第3話:満ちた月と、止まっていた時間



“あの日”から、一週間が経った。


幸い、私の身体は左目の傷以外に目立った外傷はなく、


衰弱していた身体も少しずつ回復していった。


でも――


この胸の奥にできた傷だけは、もう治らないのだと、幼い私は悟ってしまった。


それは歪な形に裂けた傷だった。


そこにあった一番大切なものを、丸ごと抜き取られたみたいに。


深い虚空の闇が、心の中心にぽっかりと空いてしまった。


それでも、私はまだ運が良かったと思う。


この野営病院へ運ばれてくる人たちの痛々しい姿。


阿鼻叫喚の叫び声。


もう助からないのだろうと、子供の私にすら分かってしまう人たち。


その目から光が失われていくのを、私は何度も見た。


もし私が、こんな状況じゃなかったら。


きっと、とっくに気が狂っていたと思う。


でも人間って生き物には、“慣れ”というものが備わっている。


非日常は、残酷なくらい静かに日常へと姿を変えていく。


そんな時だった。


ラジオから、新年を告げる挨拶が流れてきた。


私が生まれて初めて見る代物。


きっと、パパよりもっと昔の時代から残っていた、防災用の機械だと思う。


ラジオの向こうからは、”New World Order” による全世界への追悼と、


この未曾有の大災害についての説明が始まった。


それは――


子供の私ですら、さらに絶望してしまう内容だった。



“新世代AIの暴走”



“核ミサイルの応酬”



“大地震による各国主要都市の崩壊”



もちろん、私の母国イギリスも例外じゃなかった。



“バッキンガム宮殿の崩落”



“市内で起きた暴徒による反乱”



“ストーンヘンジの陥没”



耳を塞ぎたくなるような話ばかりだった。


きっとこれは、悪い夢なんだ。


目を閉じて眠れば朝になって、愛犬シュタイナーが起こしに来てくれる。


私の顔をこれでもかと舐めまわしながら、甘えてくる可愛い子。


下のリビングからは、ママが鼻歌まじりに朝食を作る音が聞こえてくる。


フライパンの上でベーコンがじゅうっと弾け、食器の触れ合う小さな音が、それに心地よく重なった。


湯気の向こうからは、あの甘い香りの紅茶がふわりと漂ってくる。


焼きたてのトーストの香ばしさ。溶けたバターの匂い。マーマレードのやさしい柑橘の甘さ。


ベーコンエッグの塩気と、みずみずしいサラダの青い香り。


その全部が混ざり合った朝の匂い。


それが、私の大好きな朝の風景だった。


朝食の香りに包まれても起きてこない私を迎えに来るのは、いつだってパパの役目。


お気に入りのパジャマに寝癖頭の私を見て、お兄ちゃんはいつも笑っていた。


でもそのあと、必ず優しく頭を撫でてくれるのも、お兄ちゃん。


私は、その時間が大好きだった。


瞼の奥には、今でも家族の笑顔で溢れた団欒が焼きついている。


でも――


それはもう、過ぎ去った過去の話だ。


この野営病院の硬いベッドで目を覚ますたび、私は思い知らされる。


自分が失ったものの大きさを。


二度と戻らない人たちの尊さを。


それでも――


変わらないものもあった。


野営病院の窓から、月光が差し込んでくる。


その日の夜は満月だった。


光を失った世界の中で、


その月明かりと、夜空に瞬く星々の煌めきだけが、私の救いだった。


「綺麗……」


思わず、吐息みたいな声が零れる。


吐く息は白く、冷えた夜の空気にほどけていく。


そのせいか、夜空に散る星々の煌めきは、いっそう鮮やかに、残された右目を潤した。


もう――


涙は枯れた。


そう思っていた、


――その時だった。


一粒の流れ星が、深い蒼とも紺とも呼べない夜空のキャンバスを、静かに走っていった。


きっと――


もう泣けない私の代わりに、お月様が応えてくれたんだと思った。


伸ばせば掴めそうなくらい、近く感じる――


**満ちた月だった。**






♦︎♢♦︎♢♦︎♢♦︎






あれから15年が経った。


あの日の私も、気づけば大人になっていた。


この15年のあいだにも、嫌なことは山ほどあった。


もちろん、家族を忘れた日なんて一度もない。


でも――


この感情だけは、ずっと知らないままだった。


いや。


もしかすると、初めてだったのかもしれない。


お前のその顔が、どこかそんな空気を纏っていた。


「どうかしたか? どこか痛むのか?」


お前のその一言で、私は我に返る。


「いや、そんなところはないよ。それより、助けてくれてありがとう。私はソフィア……ソフィア・マクレーガン」


差し出した右手に応えるように、


お前も右手を出して、静かに握ってくれた。


「俺は……ソウでいい」


少しだけ間を置いて、お前は視線を外す。


“でいい”って何だよ――


そう思ったけど、それ以上踏み込める空気でもなかった。


だから、そんな空気を変えたくて、私はわざと軽い調子で聞いてみた。


「ソウは……なんでこんな所に一人でいるんだ?お世辞にも、何もない場所だぞ?」



「詳しいことは言えないが、とある財団の依頼で“地質調査”をする予定だった。


……が、あのバカが“座標”をミスったせいで、こんな所に落ちて迷っていたってわけさ。おかしな話だろ?」


そんなふうに両手を上げて皮肉っぽく笑うお前につられて、思わず私も笑ってしまった。


「アハハハッ、なんだそりゃ。よく分からないが、確かにおかしな話だな。……へっくしょん!」


今の話で緊張が解れたのか、それとも絶望の底から引き戻された安堵のせいか。


さっきの騒ぎで、お気に入りのバンドTシャツは無残に裂かれていて、


私の身体はようやく寒さを思い出したらしい。


さすがにバケーションシーズンとはいえ、夜も更ければ外は冷える。


そんな私の姿を見かねたのか、


お前は何も言わず、着ていた服を脱いで差し出してきた。


「いや、いいよ! いや……よくないけど。ソウの服がなくなる……だろ?」


その一言を言い終える前に、私はお前の姿を見て、思わず言葉を詰まらせた。


そこにあったのは、今の時代にはあまりにも不釣り合いな、機械仕掛けの身体だった。


また私は、顔に出ていたんだと思う。


きっとそんな私を見たから、その服の下にあるものを説明してくれたんだろう。


「これは試験的に作られたプロトアーマで、ナノ粒子で構成されている。


軽いが強度も出力も高い。体温調整も自動でやってくれるから、服がなくても問題ない」


そう言って、お前は私に服を渡し、その上から赤い外套を羽織った。


礼を言って借りたフード付きのアーミージャケットとTシャツからは、


どこか懐かしい香りがしたのを、今でも覚えている。


優しさを纏った人の温もりみたいな香りを。

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