第18話 夜の屋上、練習の星
六月の第四週、土曜の夜。校舎の階段は昼間の熱をまだ抱えていて、上がるたびに靴裏がぺたりと鳴った。屋上へ続く鉄の扉は、押した瞬間に「きぃ」と細い声を出し、全員が同時に肩をすくめる。
「門、開ける前に鳴くやつだ」
瀬斗が小声で言い、すぐ続けて両手を合わせた。
「笑う門には福来たる。鳴き声にも福、来い」
風が抜けた。柵の向こうには、街の灯りが点々と広がり、遠くの車の音が低い川みたいに流れている。空は濃い紺で、星は少しだけ、薄く散って見えた。
礼杏がレジャーシートを敷き、保温ボトルを置いた。紙コップが八つ、きっちり並ぶ。
「冷える前に飲む。喋る前に飲む。喋ったあとにも飲む」
誰かが「三回も?」と笑うと、礼杏はコップを一つ持ち上げただけで答えた。
秀朔は時計を見て、スマホのメモを開いた。
「一人、五分。途中で止めてもいい。止めたら、次は一文だけで続ける」
翔里が紙束を差し出す。角が揃いすぎていて、触るのが怖い。
「怜は、タイトルの説明から。教授に向けてじゃなくて、今日の私たちに向けて。専門用語は出たら、その場で注釈」
「注釈って言うと、漢字が増える」瀬斗が言い、翔里が迷いなく付箋を一枚貼った。
「増やさない。短くする」
勘佑は小さな作業灯を持ってきていて、柵の足元に置いた。光が下から上に向かうせいで、全員の顔が少しだけ怪談っぽくなる。
「怖い」大貴が言うと、勘佑は手袋のままスイッチを半分だけ回した。
「じゃあ弱くする。練習は、明るすぎると目が疲れる」
「練習の星も、見えなくなるしな」瀬斗が言って、また小さく笑いを作る。
怜は鞄を膝に乗せ、チャックを開けた。中から、薄い板と、布に包んだ金属片が見えた。試作一号の、波打つ光のやつ。手袋をつけたまま取り出すと、風で少しだけ揺れ、街の灯りが板の上で細く歪んだ。
「……じゃあ、始める」
怜が言った声は、風に押されて小さくなった。
黎美が、いつものようにメモ帳を開く。鉛筆の先を少しだけ折ってから、怜に視線を戻した。
「途中で止まっても、言い直していい。まず、何を見せたい?」
怜は板を両手で持ち、灯りの方向を探すように少し回した。光が一瞬、彼女の頬を撫でる。
「……鏡って、正直すぎる。見る人を、置いていく」
そこで言葉が途切れた。息を吸う音だけが、妙に大きい。
大貴は「続けて」と言いかけて、口を閉じた。代わりに、礼杏が静かにコップを怜の手元に置いた。怜は一口だけ飲んで、喉を鳴らす。
「私は、置いていかれたくない。……でも、置いていくのも、嫌だ」
怜は板を見つめたまま言った。自分の顔が、ゆらりと揺れている。
「だから、柔らかくする。……触ったときに、少しだけ遅れて返ってくる。返ってくるのが、遅いと、相手の顔を……待てる」
翔里が小さく頷き、付箋に「待てる」と書いて貼った。秀朔は何も言わず、タイマーの数字だけを見ている。勘佑は板が風で煽られないように、灯りの位置を少しずらした。
怜は、もう一度言葉を探した。
「……でも、これを説明しようとすると、全部、硬くなる。言葉が、角ばる」
そこで、今度は笑いが出そうになって、出ない。怜は唇を噛んだ。
大貴が、やっと声を出した。
「怜、今の、もう喋ってたよ」
「え」
「作品が先に喋ってる。俺ら、いま、待てた」
大貴は板の縁を指ささず、空を一度指さした。指が柵の上でふらつく。
「ほら、星。あれ、すぐ消えそうで、でも、ちょっとだけ残る。俺ら、その『ちょっとだけ』を、今、聞いた」
瀬斗がわざとらしく空を見上げ、声を大きくした。
「練習の星、聞きました。審査員の皆さま、門は開いております!」
「審査員いない」翔里が即座に突っ込み、全員が小さく笑った。怜の肩が、ようやく下がる。
黎美が鉛筆を止めた。
「今の言い方で、もう一回だけ。『鏡が正直すぎる』から『待てる鏡』まで。短く」
怜は板を胸に当て、風の向こうを見た。目が少し濡れているのに、泣き顔にならない。灯りが柔らかく照らす。
「鏡は、見た人を置いていく。だから、私は、待てる鏡を作る。触ると、光が遅れて返ってくる。遅いぶん、人の顔を……待てる」
言い終えた瞬間、怜は自分で笑った。苦い笑いじゃない。短くて、軽い。
礼杏がコップを指で二回叩いた。
「今の、続けられる形」
秀朔がタイマーを止める。
「五分、ぴったり。次は大貴」
大貴は紙を出した。二枚の自己PR。風でめくれそうになるのを、両手で押さえる。
「えっと……いや、えっと禁止だな」
瀬斗が両手を広げる。
「禁止じゃない。門の前で深呼吸するだけ」
礼杏がすぐ数えた。
「四つ。吸って、吐いて」
大貴は四つ数え、短く言った。
「俺は、床が見えるようにする。散らかった破片を片付けて、次に動ける場所を作る」
言いながら、自分でも驚いた顔をした。言葉が短いと、逃げ場がない。逃げ場がないのに、足が踏み出せる。
怜が、大貴の紙の端を見た。そこに小さく書かれた一行を、指でなぞるふりをして、風を切った。
「それ、……嘘じゃない」
昨日と同じ言葉なのに、今日は屋上の空気のせいで、少しだけ温度が違った。
街の灯りの上に、星がひとつ、ふっと強くなった気がした。誰も「見えた」と言わない。ただ、全員が同じ方向を見て、黙って呼吸を揃えた。
大貴は紙を畳み、怜の持つ板を見た。揺れているのに、落ちない。
「オーロラを見に、ってさ」
言いかけて、止める。止めたことに自分で気づいて、笑ってしまう。
「……最後に一言だけ、にする」
瀬斗が親指を立てた。
「丘だ。今日は丘。砂場は明日」
「明日も屋上?」大貴が聞くと、礼杏が首を振った。
「明日は寝る。寝るのも練習」
怜は板を布で包み、鞄の中に戻した。チャックを閉める音が、やけに静かに聞こえた。
「……今日、来てよかった」
それだけ言って、怜は空を見上げた。星はまだ少ない。でも、少ないからこそ、一つずつ数えられる。
屋上の扉へ向かう前、黎美がメモを一度皆に見せた。付箋が二枚。「待てる」「嘘じゃない」。
「これ、次の練習の合言葉。短いほど、迷子になりにくい」
秀朔が頷き、翔里が付箋の角をきっちり押さえた。勘佑は灯りを消し、礼杏は空になったコップを重ねる。瀬斗が最後に、いつもの言葉を、今日は小さめに落とした。
「笑う門には福来たる。星にも、来い」
鉄の扉が閉まるとき、また「きぃ」と鳴った。今度は、誰も肩をすくめない。鳴き声が、練習の終わりの合図みたいに聞こえた。
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