第2話 柔らかな鏡の設計図

 四月の第一週、金曜の夜。芸術学部のアトリエは、昼間の賑わいが嘘みたいに静かだった。換気扇だけが低く唸って、乾ききらない絵具と、金属を削った粉の匂いが混ざっている。窓の外は黒く、ガラスに室内の蛍光灯が白い線で映った。


 怜は作業台の上に、薄い金属板を三枚並べた。指先で触ると冷たい。隣には透明な樹脂のシート。光にかざすと、わずかに虹色の縁が出る。怜は息を止めるようにして、二つを重ねた。


 「鏡なのに、硬くない」


 自分に言い聞かせる声が、やけに大きく聞こえた。怜は小さなローラーで樹脂を伸ばし、金属板の上にそっと置く。端がぴたりと合った瞬間だけ、胸の奥が軽くなる。けれど、その軽さは長く続かない。


 樹脂が、ずるり、と滑った。


 「……っ」


 慌てて押さえた指の跡が、透明な面に白く残る。怜は目を細め、指先を拭き、もう一度やり直す。きれいに、きれいに。光が乗るところだけは、嘘をついてほしくない。


 四回目で、うまくいったと思った。台から持ち上げた途端、重ねたはずの金属板がたわみ、樹脂が追いつかず、角がぷつりと浮いた。空気が入って、そこだけ景色が歪む。


 「だめだ……」


 机の上に置こうとして、手が滑る。失敗作がぐにゃりと落ち、床で蛍光灯の光を拾って、妙にきれいに反射した。きれいだから余計に腹が立つ。怜はその反射を見ないように、唇を噛んだ。


 そこへ、戸がきい、と小さく鳴った。


 勘佑が入ってきて、何も言わずに手袋をはめた。怜の足元の失敗作を拾うでもなく、まず床に散った細い金属の欠片を、磁石のついた棒で集める。集め終わると、作業台の端に置かれた保護シートを手に取り、怜の前に、すっと差し出した。


 「……それ、どこで」


 怜が問うと、勘佑はポケットから小さなレシートを一枚出した。百円ショップの文字が見える。怜は月曜の学食を思い出して、喉の奥が少しだけ温かくなる。


 勘佑はレシートを畳んで戻し、シートを台に貼り始めた。気泡が残らないように、端から端へ、一定の速さで。怜のローラーよりずっと迷いがない。


 「……いつの間に」


 勘佑はうなずくだけで答えない。その代わり、貼り終えた面を指で軽く叩き、音を確かめた。乾いた、良い音がした。


 さらに、もう一人。


 礼杏が紙袋を抱えて入ってきた。中から小さな水のボトルと、個包装の飴が出てくる。彼女はテーブルの隅に置き、怜の視界に入る位置に飴を一つだけ転がした。


 「今日の歩数、たぶん稼げてないでしょ。……水、先」


 礼杏はスマホを見て、画面を軽くタップする。怜の体調を決めるのは作品じゃない、と言いたげな手つきだった。


 怜は黙って水を受け取り、蓋を回す。喉が渇いていたことに、飲んでから気づく。水が冷たくて、胸の奥の熱が少し引いた。


 礼杏は椅子に座らず、立ったまま怜の手元を見る。作業台の上に並ぶ金属板と樹脂。床に落ちた失敗作の反射。礼杏はそれらを順番に見て、最後に、怜の指先の白い跡に目を止めた。


 「手、洗った?」


 怜は小さく首を振る。


 礼杏は紙袋からウェットシートを出し、怜の前に置いた。勘佑がそのタイミングで、作業台の端に小さな皿を置く。そこに、樹脂の切れ端をまとめて置けるように、とでも言うように。


 怜は、ふ、と息を吐いた。ひとりで全部決めて、ひとりで全部できると思っていたわけじゃない。ただ、手を動かしている間だけは、誰にも邪魔されたくなかった。けれど、邪魔じゃない。これなら、邪魔じゃない。


 「……ごめん。さっき、落としたの」


 怜が床の失敗作を見た瞬間、礼杏がすかさず言う。


 「拾わないでいい。割れないなら、あとで使える」


 淡々とした声なのに、慰めに聞こえた。勘佑も、返事の代わりに、作業台の端で指を二回鳴らす。合図みたいに。


 怜は手を洗い、戻ってきた。指先の感覚が少し戻る。保護シートの上に、金属板を置く。樹脂を伸ばす。今度は、礼杏が飴を机の端にもう一つ置いた。勘佑がローラーの角度をほんの少しだけ示すように、手首を回してみせる。


 怜は言葉を使わずに、うなずく。


 樹脂が伸びる。気泡が、前より少ない。金属板がたわむ前に、端を止める。端を止めるための小さなクリップは、月曜に買ったものだった。怜はそれを指でつまみ、カチ、と留めた。


 「……よし」


 小さく言った声に、勘佑がわずかに口角を上げた。礼杏は時計を見て、軽く指を二本立てた。二十分、という意味に見えた。怜はその指を見て、作業の手を止めないまま、頷いた。


 窓の外はまだ真っ暗だ。けれど、作業台の上にだけ、柔らかく光が溜まり始める。鏡なのに、硬くない。まだ設計図の線を引いただけ。それでも、今日は床に落ちた反射より、机の上の面を見ていられる。


 怜は最後に、クリップの横の小さな余白に、鉛筆で丸を一つ描いた。月曜の紙の端に付けたのと同じくらい、小さい丸だ。


 「……オーロラ、見に行くなら」


 口に出すつもりはなかった。けれど、出てしまった。礼杏が聞こえないふりをして水をもう一本置く。勘佑が、貼った保護シートの端を指で押さえ、剥がれないように整える。


 怜は、作業台の上の柔らかな面に、室内灯の光がまっすぐ乗るのを見た。


 そのまっすぐさだけは、今夜、守れそうだった。


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