とある少年の絶望

それからの数週間、私の左手から包帯が外れることはありませんでした。

あの方の家で負ったあの燃えるような火傷は、単なる外傷として治癒することを拒んでいるかのようでした。

皮膚が再生しようとするたびに、内側から鋭い熱がせり上がり、包帯を赤黒く汚す。

しかし、その痛みこそが私に次を促す合図でもあったのです。

私は、自宅のある村を拠点に、周辺にある三つの村を順に巡りました。

どの村へ行っても、耳に届くのは似たような噂話ばかり。

「あの逆十字の惨劇を、国教会が奇跡によって鎮めた」

「犠牲者は出たが、それは神が与えた試練に過ぎない」

……不快極まりない。

私が精魂込めて作り上げた「絶望の円」を、彼らは都合のいい美談として消費し、さらに信仰を深めるための餌にしている。

ならば、やることは一つです。

美談に上書きされたのなら、その上からさらに深い絶望を塗り潰すだけのこと。

私は淡々と、しかし確実に作業をこなしました。

一つ目の村では井戸に細工をし、二つ目の村では家畜を解放し、三つ目の村では夜更けに静かな救済を届けました。

移動と実行を繰り返すだけの、ひどく事務的な日々。

救済を行いながら、私は自分の中の何かが削り取られ、代わりに別の何かが満ちていくのを感じていました。

「……さて。これで最後ですか」

目の前に広がるのは、地図の端に追いやられたような、ひどく小規模で閉鎖的な村です。

今まで巡ってきたどの場所よりも古びていて、そして、どこよりも神への沈黙が重くのしかかっているように見えました。

ここを終わらせれば、私の「救済」の旅はまた一つ、功を成す。

私は燃えるような左手をそっと右腕で押さえ、いつものように穏やかな笑みを作りました。

完璧な、敬虔な信者の顔で。

あくまでも、相手を油断させるための一時的な表情です。

この村は小規模が故、すぐに事を終わらせられますしね。



…四つ目の村にいる者も、1人残らず息を止めました。

しかしこの村は閉鎖的であるとはいえ、少し古い感じがしましたね。

村の人たちが使っている道具は、最近の便利なものではなく、十数年前の物ばかり。

おまけに、国教会の美談を口にする者が1人もいない。

まあ、そちらの方が不快な思いをしないので良いのですが。

最後の方を救済し終えた後、私は少し離れたところで休憩していました。

確かに事務的な作業工程ではありますが、決して簡単な事ではありません。

抵抗する者、他の方に避難を促す者、時間稼ぎに刃物を持って脅す者…。

全員救済すると言っても、これらの事態全てを考慮して行動しなければいけないのです。

なので私は、家の影で斧を持ったまま座り込み、少しばかり休憩していました。

その時です。

どこからか、祈りを捧げる時に用いる言葉が聞こえて来ました。

明らかに死にかけの人のものではありません。

必死に呟きながら懸命に走る足音まで聞こえます。

足音のテンポが、段々遅くなり、そして止まる。

幼い声が途中で途切れ、力を失った体が地面に落ちる音が聞こえました。

…まだ生き残りがいたのですか。

いえ、おそらくこの時間は、子どもが通う、学校が終わってすぐの時間。

学校帰りに戻って来てみれば、村の一変した様子に戸惑っているといったところでしょうか。

私は壁に背中をつけながらゆっくりと立ち上がり、家の外壁から音のした方向を覗いてみました。

そこには…年は10前後でしょうか。そのくらいの子供がへたり込んでいました。

目の前には、夫婦の遺体。

おそらくこの子供の両親でしょう。

しばらく様子を見つめていると、過呼吸の状態から地面に向かって吐き始めました。

まあ、これで吐かない方がおかしいですしね。

私は斧を軽く持ち、そのまま静かに少年の前へと行きました。

少年は地面に手をつき、吐瀉物を垂らしながら荒く息を繰り返しています。

肩は小刻みに震え、瞳孔はまともに焦点を結んでいません。

突然視界に入った私の靴先に気づいたのか、少年はビクリと体を震わせました。

そして、ゆっくりと顔を上げます。

「……ぁ……」

掠れた声が漏れ、少年の目が見開かれました。

その視線は、私の持つ斧でも、血に濡れた服でもなく__

もっと上。

そう、私の頭上へと向けられていました。

「……悪魔、だ」

「……」

……は?

一瞬、その言葉の意味が理解できませんでした。

悪魔。

確かに、村を壊滅させた張本人として言っているのであれば筋は通ります。

ですが、その怯え方はどこか妙でした。

まるで、私そのものではなく。

"何か"を見ているような__

私は無意識に、自分の頭上へ視線を向けかけました。

当然、そんなものが見えるわけありません。

……いや、待ってください。

何を考えているのですか私は。

頭の上に何か浮かんでいるなど、そんな馬鹿げた話があるわけないでしょう。

疲労ですか?

それとも、悪魔の羽だの天使の羽だの、超常じみたものを見すぎた弊害ですかね。

私は余計な思考を振り払い、いつものように穏やかな笑みを作りました。

「突然そのようなことを言われても困りますね。」

少年は後ずさろうとしました。

しかし足に力が入らないのか、地面を擦るように少しだけ下がり、そのまま尻もちをつきます。

「来るな……っ」

「安心してください。すぐに終わりますよ」

そう言いながら少年へ近づいた時でした。

__ふと、違和感を覚えます。

「……?」

私は思わず、少年の頭上を見つめました。

何かがあります。


薄く。

ぼやけて。

陽炎のように揺らぎながら。


黄色い輪のようなものが、少年の頭上に浮かんでいました。

「……」

数秒ほど、思考が止まりました。

……いや。

そんなわけがありません。

疲れているのでしょう。

そもそも、頭の上に輪っかが浮いている人間など聞いたこともありません。

私は軽く目を擦り、再び少年を見ます。

ですがやはり、そこには輪がありました。

淡く黄色に濁った、綺麗な円。

その瞬間、私は反射的に口を開いていました。

「……いやいや。あなたにも輪っかが浮いているじゃないですか」

「……え?」

少年が、怯えたまま固まります。

その時になって、ようやく気づきました。

あなたに、"も"……?

まるで、最初からそこにあることが当たり前だったかのように言葉を発していました。

ですが、そんなものを見た記憶はありません。

少なくとも、今までの人生で誰かの頭上に輪など__

「……」

……本当に?

私は無意識に周囲を見回しました。

倒れた村人。

血溜まり。

崩れた木箱。

死体。

誰の頭上にも、輪はありません。

胸の奥が、僅かにざわつきました。

では、なぜこの少年にはある?

そして、なぜ私にもあると思った?

少年は震える声で言います。

「……輪っか……?」

「あなた、自分の頭の上にあるそれが見えていないのですか?」

「な、何言って……」

少年は混乱した様子で頭を触り始めました。

しかし当然、何も掴めない。

……当たり前です。

仮に本当に浮いているのだとして、そんなものが今まで一度も話題に上がらなかった説明がつきません。

誰かしら、触れるでしょう。

誰かしら、指摘するでしょう。

子供ならなおさら、面白半分にでも。

ですが、そんな話は聞いたことがありませんでした。

つまり……。

「……見えているのが、私達だけ……?」

そう呟いた瞬間。

少年の顔から、血の気が引きました。

「ど、どういうことでしょうか…?」

私は目の前の少年を無視し、そのまま唸るように考え始めました。

頭の上に輪っかがついている存在と言えば、天使か死者でしょう。

しかし天使の羽を持つ人がいたにも関わらず、私たちは持っていない。

となれば後者でしょうか?

いえ、私たちは生きている。

体があり、他人と話し、呼吸をしている。

天使でも死者でもない。それ以外に輪っかのついた存在と言えば__

(__神?)

馬鹿らしい。

今まで私が何度も何度も否定してきた神が、私とこの少年なわけがありません。

そもそも神は唯一無二のものであって、もし仮に神が存在したとしても2人いるのはおかしいでしょう。

そう、私とこの少年が同じ存在でない限り……

(…同じ存在?)

私は、目の前の少年をもう一度よく見ました。

頭上にある輪っかではなく、その顔を。

それはいつしか、血溜まり越しに見えた顔のようで…。

__なるほど。合点が行きました。

ただし、まだ問題はあります。

「……悪魔、って言いましたよね」

私は、少年の顔を見つめながら静かに問いかけました。

少年は肩を跳ねさせ、怯えたように唇を震わせます。

「ぁ……」

「なぜ、そう思ったのですか?」

「……」

「私は羽など生やしていませんし、角もありません。見た目だけで言えば、せいぜい血塗れの信徒程度でしょう?」

軽く冗談めかして言いましたが、少年は笑いませんでした。

当然です。

そんな余裕があるはずもない。

少年は何度か喉を鳴らし、ようやく絞り出すように答えました。

「……く、黒い、から……」

「黒い?」

「その、頭の上の……輪っか……」

その言葉を聞いた瞬間、純粋にはてなマークが浮かびました。

「……黒い、のですか?」

「う、うん……」

少年は震えながらも、私の頭上を指差します。

「真っ黒で……スライムみたいに、ぐちゃぐちゃしてて……」

「……」

私は無意識に、自分の頭上へ視線を向けかけました。

当然、自分では見えません。

しかし、先ほどから感じている奇妙な確信がありました。

そこに"何かがある"。

少年は怯えた目のまま続けます。

「お、お父さんたちのには、なかった……」

「村の人にも、なかった……」

「でも、お兄さんにはある…だから……」

「悪魔だと思った、と」

少年は小さく頷きました。

私は思わず黙り込みます。

黒い輪。悪魔。

そして、少年の持つ黄色い輪。

色の違いに意味があるのか。

あるいは、状態の違いなのか。

……いえ。

もっと根本的な問題があります。

なぜ、この少年は私の輪を見れているのでしょう。

そしてなぜ、私はこの少年の輪を見れている?

共通点。

違和感。

条件。

頭の中で様々な可能性が浮かび、そして消えていきます。

「……あなた、その輪をいつから見えているのです?」

「わ、分かんない……」

「気づいたら……見えてた……」

少年は、上目遣いでこちらを見て、私の気に触れないように慎重に答えました。

「なるほど」

私はゆっくりと、少年の頭上を見上げました。

黄色の輪は、先ほどよりも少しだけ輪郭が濃くなっているように見えます。

こちらが認識したことで、存在が安定したかのように。

「……」

…どうすれば、良いのでしょうか。

ただの悪魔の使徒だと思っていた私は、人間ではありませんでした。

仮に人間だったとしても、それは本来の人間とは違う、別の存在。

あの天使や悪魔と同じ部類なのかもしれません。

しかもそれが、私が神である可能性も含めて、です。

今まで信じてきたものは、偽りでした。

ずっと話していた私の論理は、破綻していた。

もう、戻る気も、余裕も、現実もありません。

私は一体、何を信じれば__

「……」

「え、えっと…大丈夫そう、ですか?」

少年は私を警戒しながらも、両手を軽く上げて心配してくれました。

一体、どこにそんな余裕があるのでしょうか。

力?知性?

そんな単純なものではありません。


信仰です。

簡単に言えば、信仰なのです。

神を信じ、己が善行を行ってきたと思うからこそ、今の状況もどうにかなると信じきっている。

神を信じればどうだとか、人が何であるのかだとか、そんな綺麗事は聞く気が起きませんでした。

あの忌み子も、この少年も、同じです。


そう、同じ。


__ああ、そうか。

そうすれば良いのです。

と言っても、見方を変えれば今までもずっと、そうだったでしょうに。

気づかなかった自分が、愚かです。

でも愚かな自分でなければここまで来れなかった。


__


___"自分"は、"自分"を信じればいい



「…よく聞いてください」

私は出来る限り穏やかな表情で、しゃがみ込んで少年と目を合わせました。

突然動き出した私に、少年がビクッと肩を振るわせます。

攻撃の意思を示さないため、斧をゆっくりと地面に置きました。

「あなたの言う通り、私は"悪魔"です」

「…っ!」

少年が地面に手をつき、ズル、と一歩後ろに下がります。

私は彼との距離を余計に詰めることなく、言葉を続けました。

「あなたが私を前にしても神を信じるのであれば、私はそれを否定しません」

「しかし分かっているのでしょう?」

「今、何を信じるべきか」

「賢いあなたなら、分かるはずです」

一歩、また一歩と距離を取られます。

ちゃんと聞こえるように、さっきよりもはっきりと声を出しました。

「私は、人間に『絶望を与える』ための存在です」

「あなた方『人間に幸せを与えている』のは、『最高の絶望が、最高の幸せの後に来るもの』だからに過ぎません」

「人は、『絶望のあるこの世』で、真の意味で救われることはないのです」

一つ一つ、なぞるように

本来の、『砕けた口調』で

「もちろん、君に無理に『神に盾突け』なんて言わないよ」

「この国では、『神に盾突くことが最も重い罪』だからね」

「それは『神様以外を信仰することも例外ではない』」

「『悪魔を信仰しているとバレれば』君は『ただではすまない』だろう」

「でもね、僕には分かる」

「『悪魔は人の欲を読み、破滅へと向かわせる存在』だ」

「そんな僕ならば、君の『欲をも読み取り、手助け』出来ると思わない?」

「君は、『若いうちに洗脳を解くことができた特別な存在』だよ」


「何しろ、君はまだ『10歳』だからね」

私の言葉を聞き終えた後も、少年はしばらく何も言えずにいました。

地面に手をついたまま、呼吸だけを浅く繰り返している。

その瞳は恐怖に濡れていましたが、完全に拒絶しているわけではありませんでした。

私はそれを見逃しません。

「……信じられませんか?」

少年の肩が小さく震えます。

「だ、だって……そんなの……」

「おかしい、と?」

少年は迷うように視線を泳がせた後、小さく頷きました。

当然です。

今まで信じていたものと、真逆の話を突然突きつけられたのですから。

ですが、人は絶望の最中では、酷く脆い。

心の支えを失った直後ならなおさらです。

私は少年の反応を確かめながら、静かに言葉を続けました。

「君は、神様にお祈りしながら帰ってきたんでしょ?」

嘲笑気味に笑いながら言いました。

「でも、助けは来なかった」

少年の喉が引きつるように鳴りました。

「君のお父さんも、お母さんも、神様は助けてくれなかった」

「や、やめ……」

「君はちゃんと祈っていた」

「きっと、善い子だったんだろうね」

「それでも、この結果だ」

少年は耳を塞ごうとしました。

ですが途中で力が抜け、その手は中途半端な位置で止まります。

……否定しきれないのです。

私は少しだけ目を細めました。

「ねぇ、君は本当に、『神様が助けてくれる』と思っていたの?」

「……」

「もしそうなら、なんで君は今、そんな顔をしているんだろうね?」

少年は答えませんでした。

いえ、答えられないのでしょう。

私にとっては、その反応だけで十分でした。

私はゆっくりと立ち上がり、倒れた夫婦の方へ視線を向けます。

「人は、自分に都合の悪い現実を見ないようにしている」

「神を信じていれば救われる、善人なら報われる……そう思い込めば、恐怖を考えずに済むから」

血の匂いが風に混ざって流れていきます。

「でも現実は違う」

「君は今、それを知った」

少年の呼吸が、また少し乱れました。

私はそこで一度言葉を止め、少年の頭上を見上げます。

黄色い輪は、ゆっくりと揺れていました。

まるで、不安定な炎のように。

「……君は、他の人とは少し違うのかもしれないね」

「ぇ……?」

「少なくとも、君にはこれが見えている」

私は自分の頭上を指さしました。

「普通の人間には見えないものが」

少年は恐る恐る、私の頭上を見つめます。

その存在を確認した瞬間、少年の顔が再び青ざめました。

ですが、今度は先ほどとは少し違う。

恐怖だけではない。

少しの、希望を抱き、それに縋ってもいいのかと、少なからず悩んでいる。

「神は君を助けなかった」

「けれど君は、生き残った」

「……」

「それはきっと、君が特別だからだ」

少年の瞳が、僅かに揺れました。

その瞬間、私は確信します。

この子はもう、戻れない。

ほんの少し背中を押してやれば、自分で歩き始める。

「……君はこれから、どうしたいの?」

「どう、って……」

「村の人間はもういません」

「教会へ行きますか?」

「事情を説明して、保護してもらう?」

「……ぁ……」

その反応だけで分かります。

この子は、もう教会を信じ切れていない。

「もし教会へ行けば、君はこう言われるだろうね」

私はわざと、明るい声で、バカにするように言いました。

「『神はあなたを試したのです』」

「『亡くなった人々は神の元へ召されたのです』」

「『あなたは生かされたのだから、感謝しなさい』」

少年の顔が、みるみる歪んでいきます。

怒り。困惑。拒絶。

それらが混ざり合い、言葉にならず沈殿していました。

「……そんな、の……」

「納得できますか?」

少年は、ゆっくりと首を横に振りました。

私はその姿を見つめながら、小さく息を吐きます。

……ああ。

やはり同じです。

この子もまた、同じ。

「なら、無理に信じる必要はありません」

私は斧を持ち上げました。

少年は瞬時に体を構えようとして失敗し、一瞬だけ硬直します。

ですが私は、その斧を肩に担ぐだけでした。

「あなたが何を信じるかは、あなたの自由です」

そう言って背を向け、ゆっくりと歩き出します。

数歩進んだところで、後ろからか細い声が聞こえました。

「……ま、待って」

私は足を止めます。

振り返りませんでした。

「……なんですか?」

しばらくしてから、震える声が落ちてきます。

「……わ、私は……どうすれば……?」

その言葉を聞いた瞬間、私は、ほんの少しだけ笑みを深めました。

そして静かに、答えたのです。

「簡単ですよ」

「まずは、神様なんていなかったってことを、ちゃんと認めるところから始めましょうか」

…このくらいで良いでしょう

このくらい言っておけば、きっと大丈夫です



きっと






宗教とは、死の恐怖に立ち向かうためにある

神を信じ、死後に救われると思うことで死の恐怖を和らげるのだ


逆を返せば、死の恐怖を和らげるためなら人はなんでも信じるということ

己の考えだと、真実だと、そうやって自分自身を洗脳してでも

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