第37話 大貴の告白未遂:言葉が渋滞

 十月の第二週。夕方の空気は、九月の終わりより一段だけ細くなっていた。駅前のロータリーを回るバスが吐いた温い排気が、すぐに冷えて消える。改札口の上の電光掲示板が点滅するたび、光が薄い霧みたいに揺れた。


 怜は肩に大きなバッグをかけ、もう片方の手で作品用のケースを抱えていた。ケースの角がコツンと当たるたび、怜は無言で持ち替える。大貴はその動きの前に、何も言わずに手を差し出した。


 怜は一瞬だけ大貴の手を見て、ケースの持ち手を少しだけ緩めた。けれど、渡しはしない。代わりに、ケースの重心を大貴の手のひらに“寄せる”だけ寄せて、自分の腕も残した。


 「……ここ、段差ある」


 怜が言った。指先で、歩道と車道の境目を示す。大貴は「了解」とだけ返し、足元を見たままケースを支えた。二人の手が同じ持ち手を握る形になる。握り方が違うから、同じものを持っているのに、微妙に引っ張られる方向が違う。


 胸の奥で、言葉が詰まった。


 「怜、さ」


 口に出した瞬間、次の言葉が来ない。頭の中ではさっきから、何本も同時に走っているはずの台詞が、駅前の信号みたいに全部赤になった。


 ――好きだ、って言う。

 ――一緒にオーロラ見に行こう、って言う。

 ――いや、その前に就活どうする、って聞く。

 ――柔らかな鏡、すげぇ、ってもう一回言う。


 全部、喉の手前で渋滞して、前にも後ろにも動かない。


 怜は歩調を落としもせず、でも大貴の言いかけに反応して視線だけ向けた。目の奥に、まだ作業場の灯りが残っているみたいだった。あの金曜夜の、息を小さくして待った時間。ヤスリの音。ストローを吸う音。鏡面の光が揺れて、天井が夜空みたいに崩れた瞬間。


 その全部が、今の駅前の蛍光灯の下で、ふっと重なる。


 大貴は、ケースの持ち手を握る指に力が入りすぎるのを感じて、慌てて緩めた。緩めたら、今度は手が滑りそうで、また握る。握って緩めて、握って緩めて。自分の手だけが落ち着かない。


 「今週、搬入前の確認……」


 怜が先に話題を繋いだ。切れ目なく言えるのが、怜のすごいところだと思う。頭の中の線が一本で、途中でねじれない。


 「うん。明日も行く。……いや、行っていい?」


 大貴は、いったん安全な言葉に逃げた。許可を取る形なら、口が動く。怜は小さくうなずいて、駅前のカフェの看板を見た。閉店間際の照明が、ゆっくり暗くなる。


 「明日、少しだけ。確認だけ」


 「少しだけって、怜の“少し”は……」


 「三時間」


 怜が即答した。大貴は笑っていいのか迷い、結局、鼻で息を一つ漏らした。怜はそれを笑いと認定したのか、目尻だけが少し柔らかくなる。


 その瞬間だった。


 ロータリーの向こう側、横断歩道の反対側で、両手を大きく振っている男がいた。瀬斗だ。何かのチラシを束で抱えたまま、パタパタと旗みたいに振っている。


 「おーい! 笑う門には福来たるー!」


 叫びが駅前のガラスに反射して、二回聞こえた。通りすがりの人が振り向く。怜も振り向いて、瀬斗を見て、そして――ほんの少しだけ口元が上がった。


 大貴の胸の渋滞が、プッと息を吐いたみたいに緩んだ。


 瀬斗は二人に近づいてくる……と思ったら、途中で急に足を止め、わざとらしく反対方向を見た。看板の裏に隠れるように体をずらし、片手だけを残してまた振る。


 「見えてません! 俺、今、看板の一部です!」


 「見えてる」怜が小さく言った。


 「見えてるね」大貴も言った。


 瀬斗は親指を立てて、今度こそロータリーの外へ逃げていった。逃げ足だけはいつも早い。残ったのは、駅前の冷えた空気と、怜の短い笑いの余韻と、ケースの持ち手に重なった二人の手。


 大貴は、もう一度だけ、怜の横顔を見た。言葉を探そうとすると、また渋滞するのが分かる。だから、探すのをやめた。今この瞬間にあるものだけを、掬う。


 「……今は」


 怜が視線を戻す。大貴は、逃げずに続けた。


 「今は、隣にいる」


 それだけ言うと、駅前の喧噪が少し遠くなった気がした。怜はケースを持つ腕に力を入れ直し、持ち手を握る指をほんのわずかに大貴の手の方へ寄せた。


 「うん」




 怜は歩きながら、駅前の自販機の前で一度だけ止まった。指でボタンを押す位置を迷わず決め、硬貨を入れる。ガタン、と落ちる音がして、温かい缶が転がり出た。


 「手、冷える」怜が言った。言い訳みたいな言い方だった。


 大貴は自分の財布を出し、「じゃあ、俺も」と同じ列の隣を押した。けれど押したのは、なぜか“冷たい水”だった。青いランプが点いていたのに、指が反射で動いた。


 「……門、静音でって言われたのに、選択が騒がしい」大貴が缶を見つめると、怜が鼻で笑った。


 「飲む?」


 「怜が温いの持ってるのに、俺が冷たいの持つの、なんか……」


 大貴は言いかけて、また止まった。今度の渋滞は、さっきより短い。怜は何も急かさず、缶を両手で包んで待つ。


 大貴は黙ってもう一度だけ自販機のボタンを押した。今度はちゃんと“温いココア”の方。落ちた缶を受け取り、怜の缶の横に並べる。二人の手の中で、温度の違うものが同じリズムで揺れた。


 ロータリーの向こうで、瀬斗が看板の影からもう一度だけ親指を立てた。大貴は気づいて、わざと見ないふりをした。怜は気づいて、わざと見ないふりをした。


 怜の声は小さくて、風に混ざりそうだった。けれど、大貴にはちゃんと届いた。二人の足は同じ信号で渡り始め、横断歩道の白い線の上で、影が一瞬だけ重なった。


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