「いいや、大丈夫だよ。少し昔のことを思い出しただけさ」
そう答えた瞬間、滝の白い幕の奥で、黒い岩肌がかすかに光った。
最初は、水飛沫が反射しただけだと思った。
落ちてくる水が陽を拾い、濡れた岩に一瞬だけ銀の線を走らせたのだと。
けれど、ソウは違った。
彼は何かに気づいたように目を細め、滝の前で足を止めた。
さっきまで冗談を交わしていた横顔から、余分な表情がすっと消えていく。
まるで、目の前の景色から、人間の感傷だけを切り離したみたいだった。
「……見つけた」
低く、そう呟く。
私は彼の視線を追った。
そこにあるのは、ただの岩壁にしか見えなかった。
黒く濡れた石。
苔の張りついた亀裂。
絶え間なく落ちる水の奥に沈んだ、古い山の肌。
けれど、ソウが少しだけ立つ位置を変えた瞬間、景色がずれた。
水飛沫の向こう、黒い岩の一角に、うっすらと線が浮かび上がる。
それは鉱脈ではなかった。
錆でも、ひび割れでも、苔の根でもない。
あまりにも細く、あまりにも整っていて、自然が偶然描いたものとは思えなかった。
幾何学模様。
いや、文字にも見える。
けれど、人間の文字ではない。
円と直線が複雑に絡み合い、滝の水を浴びながら、まるで岩の内側で静かに呼吸しているように淡く脈打っていた。
ソウが左手を開く。
その掌の上に、淡い光を宿した小さなキューブが現れた。
星導の灯――彼がそう呼んでいたもの。
立方体の内部で、青白い光がゆっくりと回転する。
その光は滝の音に合わせるように一度、二度、微かに震えた。
やがて、岩壁に浮かぶ線と同じ調子で淡く脈を打ち始める。
私の喉が、知らず鳴った。
これは違う。
ただの洞窟ではない。
水に削られた傷でもない。
あれは、誰かがここに残した意思だった。
その事実を理解した瞬間、父の声がまた、胸の奥で蘇る。
そんなもの、あるはずがないと思っていた。
けれど今、目の前の黒い岩は、確かに呼吸している。
ソウの掌のキューブは、それに応えるように光っている。
御伽話が、現実の形を持ち始めていた。
気づけばソウは岩壁へ右手を向け、空中に光る文字を刻んでいた。
「ᚠ・ᚢ・ᚦ」
その口から、フェフ、ウルズ、スリサズ――そんな響きの音が零れる。
意味は分からない。
けれどそれは、祈りというより、閉ざされた何かへ差し込まれる鍵のように聞こえた。
ソウが三つの音を刻み終えた瞬間。
黒い岩肌が水面のように揺らぎ、中心から闇が滲み出した。
それは光を吸い込む渦となって、内側へ開いていく。
滝の轟音が遠ざかり、その向こうに、ただの洞窟ではない“別の場所”の気配が口を開けていた。
私は滝の冷気とは違う震えを、背筋に感じた。
危険だ。
理屈より先に、身体がそう告げていた。
それなのに、目を逸らせなかった。
震えそうになる自分を鼓舞するように、両頬を軽く叩く。
静まりきった滝裏に乾いた音が響いたが、その音さえも黒い渦へ飲み込まれていった。
「行くぞ、ソフィア。覚悟はいいか?」
その言葉に、私は小さく頷いた。
そしてソウに続き、黒い渦の中へ足を踏み入れた。
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