第6話:そのぬくもりに、名前はまだない



目を開くと、そこには懐かしい光景が広がっており、見上げた先には星の回廊があった。


無数に散りばめられた星々を指差しながら、私は尋ねる。



「パパ! あれがデネブで、こっちがベガ、ええっと……こっちがアルタイル?」



私は分厚い本を片手に、群青の空いっぱいに広がる星々を見上げていた。



「ああ、そうだとも。さすが俺の娘だ。イーサンもこっちへおいで」



パパの分厚い手が、これでもかというほど私の頭を揉みくちゃにする。


でも、私はそれが嫌いじゃなかった。


その手には、温もりと優しさが詰まっていたから。



「なんだい、父さん♪」



プラチナブロンドの、少し癖のある髪。


少年と呼ぶにはもう大きく、青年と呼ぶにはまだ幼さの残る、そんな柔らかな表情をしたお兄ちゃんが、私たちのところへやって来た。



「いいかい、イーサン。それにソフィア。あの星を覚えておくんだ」



それからパパは楽しそうに、星の話や、お祖父ちゃんから聞いたウェールズの古い御伽話を聞かせてくれた。


「ルーサー♪もう子どもたちもお腹が空いてるでしょうから、こっちへ来なさい♪♪」


ほろほろに煮込まれた肉の深い旨みが溶けたコテージパイと、白身魚がふっくらとやわらかくほどける、塩気のきいたフィッシュ&チップスの香りが、私たちのもとへ流れてくる。


私の大好物。


ママの味。


私は一番乗りでテーブルへ駆け寄った。


それに続くように、お兄ちゃん、ママ、パパも席につく。


みんなで手を繋ぎ、目を閉じる。



「父よ、あなたの慈しみに感謝して、この食事をいただきます。アーメン」



その言葉が意識から切り離されるように、だんだん小さく遠ざかっていく。


気づけば私は、宙に向かって手を伸ばしていた。


今にも掴めそうな距離にある星の回廊。


それでも届かず、虚しさだけが私の手の中に残る。


あの塩気を含んだ香りも、まだ鼻腔に流れ込んでくる――


まるで、さっきまで食べていたみたいな温かい味を、私の舌が覚えていた。


その瞬間、言葉にできない空っぽな気持ちが、胸を少しずつ締めつけてくるのを感じた。


やっぱり、ここ数日の私は変だ。


連日いろいろと忙しかったし、嫌な思いもした……もちろん、良いこともあった。


たぶん、そういう時期のせいで身体の調子も少し不安定なんだと思う。


じゃなきゃ――


久しぶりに、あんな温かい夢なんて見ない。


私の大事な宝箱にしまっていた思い出を。


ぼんやりした頭で焚き火を見つめていると、反対側では穏やかな顔つきで眠っているソウがいた。


初めてお前に会った時から思っていた。


そのどこか懐かしい、少し癖のある白銀の髪。


だから私は、お前に対する警戒心が緩かったんだと思う。


大好きだったお兄ちゃんに似た、その顔を――


きっと……あの日から15年も経っていれば、お兄ちゃんもこんな感じになっていたのかな……。


気づけば私はソウのそばへ寄り、その痛々しい傷に――


触れようとした、その瞬間だった。


ソウの目が急に開いたかと思うと、一瞬で私は押し倒されていた。


右手から蒼白く光る刃が伸び、私の首元すれすれに突きつけられる。


後にも先にも、あんな鬼神がかった顔のお前を見たことはなかった。


荒い呼吸が、熱を帯びた鼻息となって私の頬をかすめる。


こんな状況じゃなければ、きっと心臓は沸騰するほど高鳴っていたんだろう。


でも今は、そんな気分に浸っている余裕なんてない。


我に返ったようにソウが現状を理解し、少し取り乱したように謝る。



「す、済まない、ソフィア……。戦場や、傭兵時代の癖だ……。まだ、その……身体が反射してしまうんだ」



「いや、いいんだ。不用意に近づいた私が悪かった。……済まないが、その右手と、私を押さえてる身体をどけてもらえるかい?」



身体をどかしたソウは、ばつの悪そうな顔で頭を掻いた。


その仕草まで、お兄ちゃんにそっくりだった。


ぱち、ぱち。


焚き火の静かに朽ちる音だけが、その場を支配していた。


響くその間が、今の私たちの心境をそのまま表しているようだった。


だから私は言った。


この空気を壊すために。



「その……なんだ。お前のナノなんたらって、温かいのか? お前、それと赤い外套くらいしか纏ってないから、寒いんじゃないかと……思ってさ」



少し浮ついて、棒読みだった。


この時ほど、自分に女優の才能がないと思った日はない。



「ああ、もちろんだとも。最初は違和感があるが、慣れてしまえば存外悪くないぞ。……それがどうした?」



不思議そうな顔で応えるソウに、私は乾いた口をそっと湿らせ、唾を喉の奥へ押し込んでから言った。



「そんなに暖かいなら、私も側に寄っ……寄ってもいいか? 焚き火の前で寝ていても、今日は寒いんだよ……」



少し身構えていたソウは、数秒後には鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、それから呆れたように苦い顔でため息をつく。



「やれやれ、ソフィア。君という女性は……」



ソウが全部言い切る前に、私は人差し指でその口を塞いだ。



「女に恥をかかせるな……。女はその……気持ちが不安定になる時があるんだよ。ホルモンとか、いろいろと……あるだろ? 身体を冷やしちゃいけないとかさ」



ここまで言えば、この男も何かを察したらしい。


いや、本当はまだ“その日”じゃないんだけど、そういうことにしておくのが女の利点である。


でも――


今この胸の中にある、言いようのない不安だけは本物だ。



「ふぅ……分かった。それで、俺はどうすればいいんだ?」



思っていたより話が通じる。


というより、観念した様子だった。


だから私は心の中で少し笑ってしまった。


お前、意外と押しに弱い男なんだなって。



「何か言ったかい、ソフィア?」



「ま、まだ何も言ってないよ!! そっ……それより、少しの間でいいからさ。側にいてほしいんだ」



危ない、危ない。


顔が少し綻んで、口元が緩んでいたらしい。


それからソウは、そっと左腕を開いて私を胸元へ引き寄せてくれた。


温かい……。


それに、逞しい胸の奥からは力強い鼓動がはっきりと伝わってくる。


どくん、どくん。


生きている人の温もりを、私は確かに感じていた。



「今日のはアレだからな、その……お前の国でいうアレだからなっ! ほら、“遠い親戚より近くの他人”ってやつだからな。勘違いするなよ」



私は安心したせいか、照れのせいか、ことわざまで少しおかしくなっていたらしい。


それを見かねたのか、ソウはまた何かぶつぶつ言っていた。


それでも私は嬉しかったんだと思う。


誰かと触れ合うことが、こんなにも身体だけじゃなく、心まで温めてくれるのだと、思い出せたから。


だから私は安心してソウの胸に身を預け、自然とまた夢の世界へ落ちていった。


遠のく意識の中、重たくのしかかってきた右目の瞼が、その時、薄らとひとつの形を捉える。


そこには、あの人懐っこい笑顔のお兄ちゃんが重なって見えた。



「おやすみ。ソフィア」



「うん、おやすみ。大好きなお兄ちゃん」



今でも覚えている。


あの時、優しく頭を撫でてくれたことも。


――お前の、その優しい笑顔も。

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