第36話 柔らかな鏡、最終加工

 十月の第一週の金曜夜。アトリエの窓は真っ黒で、外の街灯だけがガラスに薄い輪をつくっていた。換気扇の低い唸りと、遠くの電車の音が、夜更かしの言い訳みたいに続いている。


 作業台の上には「柔らかな鏡」が横たわっていた。金属の縁はまだ冷たく、樹脂の面は、指で触れたら呼吸みたいにわずかに撓む。怜はその前に立ち、手袋の上からでも分かるくらい、指先をきゅっと握ってからほどいた。


 「最後、ここだけ……」怜が小さく言う。声が金属に吸われて、すぐ消えた。


 勘佑は返事をしない。代わりに、工具を並べ直す。カッター、ヘラ、細いヤスリ、温度計、そして小さなライト。どれも使い古して角が丸く、持ち主の癖が染みている。並べ終えると、勘佑はただ、怜の肘の近くに軍手を置いた。落としても危なくない位置。


 礼杏が保温ポットを抱えて入ってきた。湯気の匂いが甘い。紙コップを二つ、作業台の端に置くと、片方にはストローを差しておく。怜が作業から目を離さないのを知っている仕草だった。


 「熱いよ。飲むときだけ、手を止めて」礼杏は言い切り、目だけで“お願い”を足した。


 大貴は入口の近くで、立ったまま固まっていた。

 大貴は今日、気合いだけは万全で来た。髪にかぶる白いキャップを、売店で買った。たぶん、食堂の調理実習用のやつ。かぶった途端、勘佑に無言で指差され、鏡面に映った自分が“寿司を握る人”になっていることに気づいた。大貴はそっと外し、ポケットにしまった。気合いが、静かに折り畳まれる音がした。


 その代わりに、マスクを二重にして呼吸を小さくしたら、今度は自分の眼鏡が曇った。曇ったまま怜を見ようとして、足元の延長コードにつまずきかける。礼杏が手首を掴んで止めた。


 「倒れたら、鏡より先に大貴が割れる」礼杏は真顔で言い、すぐに紙の注意札を作った。“コード:踏まない”。文字がやけに丁寧だった。

 上着は脱いだのに、肩だけが上がったままだ。作業台に近づけば近づくほど、息が鏡面に落ちそうで怖い。触りたい。助けたい。でも、今の怜の集中に、指一本でも割り込んだら、何かが壊れる気がした。


 椅子を引く音すら出せず、大貴は自分の靴ひもを結び直して時間をつぶした。ほどけてもいないのに。結び終えた瞬間、礼杏が視線だけで笑った。責めるでもなく、“分かるよ”の笑いだった。


 怜はヘラで樹脂の縁を押さえ、ライトを当てて気泡を探す。見つけた瞬間、呼吸が一拍だけ止まる。手が震えた。震えたまま、止めなかった。震える手で、押さえる角度だけを変える。気泡が、すっと逃げる。


 「今、逃げた……」怜が言い、初めて少しだけ口角が上がった。


 大貴はその笑いに反射で近づきかけ、足を止めた。踏み出しかけた足が、床の上で変な格好になる。勘佑がちらりと大貴を見て、工具箱の蓋をそっと押さえた。ガタン、と鳴りそうな音を、先に消した。


 礼杏が紙コップを大貴の手に押し付ける。「まず、これ。門、静音で」


 「……静音、守ります」大貴は真面目に受け取り、ストローを吸った。甘くて熱い。喉がほどけると同時に、胸の奥の焦りも少しだけ溶けた。


 怜は最後の研磨に入った。ヤスリが細く鳴る。光の筋が、鏡面を撫でて走る。撓む面が、ほんの少しだけ波を打ち、その波が天井の蛍光灯を柔らかく崩した。まるで、夜空の薄い雲が流れるみたいに。


 大貴は、息を吸って、吐く。怜の背中に向けて言葉を投げないように。代わりに、心の中でだけ言った。


 ――ここにいる。急がせない。触らない。逃げない。


 作業が終わる合図は、拍子抜けするほど静かだった。怜がヘラを置き、手袋の指先をゆっくり外す。指先が赤い。握りしめていた証拠。


 勘佑がタイマーを止めた。「固まるまで、動かすな」


 怜はうなずき、礼杏のコップにやっと手を伸ばした。ストローを吸って、目を閉じる。熱が身体の奥に落ちていくのが分かる顔だった。


 大貴はようやく一歩だけ前に出た。作業台から一メートル。そこまで。鏡に映るのは、自分の顔と、怜の横顔の輪郭と、揺れる光。


 「……すごい」大貴は、声を小さくした。「触ってないのに、触ったみたいに……あったかい」


 怜は鏡面を見たまま、「柔らかいから」とだけ返した。けれど、その言葉の後に、ほんの少し間が空いた。間の中に、別の言葉が潜っている気がした。


 礼杏が表を取り出し、ペンで丸をつけた。「金曜夜、最終加工。完了。次は、搬入前の確認。……休む日も、丸」


 「休む日も、丸」大貴が復唱すると、勘佑が鼻で笑った。ほんの一瞬。工具の音より短い笑い。


 怜はコップを置き、鏡の端に手のひらをそっと近づけた。触れない距離で止める。そこで、怜の指が小さく揺れた。今度は震えではなく、確かめる揺れだった。


 「明日……見に来る?」怜が言った。主語を抜いたまま。それでも、誰に向けた言葉かは分かった。


 大貴は大きくうなずきそうになり、また“静音”を思い出して、首だけ小さく動かした。「うん。隣、空けとく」


 怜は、作業台の上の光を見つめたまま、短く「うん」と返した。鏡面の揺れが、ほんの少しだけ穏やかになった気がした。


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