第5話:夕星の下で、宝を語る
朝の風は、思っていたよりずっと冷たかった。
雨上がりの草を踏むたび、青い匂いがふわりと立ちのぼって、まだ酒の抜けきらない頭を少しずつ醒ましていく。
見上げれば、白い雲の影がゆっくりと山肌を渡り、そのたびに緑の濃淡が静かに塗り替わった。
遠くの稜線は朝日に淡く縁取られ、谷の底にはまだ昨夜の靄が薄く残っている。
何もない――そう言ってしまえばそれまでの景色なのに、どうしてだろうな。
ここに立っているだけで、胸の奥の空っぽな場所に、少しずつ何かが満ちていく気がした。
私は小さく息を吐いて、隣を歩くお前に笑った。
「どうだ、ソウ。ここらも悪くないだろ?」
「ロンドンにはよく来るが、ウェールズは初めてだ。UKにも……いや、世界にも、まだ残っているんだな。こんな、自然が豊かな場所が……」
ソウの言いたいことも分かる。
あの日を境に、世界は変わった。
でも、変わらないものもある。
それが、私がここにいる理由だから――。
車を置いてきたあの場所から、私とソウは徒歩でカーディフを目指していた。
右手につけた時計が、短く電子音を鳴らして15時を告げる。
だいたい5時間ほど歩き続けていた。
「少し休憩にしないか、ソウ?」
「そうだな。カーディフまではまだ距離があるし、野営できそうな場所を早めに確保しておきたい」
私は荷物をまとめたリュックから水を取り出して、乾いた唇と喉を潤した。
ふっと息をつき、遠くの稜線を眺める。
何年ぶりだろうか――。
大人になると、あの頃見ていた世界の色が変わるというけれど、ここは変わらない。
Pen y Fan や Cribyn の高峰を遠くに見ながら歩いていると、山肌の緑は時間とともに濃さを増していく。
高原を渡る風に揺れた草の波は、まるで湖面のさざ波みたいだった。
雲の切れ間から差し込んだ光だけが、遠くの斜面を一枚ずつ静かに照らしている。
私はしばらく、何も言えなかった。
何もない景色のはずなのに、こうして見ていると妙に胸にくる。
言葉にしづらいけど、ここに立つと“帰ってきた”って思うんだ。
そんなふうに感じられるようになったのは、いつからだろうか。
少し長く景色を見つめていた私に、ソウが声をかけてきた。
「大丈夫か、ソフィア? まだ二日酔いが残っているのか?」
「いや。ただ……いい景色だと思ってさ」
それから私とソウは、たわいもない話をしながらカーディフへ向かった。
普段は車でロンドンまで往復していたから、今まで気づかなかったんだと思う。
少し先へ目を配り、耳で音を拾い、鼻で空気を感じるだけで、世界の色がちゃんと応えてくれることに。
いや――
私たちには、そんな余裕がなかったんだろうな。
目の前の自分と、自分の手の届く半径五メートルほどのことで、いつも頭がいっぱいだったから。
「ソフィア。今日はこの辺りで野営にしよう」
その一言に、私は空を見上げて気づいた。
空の青がゆっくり薄くなって、代わりに地面の匂いが濃くなってきたことに。
風は冷え、草の先だけが銀色に見える。
「そうだな、ソウ。今日も一杯やるかい♪♪」
ニヒルに笑ったソウの顔は、“悪くない”とでも言いたげだった。
そこらに落ちていた焚き木や燃えそうなものを集めて、私は口にくわえていたマルボロをその中へ放り込む。
焚き火の火がしっかり立つより先に、空の星が少しずつ増えていくのを感じた。
ぱち、ぱち。
焚き火の炎は小さかった。
けれど、乾いた枝がぱちりと爆ぜる頃には、空はすっかり夜のベールに覆われていた。
夜は深かったけど、黒というより沈んだ群青に近い。
見上げるほど、自分が小さくなっていく気がする。
でも、闇が澄んでいるからこそ、光が刺さる。
「さっきから空ばかり見上げているが、どうした?」
「何でもないさ。ちょっと昔見た宙を思い出しただけだよ。それより、昨日言っていた“調査”は本当にこっちで合っているのかい?」
感傷に浸りかけていたのを誤魔化すように、私は話をすり替えた。
「間違いなさそうだ。“星導の灯”が、どんどん強くなってきている」
ソウはそう言って、手のひらにキューブ状の端末を出した。
それはくるくると回転しながら、北西の方角へ向けて色を点滅させている。
私がそのキューブを不思議そうに見ていると、ソウは小さく続けた。
「地域によって呼び名は違うが、こっちでは“星導の灯”、東では“アガルタへの鍵”とも呼ばれていたらしい」
そう言って細々と説明してくれたが、酔い始めた私には何が何だかよく分からない。
ただ、詳しいことまでは話せないらしいが、地中に眠る未知のレアアースがこのウェールズにはあるという。
そのレアアースは復興に必要な新素材になるとかで、密かに各国が血眼になって探している――らしい。
けれど、ソウは嘘をついている。
酔いの回った今の頭でも、それくらいは嘘だと解る。
うまくできた話ではある。
でも、節々に引っかかるところがあった。
昨日、私が何気なく口にした
“ウェールズに眠る御伽話”
“私の宝物”
“学術家だった祖父”
そんな話に、お前は思っていた以上に強い興味を示していたからだ。
でも、ソウは悪いやつじゃない。
もし嘘をついているのだとしても、それはきっと人を傷つけるための嘘じゃない。
むしろ、人を遠ざけるためにつく嘘のように思えた。
だってお前は、少し理屈っぽくて皮肉屋なところはあるけれど、私を助けてくれた時に見せた、あの“怒り”に似た表情だけは本物だと思うから――。
今もお前は、バーボンを片手に、その腕につけた少し古びたブレスレットを眺めている。
何かを懐かしむような、寂しい顔をしていることに――
お前は、気づいているのか?
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