『クロス・オーバー ――いつか君と重なる未来――』
© 一ノ瀬 玲央(Reo Ichinos
プロローグ:灰色のロンドン
地上45000メートル。
ガラス張りの展望フロアの向こうには、空でも宇宙でもない世界が広がっていた。
青く広がる空の上に、さらに深い蒼が重なっている。
宇宙<ソラ>と空<そら>の狭間から見下ろす地球は、どこまでも静かで、どこまでも美しかった。
星間移動ステーション。
かつて羽田空港があった場所には、今や世界初の宇宙港――
軌道エレベーター
この日は、私の10歳の誕生日だった。
家族と初めて日本へ旅行に来て、人生でいちばん綺麗な景色を見て、
それが最高の思い出になる――はずだった。
「すごい……!」
私は思わず駆け出していた。
初めて見る景色。
宇宙<ソラ>と空<そら>のあいだから見える世界。
「見て、お兄ちゃん! あそこ、雲の上だよ!」
私はガラス越しの空を指差した。
遥か下には白い雲海。
そのさらに下には、街が小さな模様のように広がっていた。
「だから走るなって。転ぶぞ」
後ろからお兄ちゃんの声。
「大丈夫だもん!」
振り向きながら言うと、お兄ちゃんは肩をすくめて笑った。
「まったく、ソフィアは子供だな」
その言い方が少し悔しくて、私は頬を膨らませる。
するとお兄ちゃんは堪えきれないみたいに笑った。
少し離れたところから、ママの声が聞こえる。
「もぅ――ソフィアったらぁ!」
「大丈夫だよ、アメリア。誕生日に家族一緒が楽しいんだろ。」
パパの優しい声が重なった。
私はその言葉に、少しだけ胸を張る。
だって今日は――
私の10歳の誕生日なんだから。
その瞬間だった。
ゴゴゴ……ッ!
展望フロアが激しく揺れた。
「きゃっ!」
私は反射的にお兄ちゃんにしがみつく。
館内に警報が鳴り響いた。
――緊急事態発生。
――緊急事態発生。
管制AIの無機質なアナウンスが流れる。
だが、その内容を理解するより早く――
ガラスの向こうに、異様な光景が広がっていた。
地上へ向かって、
無数の光の矢が落ちていく。
――それは、昔ママが聞かせてくれた聖書の「黙示録」みたいだった。
そして次の瞬間。
世界中に、巨大なキノコ雲が立ち上がった。
「……え?」
言葉が出なかった。
ドォォンッ!!
凄まじい衝撃が施設を襲う。
天井が崩れ、ガラスが砕けた。
悲鳴がフロアを埋め尽くす。
「逃げろ!!」
誰かの叫び声。
人々が一斉に非常通路へ走り出した。
私もお兄ちゃんに手を引かれ、走る。
足元が何度も揺れる。
そのとき――
バリンッ!!
展望フロアの巨大なガラスが砕け散った。
猛烈な風が吹き込み、人々の体が宙に浮く。
次の瞬間――
1人の男が、宙へ吸い上げられた。
小さくなっていく人影が、遥か下の地上へ向かって落ちていく。
それが人だと理解した時、私の喉から遅れて悲鳴が漏れた。
「ソフィア、こっちだ!」
お兄ちゃんが私の手を強く引く。
非常区画の奥には、
地上行き緊急ポッドの列が並んでいた。
その前に、パパとママがいた。
「あぁぁ、ソフィア!!」
ママの声。
パパは私の肩を強く掴んだ。
「いいか、ソフィア。先に行くんだ!」
「パパとママは!?」
叫ぶ私を、2人はポッドの中へ押し込む。
「大丈夫だ。すぐ後から行く」
パパはそう言って笑い、振り向く。
「イーサン!! ソフィアを頼んだぞ!」
その声に、お兄ちゃんは力強く頷いた。
パパは安心させるように、優しくお兄ちゃんの肩に手を置いた。
その時の笑顔を、私は今でも覚えている。
ママは、私の頬にそっと手を当ててくれた。
震える指先。
「大丈夫よ、ソフィア」
そう言って、優しく微笑む。
ポッドのハッチが閉まり始める。
透明な窓の向こうで、
パパとママの姿が少しずつ遠ざかっていく。
それが――
最後に見た、パパとママの姿だった。
震えて泣く私を、お兄ちゃんは狭いポッドの中で力強く抱きしめてくれた。
「大丈夫だ、ソフィア。俺が側にいるから。」
それだけで、あの頃の私は――
こんな非現実の中でも、少しだけ安心できた。
刹那、緊急ポッドは地上へ到着し、
私たちは投げ出されるように外へ叩き出された。
足を挫き、痛みに顔を歪める私の手を引いて、
お兄ちゃんが叫ぶ。
「ソフィア、こっちだ! あの扉を出れば助かる!!」
扉の隙間から漏れる光を見た瞬間、
私は確かに安堵していた。
でも――
その時だった。
2度目の大きな揺れが、私たちを襲った。
「きゃあぁぁっ――!」
私は思わず足をもつれさせ、その場に倒れ込んでしまう。
扉まで、あと1歩。
頭上で、何か巨大なものが崩れ落ちる音がした。
子供心に思った。
――死ぬ。
その瞬間。
「ソフィアァァァーーッ!!」
振り返るより早く、
お兄ちゃんが私を守るように覆い被さった。
それが――
私が最後に聞いた、お兄ちゃんの声だった。
♦︎♦︎♦︎♦︎
コンコン。
コンコン。
窓ガラスを叩く音がする。
「ソフィア! ソフィア!! 起きているか?」
低く太い男の声が、夢の世界から私を引き戻した。
……あぁ。
せっかく久しぶりに、
お兄ちゃんに会えたのに。
私はゆっくりと、重いまぶたを開いた。
窓の外には、スキンヘッドで顎髭を蓄えた男が立っている。
「悪い……ジョン。連日の運転で疲れてた」
ジョンは豪快に笑いながら、車のボンネットを叩いた。
「燃料、満タンにしておいたぞ!
相変わらず、ウェールズからロンドンまでこのオンボロで来るなぁ!」
私はハンドルを軽く撫でる。
20年製のランドクルーザー。
古い車だが、日本製は丈夫で長持ちする。
「オンボロで悪かったな。
でも燃費もいいし、こいつが気に入ってるんだ」
私は胸ポケットからタバコとライターを取り、
火をつけた。
白い煙が車内に細くほどけて、
苦い煙が肺に落ちていく。
あの日、舐めていたキャンディーの甘さとは違う。
これは、現実の味だ。
「ありがとう、ジョン。
今回の買い出しはいい物が手に入ったよ」
スマートボタンを押す。
エンジンが低く唸った。
この振動が、私は嫌いじゃない。
ジョンは窓からマルボロを1箱差し出した。
「これはサービスだ。
それと……この後は嵐が来るらしいぞ。今日はモーテルに泊まったらどうだ?」
私はそれを受け取り、東の空を見た。
その先には、復興しつつある街が見える。
遠くにビッグ・ベンの姿もあった。
だが――
“あの日”の傷跡は、まだ人々の心から消えてはいない。
風が変わり、雨の匂いがした。
確かに嵐は近い。
それでも、不思議と私の胸には
不安よりも期待の方が大きかった。
なぜかって?
そんなの、決まっているだろう。
女の勘ってやつさ。
咥えていたタバコを、ドリンクホルダーのコーヒー缶に押し込んだ。
私はアクセルを踏み込み、広大な1本道の先へ、車を走らせる。
その時だった。
遠くの山の稜線に――
誰かの影が立っているのが見えた。
赤い外套が、風に揺れている。
気のせいだろうか。
風の音しか聞こえないはずなのに。
それでも私は確かに聞いた気がした。
低く、静かな声を。
そして――
その言葉を。
「コード・オープン」
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