第11話 柔らかな鏡、試作1号
五月の第三週、火曜の夜。芸術学部のアトリエ棟は、昼の賑やかさが引いたぶん、換気扇の音がよく聞こえた。廊下の蛍光灯は少し古く、白い光が床のワックスに滲む。
大貴は扉の前で足を止め、指先に残った紙の感触を払った。昼に就職支援室で受け取った添削メモが、鞄の奥で折れ曲がりそうになっている。爆盛りのつもりで盛った言葉が、赤ペンで薄くなっていく――それが悪いことだと頭ではわかっているのに、胸だけが追いつかない。
「その顔、紙に負けた顔」
瀬斗が肩の後ろから覗き込み、わざとらしくため息をついた。
「紙はね、燃える。燃えないのはプライドだ。ほら、入るぞ」
勝手に扉を開ける音がして、木の匂いと、乾ききらないニスの匂いが流れてきた。
室内の中央に、白い布が敷かれた作業台がある。そこに怜が立っていた。腕まくりをして、手首に付いた銀色の粉を、指でそっと拭う。視線は台の上――薄い板状のものに落ちている。
「……来た」
それだけ言って、怜は箱から白い手袋を一組取り出した。
礼杏が台の端に小さな紙袋を置き、同じ手袋を次々と並べていく。並べ方がきれいで、間隔が揃っている。
「触る人は、これ。あと、息、近づけない。曇るから」
「曇るの、俺の人生だけで足りてる」
大貴が言うと、礼杏はペットボトルを軽く振って、無言で差し出した。半分残った水が、ちゃぷんと音を立てる。
勘佑が台座を持ってきた。合板の上に、金属の枠がきっちり固定されている。角に丸みがつけられていて、手を置いても痛くなさそうだ。
「これに乗せれば、撓んでも落ちない。たぶん」
「たぶん、を言うときの顔が、たぶんじゃない」
黎美が笑い、秀朔がメジャーを取り出して寸法を確認している。翔里はノートを開き、見出しの文字を丁寧に書き始めた。
怜が、台の上の板――「柔らかな鏡」の試作1号を、両手で持ち上げた。
薄い。ガラスみたいに硬くない。指先の力に合わせて、ほんの少しだけ撓む。表面は鏡のように光を返すのに、覗き込むと像がまっすぐじゃない。蛍光灯の白い線が、波に揺られたみたいに、ゆっくり曲がる。
瀬斗が早速、自分の顔を映してみて、鼻だけ伸びた。
「誰。これ、俺じゃない。俺、今日から高い鼻で生きる」
「それ、外出たら元に戻るよ」
翔里が淡々と言い、瀬斗が「現実、厳しい」と肩を落とした。
大貴は手袋をはめて、そっと端を支えた。冷たさはない。むしろ体温に馴染んでくる。板の向こう側で、怜の指が小さく動き、光が揺れる。揺れ方が、どこか空に似ている。風が吹いて雲が流れるときの、あの遅さ。
「……これ」
大貴は言葉を探して、息を吸った。
「空みたいだ」
その瞬間、怜の目がほんの少しだけ細くなった。笑ったのかどうか、確かめる前に、またいつもの無表情に戻る。でも、戻り方が柔らかい。手元の板が撓むのと同じくらい、わずかに。
勘佑がライトを一つ消し、窓の外の街灯の光を入れた。鏡の表面に、点々とした光が並ぶ。点は直線じゃなく、ゆらゆら動いているみたいに見える。
「北の光、こういう感じで踊るってさ」
瀬斗がどこかで聞いた話を持ち出し、秀朔が即座に補足する。
「踊るのは磁場と粒子だが、今は説明しない。今は手元を見ろ」
怜は板の端を少し押した。光の列が、波になって走った。走りながら、形を変えて、消えて、また現れる。
「……これなら、いける」
怜の声は小さいのに、部屋の真ん中に落ちて、動かない。
大貴は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。爆盛りの言葉を削っても、芯は残る。硬い鏡じゃなくて、柔らかな鏡。削って、曲がって、それでも光を返すもの。
礼杏が手袋の指先を見て言った。
「今日のルール。触るのは一人ずつ。時間は十秒。緩いけど、守る」
「緩いのに、逆らえない」
黎美が頷き、翔里がノートに「十秒」と赤で囲む。
順番が回ってきた秀朔が、十秒ぴったりで手を離し、メジャーを閉じた。
「明日、材料の追加注文。値段、確認する」
「値段の話すると、現実が戻る」
瀬斗がまた肩を落とし、すかさず大貴が言う。
「じゃあ、現実ごと、見に行けばいい。オーロラを見に」
言ったあとで、自分の声が大きかったと気づき、大貴は咳払いでごまかした。けれど、怜は板を布の上に戻しながら、短く返した。
「……うん」
その「うん」は、掲示板の紙より軽いのに、胸の奥にちゃんと残る。大貴は手袋を外し、鞄の中の赤ペンだらけの紙を思い出した。今夜は、紙に負けた顔じゃない。窓の外の暗さも、アトリエの白い光も、全部ひっくるめて、次の一歩が見える。
瀬斗がにやりとした。
「第二回『笑う門』、ここで開催する? 門、どこに置く?」
「門は置かない。換気が悪くなる」
礼杏が即答し、全員が笑った。
怜は笑い声の中で、試作1号の端をもう一度だけ撫でた。指先が確かめるみたいに、ゆっくり。
「次は……もう少し、光を増やす」
その言葉に、翔里がページをめくる音が重なる。勘佑は台座のネジを締め直し、秀朔はメモの端に数字を書き足す。大貴は、まだ少しだけ残った水を飲み干し、喉の冷たさで自分を前に押した。
火曜の夜は、こうして始まった。
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