第1話:あの日見た月と、星屑の夜


あれは、子供の頃の話だ。


パパは暖炉の前で、よく昔話を聞かせてくれた。


暖炉のぬくもりと、愛犬シュタイナーの体温に身を寄せながら、ウェールズの昔話を聞くのが、幼い私の日課だった。


「いいかい、ソフィア。よく覚えておくんだ。


このウェールズには、たくさんの物語が眠っているんだ」


あの時のパパは、少年みたいな眼差しで私に語ってくれた。


アーサー王物語。


ケルトの古い伝承。


古代ブリテンに眠る竜王の話。


そして――


霧の日に現れる、異界の門の話。


山から人攫いが現れて、悪い子供を連れて行くという話を、当時の幼い私は本気で怖がっていたのを覚えている。


「だからソフィアも、パパとママとの約束を守るんだぞ」


パパは笑顔で、大きな小指を私の前に差し出した。


私はその小指に、自分の小さな指を絡めた。


あの指切りを、今でも覚えている。







♦︎♦︎♦︎♦︎







今日はやけに、昔の自分を思い出す。


気づけばドリンクホルダーの空き缶には、吸い殻が山みたいに積み上がっていた。


今になってこんな話を思い出すのも、きっと――


さっき山脈を越える時に、人影みたいなものを見たせいだ。


確かに見えた。


サイドミラーの向こう、あの山の稜線に、誰かが立っていた。


それに、静かだけど、私には聞こえた気がした。


風と一緒に運ばれてくる、微かな声が。


けれど、それは次の瞬間、フロントガラスを激しく叩く雨音にかき消された。


土砂降りの雨が、一気に視界を曇らせる。


ただでさえ舗装されていない道が、激しい振動となって車内全体を揺らした。


次の瞬間――


ランドクルーザーの前輪が大きな岩でも踏んだのか、ハンドルを大きく持っていかれた。


強い衝撃が車内を走る。


「いってぇ……マジかよ……」


ハンドルに突っ伏していた顔を上げると、車体が斜めに傾いているのに気づく。


きっと左前輪が岩に乗り上げたうえに、エンジンまでイカれたか。


試しにアクセルを踏み込む。


けれど、空しく唸る音だけが、この広い荒野に響き渡るだけだった。




♦︎♦︎♦︎♦︎




あれから、どれくらい時間が経っただろう。


嵐こそ過ぎ去ったが、車はまるで動く気配がない。


「こんなことなら、モーテル代をケチらず、ジョンの言う通りに泊まればよかった」


思わず独り言が漏れた。


まぁ――


起きてしまったことを悔やんでも仕方ない、というのが私のモットーであり、この世界を生きる処世術でもある。


幸い、買い出しのおかげで食料も水もある。


明日の朝にでも無線を飛ばせば、何とかなるかもしれない。


いざとなれば、愛息子たち――《Glock 43X》と《Savage Lady Hunter》が助けてくれる。


そう思うと、少し肩の力が抜けた。


荷物を整理しているうちに、雲の切れ間から月明かりが差し込み、地面にわずかな光が戻ってくる。


窓を開けて見上げると、そこには雲ひとつない夜空が広がっていた。


満天の星と月明かりが、この場所のすべてを静かに支配している。


久しぶりに見る夜空に、きっとあの時の私は心を奪われていたんだと思う。


かつて家族と一緒に Bannau Brycheiniog でキャンプした時に見た、あの星空を思い出してしまったからだ。


空というキャンバスに、星屑を無数に撒き散らしたみたいな輝き。


あれは今でも、私の中に残っている。


「よし、決めた!! 今日は野営だ。この空で一杯やろ!!」


そうと決まれば、行動は早い。


酒が絡むとやたら手際が良くなる自分に、つくづく酒好きだなと笑ってしまう。


でもきっと、あの時の私は少し浮かれていたんだと思う。


家族と見た思い出の空と、夢のせいで。


でなければ――


あんなミスはしなかった。




♦︎♦︎♦︎♦︎




右手のアナログ時計は、21時を指していた。


簡単な焚き火と寝床、それに食事の準備まで終わる。


バチバチ、と焚き火の弾ける音。


その向こうには、空の静寂。


右手に持ったビールを口へ運ぶ。


喉の奥へ流れ込んだアルコールが、我先にと身体の深部へ染み渡っていく。


声にならない喜びが、思わず口から漏れた。


こればっかりは、“大人”にならないと分からない悦びだと思う。


長時間運転の疲れが、少しずつ身体から抜けていくのが分かった。


「たまには……こんな夜も悪くないか……」


私は見渡す限り広い空の海へ向かって、ビールを持ち上げた。


1人きりの乾杯。


その夢見心地に落ちる前に、私を現実へ引き戻すものが現れた。


微かな物音。


私は身体を起こし、闇に向かって言った。


「誰かいるのか!!?」


物陰から、5人組の男たちが現れた。


「よっ、お姉さん。ひとりで何してんの?」


「俺らも混ぜてよ♪♪」


「こんな辺境で何してるんだい?」


5対1。


囲まれた。


まずい……


「ちょっと車がエンストして、野営してただけさ。あんたたちは?」


会話しながら時間を稼ぐ。


相手に気づかれないよう、左手を寝床の脇へ忍ばせて探る。


それが私の“ルーティン”だった。


……けれど、今日は違った。


愛息子たち――《Glock 43X》と《Savage Lady Hunter》を、ランドクルーザーに置き忘れていた。


たぶん、その時の私は顔に出ていたんだと思う。


一瞬、車へ視線を送ったのを見逃さなかった奴がいた。


「お姉さん、車に何かあるのかい?」


ニヤニヤ笑うサングラスの男。


きっと、こいつが5人組のリーダーだ。


「悪いが“ツレ”がいるんだ。もし食料や水が欲しいだけなら、少しなら分けてやれる。ウェールズでバーをやってるからさ」


ハッタリをかました。


こいつらが“物資だけ”目的の強盗なら、話は通じる


――はずだった。


「そりゃありがたい話だ♪♪ もちろん遠慮なく頂くよ。“俺は”な。こいつらは知らないが」


周りの男たちも、不穏な笑みを浮かべながらじりじりと近づいてくる。


最悪だ……


私の“女の勘”は、良くも悪くも当たる。


「まずは俺と一緒に遊ぼうぜぇ、お姉さん♪♪」


右手を掴んできた男の手首を捻り上げる。


体勢が崩れたところへ、膝蹴りを顔面に叩き込んだ。


「ひぎぁ!!」


男は地面に倒れ、そのまま動かなくなる。


「これでも元軍人だ! 女だからって舐めてると、怪我じゃ済まないぞ!!」


一瞬、何人かの男はひるんだ。


けれど、そうじゃない奴もいた。


「いいじゃん♪ いいじゃん♪ 久しぶりに活きのいいラビットちゃんじゃん!」


こいつ"も"……元軍人だ。


足さばきも、拳の重みも違う。


慣れた拳の動きを、辛うじて避けるので精一杯だった。


しかし――


「ぐあっ……!」


しまった……左目の死角が仇になった。


さっき倒した男が私の左脚を掴み、体勢を崩したところへ、元軍人の右ストレートが顎に入る。


そのまま地面へ倒れ込んだ私を、男たちは一気に取り押さえた。


頭の中がクラクラする。


脳震盪か……


働かない頭で必死に状況を整理していると、元軍人の男が背後から馬乗りになってきた。


「捕まえたぜ、ラビットちゃん♪ これからが本当の異種格闘技戦だぜ。寝技のな!」


ゲスな笑い声達が頭に響いて痛い。


「離せよ! こんなことして何になるんだよ!こんな時代だからこそ、助け合いが必要なんだろ!」


朦朧とする頭で、私はできる限り抵抗する。


けれど、だいの大人4人に押さえ込まれていては意味がない。


細やかな抵抗の証みたいに、土埃だけが空へ舞った。


「こんな時代だからだよ。本能のままに行動して何が悪い?


腹が減れば奪う。やりたくなったら犯す。それが動物の本能ってやつだろ?」


カチャ、カチャ――


笑い声の向こうで、ベルトを緩める音がした。


クソ……なんだよ、それ。


それが本当なら、この世界は“あの日”にもう終わってるだろうが。


それでも私たちは、毎日を助け合って生きてるんだろうが――


パパ、ママ……ごめん。


お兄ちゃん……助けて。


それは、祈りみたいだった。


“あの日”のか弱い少女が、誰かへ助けを求めるような。


眼帯をした左目の奥から、僅かに一筋の涙が地面を濡らす。


ビリビリビリーッ!!


静まり返った空間に、私の着ていたTシャツが豪快に裂ける音が響いた。


すべてを諦めかけた、その瞬間。


また、あの声が聞こえた。


それは、あの時みたいに風へ消えていくか細い声じゃなかった。


力強く。


はっきりと。


私の耳は、その声を捉えた。


「コードオープン」


それが、私とお前が出会った最初の夜。


星々の輝きを一身に受けた満月を背に、


その赤い外套が靡くのを、私は今でも覚えている。


残された右目で、しっかり焼き付けたから。

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