第10話 笑う門には福来たる、第一回

 五月の第二週、金曜の夕方。就職支援室の前の廊下は、床のワックスがまだ乾ききらない匂いと、印刷した紙の熱で、少しだけむわっとしていた。壁いっぱいの掲示板には「内定報告」と太字で書かれ、色とりどりの紙が、花びらみたいに重なっている。


 「◯◯社」「△△出版」「□□デザイン」。会社名の横に、学科と名前と、短いひとこと。手書きの字が踊り、丸印が増えるたびに、周りの声も一段上がった。スマホを耳に当てている学生は、声を抑えようとして逆に息が弾んでいる。


 大貴は人の輪の外側で立ち止まった。鞄の中で、昨日まで削りに削ったエントリーシートのコピーが、角を立てている気がした。胸の奥に、銀色の欠片がある。光を通す薄さは、ようやく手に入れたはずなのに。


 掲示板の前で、同級生が肩を叩き合っていた。笑い声が上がる。おめでとう、という言葉が飛ぶ。大貴は一度だけ、紙の海の中を目で探してしまった。自分の名前があるかもしれない、と勝手に期待して、勝手に見つからなくて。


 肩が落ちた瞬間、背後から、妙に丁寧な声が降ってきた。


 「大貴殿におかれましては、本日もご機嫌麗しゅうございますでしょうか」


 振り向くと、瀬斗が両手を胸の前で合わせ、なぜかお辞儀の角度を三段階くらい刻んでいた。髪が揺れる。目だけが、笑っている。


 「……何その言い方。誰だよ、殿って」


 大貴が眉を寄せると、瀬斗はさらに真顔になった。


 「このたびは、内定掲示板という名の門にて、尊きご心情を拝見いたしました。ご落胆、まことに遺憾に存じ奉ります」


 「やめろ、笑うだろ」


 自分で言ってから、大貴は気づいた。もう、少し笑っている。口角が勝手に上がるのが悔しくて、手で隠そうとした。


 「笑う門には福来たる、って言うじゃん」

 瀬斗は、いつもの調子に戻して肩をすくめた。

 「今ここ、門だよ。開けとけばさ、入ってくるかもしれない」


 その言葉に、背中側から「門、門って」と呆れた声が重なった。翔里がクリアファイルを抱え、掲示板の紙を一枚も触らずに、端から端まで視線だけで読んでいる。視線が止まるところだけ、ペンでメモを取った。


 「掲示板は、結果の報告。採用の出入口じゃない」

 翔里は言い切ってから、でも、と指を一本立てる。

 「ただ、ここで沈んだ顔してると、帰り道まで沈む。帰り道が沈むと、土日が沈む。土日が沈むと、月曜の朝が沈む」


 秀朔が、遅れて輪に入ってきた。スマホの画面を見たまま、短く言う。

 「連鎖は止める」


 「止める、って言い方がまた怖いんだよ」

 大貴がぼそっと言うと、今度は黎美が笑った。ノートを胸に抱え、鉛筆を一本、指先で回しながら。


 「怖いときほど、言い方を面白くするの、瀬斗の得意技だよね」

 黎美は掲示板を見上げ、紙の端に書かれた「面接日程」らしき数字を目で追った。

 「大貴くん、今日、ここ来たのは何しに?」


 「……見に来ただけ」

 大貴は答えながら、自分でも分かった。見に来ただけじゃない。比べに来た。置いていかれてないか確認しに来た。


 言葉が喉の奥で詰まったところへ、礼杏が水のペットボトルを差し出した。キャップはもう緩めてある。押しつけない距離で、手のひらだけが近い。


 「飲む。今」

 礼杏の声は低い。命令みたいなのに、怒っている感じはない。大貴は受け取って一口飲んだ。冷たさが喉を通ると、胸の奥の熱も少しだけ散った。


 「よし。では、第一回『笑う門』、開会の儀を執り行います」

 瀬斗がまた変な敬語に戻り、指で空中に見えない横断幕を掲げた。勘佑が工具袋を肩に掛けたまま、通りかかったついでに足を止める。


 「何それ」

 勘佑は眉を上げ、瀬斗の手の動きだけを見ている。現場の段取りを見る目だ。


 「門の前で、落ち込む話は禁止。代わりに、笑える話を一個。もしくは、今日やったことを一個。小さくてもいい」

 瀬斗は掲示板を指さした。

 「結果が貼ってあるなら、行動も貼ろうぜ。口に貼る。ここで」


 「口に貼るって何」

 大貴が言うと、翔里がすぐ拾った。

 「付箋の誤用。訂正して」


 瀬斗は両手を合わせた。

 「謹んで訂正申し上げます。口で言う。ここで」


 その言い方がいちいち芝居がかっていて、黎美が肩を震わせた。礼杏も、ペットボトルを持ったまま少しだけ目を細める。秀朔は無表情のまま、メモアプリに「第一回」と打ち込んでいる。真面目に記録するから余計に可笑しい。


 大貴は笑いそうなのに、笑い切れなかった。掲示板の紙の多さが、視界の端でちらつく。笑いの底に、ひっかかる棘が残っている。


 「……俺さ」

 口を開いた瞬間、声が乾いた。礼杏がもう一度、水を指で示す。大貴は一口飲んでから続けた。

 「昨日、削ったんだよ。盛ってたやつ、半分にして。出せる形になったって言われて。……でも、ここ見たら、俺、遅い気がした」


 言い終わったあと、廊下のざわめきが少し遠くに聞こえた。自分の言葉だけが、板張りの床に落ちたみたいだった。


 瀬斗は変な敬語をやめた。真面目な顔で、大貴の肩の高さまで手を上げる。叩かない。そこに置く寸前で止める。


 「遅いって、誰の時計?」

 瀬斗は掲示板を見ずに言った。

 「この板の時計? それとも、大貴の『卒業までにしたいこと』の時計?」


 大貴は答えられなかった。頭の中に、あの紙が浮かぶ。オーロラ。卒業制作の展示。貯金箱。小さな丸。怜の机の上の光。


 その怜が、廊下の反対側から来た。手には細長いケース。中から透明な板が少しだけ覗いている。光が当たると、端が水面みたいに揺れた。怜は歩きながら、掲示板の前の輪を見て、一瞬だけ足を止めた。


 大貴は言いたいことがあるのに、声が出なかった。昨日の「薄くしたら、見えた」が、今は逆だ。厚い気持ちが邪魔をして、目の前がぼやける。


 怜は何も言わず、大貴の横に来た。ケースを抱えたまま、鞄から小さなノートを取り出し、大貴の机代わりの腕にそっと置く。大貴のノートだ。いつの間に抜いたのか、指先が早い。


 怜はペンを一本借りるように、翔里の胸元を指さした。翔里は無言で差し出した。怜はページを開き、短く書いた。文字は小さい。けれど、線がまっすぐで、迷いがない。


 怜はそのページを、大貴の方に向ける。たった一行。


 『門、開けとく』


 大貴は息を吸った。胸の奥の銀色の欠片が、今度はちゃんと冷たく光った気がした。門を開けるのは、誰かが来るのを待つためじゃない。自分が出入りできるようにするためだ。


 「……開けといて」

 大貴は、笑うと泣くの境目みたいな声で言った。

 「俺、鍵、なくしがちだから」


 瀬斗が指を鳴らした。

 「出た。自分で自分の鍵なくす男。第一回『笑う門』、優勝」


 黎美が吹き出し、礼杏が「優勝とか言わない」と小さく突っ込んだ。勘佑は「鍵なら作れそう」と真顔で言い、秀朔が「鍵の管理、チェックリスト化」と呟いた。翔里が即座に「チェック項目、三つ」と返す。


 笑いが、輪の中で転がった。転がる音が、掲示板の紙より軽い。軽いのに、胸の奥にはちゃんと残った。さっきまで目の端にいた涙は、笑いの方に押し流されて、どこかへ行った。


 怜はペンを返し、ノートを閉じた。ケースを抱え直し、廊下の窓の外を一度だけ見た。夕焼けがガラスに映り、透明な板の端が、ほんの少しだけ赤くなった。


 大貴は掲示板をもう一度見た。さっきほど刺さらない。紙の海はそのままなのに、自分の足の裏が、床に戻ってきた感じがする。


 「帰るか」

 瀬斗が言った。

 「門、開けっぱなしだと、風邪ひくし」


 礼杏が頷き、ペットボトルを指で軽く叩いた。

 「もう半分。駅までに」


 大貴は笑って、水をもう一口飲んだ。冷たさが、今度はちゃんと前を向かせる。


 ノートの中の一行が、背中を押す。門は、開いている。だから、出せる。行ける。次の紙も。


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