第7話:朝風のなかで、笑いあった
朝、目を覚ますと、胸の奥に引っかかっていた何かが、少しだけほどけていた。
不思議なくらい、穏やかな気持ちだった。
久しぶりの、人のぬくもり。
まだ私の中には、ソウの体温と、あの力強い心臓の鼓動が残っている。
隣にはもう彼の姿はなかった。
けれど昨夜のことを思い出した途端、今度は私の心臓が早鐘みたいに鳴り出しそうになる。
それを誤魔化すように、胸元まで引き上げていた毛布をぎゅっと掴んだ、その時だった。
「よく眠れたか、お姫様?」
不意に降ってきた声に、身体が跳ねそうになる。
けれど、さっきまでの気持ちを悟られたくなくて、私は努めて何でもない顔を作った。
「……おはよう。昨日はありがと。ソウって、朝が早いんだな」
「いや、そんなことはないさ。ただ、隣で寝ていた“誰かさん”の寝相が悪くて、何度起こされたことか。君の隣で寝ていた男たちは、さぞ苦労しただろうな」
「わ、悪かったな! 寝相が悪くて! ……っていうか、そんな男たち知るか! ったく、人を何だと思ってるんだ!」
溜め息混じりに皮肉を言うソウへ、私はむきになって言い返し、その厚い胸板を軽く殴った。
するとソウは、少し困ったように肩をすくめる。
「悪い。冗談だ」
その顔が、なんだか妙に愛くるしく見えてしまって、余計に困る。
――吊り橋効果。
そんな言葉が、ふいに頭をよぎった。
咥えていた煙草の煙を空へ吐き出し、澄み切った青が白く滲んでいくのを眺める。
それを打ち消すように、私は吸い殻を携帯灰皿へ強く押しつけた。
まるで、今の自分の気持ちごと押し潰すみたいに。
「ソフィア。やっぱり君の話どおりだった。あの滝の下から、強い反応がある」
あの滝の下――。
私が話した、昔の思い出。
家族でキャンプに来た時、パパが語ってくれた御伽話。
『この滝の奥には異界への門がある。だから決して、一人で遊びに行くなよ。いいな、ソフィア』
胸の奥で、懐かしい声が静かに蘇る。
「大丈夫か、ソフィア?」
「ああ、もちろん。それより……まさか、あの御伽話が本当だったなんてな」
懐かしさに浸っていた私を、ソウが気遣わしげに見ていた。
でも私は平気だった。
むしろ知りたい。あの時パパが楽しそうに話してくれた、その物語の先を。
荷物をリュックにまとめ、煙草に火をつける。
するとソウが少し難しい顔をして言った。
「ソフィア、君はこの調査に無関係だ。無理について来る必要はない。ここまで付き合ってくれただけでも、十分助かっている」
「気遣いはありがたい。でも私は、自分の意思でここにいるんだ。それに――乗りかかった船、ってやつさ。旅は道連れ、世はなんとやら、だろ?」
「ずいぶん怪しい使い方だな」
「意味が通じれば問題ない」
ソウは呆れたように小さく笑った。
それで十分だった。私は勝手についていく。
Glock 43Xに弾を込め、腰のベルトに差す。
Savage Lady Hunterのスリングを肩に通し、ストックを右肩へ固定する。
コッキングレバーの感触は悪くない。スコープ越しに覗いた野鳥は、羽先までくっきり見えた。
そんな私を見ながら、ソウは半ば感心したように言った。
「さすが元軍人だな。無駄がなくて綺麗な所作だ。もっとも……それが活躍する場面はないと思うがね」
「どうだか。まあ、ただの手慰みさ。それにソウ、お前は女の必需品って何だと思う?」
「……急だな」
「銃とコンドームさ。どっちも持っていれば安全だからな。どうした? 案外、お前は“女”を知らないのか? こんな世の中だろ?」
少しは言い返せた気がして、私は得意げに笑った。
ソウは一拍置いてから、なんとも言えない顔になる。
「こんな時まで君という女性は……」
「ははっ、バーの女店主を舐めるなよ。酔っ払い相手ってのは、こういうことさ」
煙草を咥えたまま顎を上げると、ソウは鼻で笑った。
「君のバーは、さぞ賑やかで楽しいんだろうな。これが終わったら、一度邪魔させてもらうよ。自慢のメニューは?」
「美人店主特製のフィッシュ&チップスさ。ママ直伝の味でね。あれを食べたら、もう他じゃ食えないよ」
「それは楽しみだ。ところで、その美人店主はどこにいるんだ? 確か君の店、ソフィア一人だったよな?」
「……は?」
私は思わず、咥えていた煙草を地面に落とした。
次の瞬間には、ソウの首へ腕を回していた。
「いるだろうが、こ・こ・に! お前の目は節穴か!? 近くでしっかり拝め!」
「い、痛い! 悪かった、冗談だ! それに……当たってる! 本当に先が思いやられるな……!」
「知るか!」
二人そろって、大きく笑った。
出会ってまだ間もないはずなのに。
胸の奥へ、春先の風みたいなものが吹き込んでくる。
あたたかくて、懐かしい風だった。
まったく、ソウ。
お前は本当に不思議な男だ。
一見、ぶっきらぼうで愛想が悪くて、皮肉屋で、理屈っぽい。
そのくせ、ふとした拍子に少年みたいに人懐っこく笑う。
冗談とも本気ともつかない顔で、くだらないことを口にする。
でも、その奥に。
触れたら壊れてしまいそうな、ガラス細工みたいな繊細さがある。
あの夜。
焚き火のそばで、お前が年季の入ったブレスレットを見つめていた時。
あの瞳に、何が映っていたのか……
その時の私には、まだ分からなかった。
お前が背負っているものの重さを。
一人の人間には、あまりにも重すぎるその宿命を。
まるで――
世界の火を託された、プロメテウスのように。
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