とある青年の振り幅
教会にいる者をほとんど救済した後、私は街のド真ん中を歩きながら移動しました。
道行く者は畏怖の目で私を見つめ、またある者は険しい顔をしていました。
ああ、やはりこの者達は、神を信じきることができていません。
あるいは、自身の行いがすでに教えに反しているのでしょうか?
どちらにしろ、きちんと神を崇拝し、教えを守っていれば、そのような目や顔は生まれないはずです。
だって、神様はそのような者を救うのでしょう?
この血だらけの私を見て、恐怖を感じている時点で、この人達は神様を信じきれていない。
…間違っているのはそちらです。
やはり悪魔こそが正しい、と私は感じました。
ある親子が市場の端に停まり、こちらを見ながら話しているのが聞こえました。
「ねえ、お母さん。なぜあの人は捕まらないの?」
「こら。神様との約束を疑うのはバチ当たりよ。」
なるほど。この子供の意見は最もです。
私ですら、なぜ国は私を捕まえないのか不思議ですから。
あの時、教会から一人の腰抜けが逃げ出しました。
いえ、少し言い方を変えましょう。私はその腰抜けをわざと見逃しました。
私の願いは、こうでした。
『それは、この教会にいる者を"全員"救済することです。』
…つまり、あの時教会から一人逃げ出したおかげで、私の願いはまだ叶ってないにも等しいということです。
『願いが成就するまでは、いかなる場合でもその者を邪魔してはならない。』
聖書にも記されている、全国民が守るべき教えです。
あの腰抜けを私が殺すまで、誰も私を止められません。
本当にこの国は、分かりやすくていいですね。
話を戻しましょう。
暫くの間はゆったりと街を歩いていましたが、ふと別の場所へ行ってみようと思い立ちました。
そのまま小売店へと足を運び、ここから少し離れた場所の地図を購入。
そして店の前でその地図を広げ、どこへ行こうか考えたのです。
__ここにしましょう。
その村を選んだ理由は、そこが小規模であり、教会から充分に離れていたからです。
行き先が決まった後は、宿屋で支度を整えることにしました。
血だらけになってしまった服は取り替え、湯船に浸かりました。
斧は念入りに手入れをし、準備が終わると、私は寝床につきました。
それは、満月が空のてっぺんに登った頃の話です。
翌日、私は目的地に向けて徒歩で移動を始めました。
長距離なのに、なぜ馬などの乗り物を利用しなかったのか。
別に私は見世物じゃないからです。
それに、体力には自信がありましたし。
さて、私が村についたのは、出発から5日ほど経った頃でした。
村についてすぐ村長に話をつけ、1軒の住宅を借りました。
自分の住まいを確保した後は、どうしたものかと悩みましたね。
結局は、以前と同じように、徹底して善良な信者を演じ続けましたよ。
確かに、村の者は教会での出来事を知っていました。
しかしこの村は街から離れている故、それを出来事を起こした者を知らなかったのです。
誰一人として。
…村の者は皆、私を快く受け入れてくれました。
些細な事にも協力し、神への祈りは徹底する。
その姿を見られる度に、村の者から私への信頼が強まっていくのを感じました。
3ヶ月も経つ頃には、私は生活すっかり慣れ、普通に過ごすようになっていました。
ある晩のことです。
その日はたまたま皆既月食の日で、夜空に浮かぶ月は赤みを帯びていました。
私は村の図書室で読書をしており、静かな空気の中で本を捲る音だけがその場に響いていました。
すると背後の入口から、木製のドアが軋む音が聞こえたのです。
ゆっくりと振り返ると、そこには村の者の一人である、一人の青年が立っていました。
穏やかな笑みを浮かべ、その青年に私は話しかけました。
「こんばんは。夜は静かで、読むにはちょうどいいでしょう?」
私がそう聞くと、その青年は険悪な表情のまま私に話しかけてきました。
「…少し、あなたとお話をしてもよろしいでしょうか?」
「どうぞ。何か悩み事でも?」
青年は「はい、そんな感じです」と小さく言った後、しばらく静かに佇まんでいました。
おそらく、その相談したい内容というのはよほど言いにくいことなのでしょう。
私は青年の緊張を和らげ、自分に安心感を持ってもらうため、声をかけました。
「立っているのもなんですし、ここに座ってはいかがでしょうか?」
「遠慮しておきます」
また少しの静けさが過ぎると、その青年はようやく口を開きました。
「…実は、あなたの日記を見てしまいました。」
「そう」
私があまりにも即答したことに驚いたのか、青年は目を開き、こちらを丸い目で見つめました。
「なぜそのようにしていられるのですか?」
「僕の日記が見られたところでどうせ問題ないしね」
「…あなたの日記には、あの街の教会での出来事が書かれていました。あれは本当なのですか?」
「別に嘘を書く必要もなくない?」
「いえそういうことではなく…」
青年は少しばかり意識を逸らし、そして私に質問を重ねてきました。
「……なぜ、あなたは神を信じないのに、教えを守っているのですか」
「『日記には全て真実しか書いてはならない』…っていう教えか」
私は手元の本を閉じ、正面に椅子の背もたれが来るよう、体の向きを変えました。
「簡単な話。よく言うでしょ?『敵を騙すにはまず味方から』って。あれと似たようなもんだよ。相手を騙すにはまず行動から。」
「……」
「それで。なんで君は僕にその話を?言う必要ないでしょ。」
「…私は、」
「……私は、教えを破ってしまいました」
「『自分以外の人の日記を絶対に見てはならない』…だね」
「ええ。しかしそれ以外にも。」
「何?」
「『自身の生まれた村の掟はいかなる場合でも破ってはならない』という教えです」
「へー」
私は、自分とは対比的に、青年の警戒心が濃くなるのを感じていました。
「この村の掟ってなに?」
「それは…」
青年は一瞬言葉を詰まらせ、視線を少し逸らしました。
「……あまり、外の人に話すようなものではないのですが」
「別に減るもんでもないでしょ」
「……そう、ですね」
観念したように、青年が小さく息を吐きました。
「この村には、昔から奇妙な噂がありまして」
「噂?」
「ええ。信じている者もほとんどいない、ただの作り話のようなものです」
私は軽く首を傾げました。
「その噂というのが…」
青年は、ほんの少しだけ声を潜めました。
「“天使の羽を持つ人”が、この近くにいる、というものです」
「……天使?」
思わず、口元がわずかに緩みました。
「神の使い…ですね?」
「そう、いうことになります。ただ……」
青年はすぐに首を横に振ります。
「誰も実際に見たわけではありませんし、話の内容も曖昧です。
“見た気がする”とか、“昔いたらしい”とか、その程度で」
「へぇ」
「村の者も、半分以上は信じていません。子供に聞かせる昔話のような扱いです」
「それで?」
私は興味なさげに相槌を打ちました。
「その噂が、掟と関係あるの?」
「……ある、と言われています」
青年はゆっくりと頷きました。
「詳しいことは、その本に書かれています」
青年は1つの本棚を指先で示し、私に言いました。
「そこの本棚に、〇〇という本があるはずです」
「読めばいいのね」
私は本棚から、青年の言ってたものと同じタイトルの本を手に取り、そして机に広げました。
本に書かれていたのは、このような内容でした。
==========
むかしむかしあるところに、働き者の木こりがいました。ある日働き者の木こりは、手を滑らせ、泉に斧を落としてしまいました。すると泉の中から神様が現れ、泣いている木こりにどうしたのかと聞くので、木こりは大事な斧を落としたと答えます。すると神様は泉から金ピカの斧を取ってきて「あなたの落とした斧はこの金の斧ですか」と聞きました。
木こりが正直に違うと答えると、今度は神様は銀の斧を持って現れました。今度は「あなたの落とした斧はこの銀の斧ですか」と神様が聞くので、木こりは「違います。古い鉄の斧です」と答えました。木こりの正直さに、神様は金銀の斧を全て木こりに渡しました。
これを聞いた欲張りな木こりは、泉に自分の斧を投げ込み、ボロボロの斧を金の斧に換えようとしました。嘘泣きで神様をおびき寄せると、木こりのときと同じように神様が金の斧を差し出すので、欲張りな木こりは「それが私の斧です」と口走ります。神様は「嘘つきには斧を返しません」と言い放つと、金の斧を持ったまま泉の中に去っていきました。嘘をついたばかりに、欲張りな木こりは自分の斧まで無くしてしまうのでした。
==========
「この物語の教訓は、『決して嘘をついてはならない。嘘をつけば自らの身を滅ぼす。』というところにあります」
「だろうね」
「私は、教えを決して破らないと神に誓ったのにも関わらず、その誓いに嘘をついてしまったのです」
「そもそもなんで僕の日記を読もうと思ったわけ?」
「それは、もしかするとあなたが教会での虐殺を行った者かと思いまして。どうしても気になってしまい、己の欲に負けて読んでしまいました。」
「ふーん…」
そこまで聞くと私は本を閉じ、席を立ちました。
机の横に立てかけておいた袋を手に取り、中から斧を取り出しました。
するとみるみる青年の顔が青ざめ、体が硬直して言ったのです。
そのまま青年の前まで行き、斧を振り上げると__
__私はその斧を、本棚に向けて投げ飛ばしました。
斧は見事に本棚に刺さり、そのまま私は手をパンパンとはたきました。
「………」
呆気に取られたのか、青年は黙り込んだままこちらを見つめています。
「…何をしているのですか?」
「見れば分かるでしょ。捨てたんだよ、斧を。」
「でも何故?」
「じゃあ先に僕の質問に答えて」
私はもう一度椅子に座り、青年と向き合いました。
「なんで僕が、剣じゃなくて斧を使っているか分かる?」
「ええと…斧の方が汎用性が高いからでしょうか?」
「残念。ハズレ。」
「…持ち運びやすいから?」
「それも違う。正解は剣が神聖なものだから。」
「悪魔を信仰しているあなたにとって、剣はよろしくない…ということですか?」
「そ。だから斧を使ってたんだけど…正味要らなくなったね。」
「…神様が泉から出てきた時、木こりの斧を持っていた」
「理解が早くて助かるよ」
私は椅子から立ち上がると、手荷物の入った袋を持ち、そのまま扉に手をかけました。
「どこへ行くのですか?」
「夜遅いから寝るだけ」
「こんなことを言うのもなんですが、私を殺さないのですか?」
「まあまだ君のこと救済する必要なさそうだし」
「…そうですか」
青年は少しの間、俯いたまま何も言いませんでした。
先ほどまでの強い警戒心はどこかへ消え、代わりに何かを噛みしめるような沈黙がそこにありました。
「あなたは…」
青年はゆっくりと顔を上げ、私を見ました。
「あなたは、本当に“救っている”つもりなのですか?」
私は扉に手をかけたまま、少しだけ振り返りました。
「つもり、じゃないよ」
「現に僕は、救ってる。絶望からも、矛盾からもね」
「……」
「君も分かってるでしょ?」
青年の瞳がわずかに揺れました。
「教えを守れば救われる?嘘をつかなければ報われる?そんな単純な話じゃないってことくらい」
私は軽く肩をすくめました。
「君は“正しいこと”をしてたはずなのに、破った。それってつまり、その程度のものってことじゃない?」
「……違います」
青年は即座に否定しました。
「私は……弱かっただけです」
「同じだよ」
食い気味に返します。
「弱いから破る。守れない。信じきれない。それを“人間らしい”って言うなら__」
「そんなものに縋る価値、ある?」
青年は言葉を失いました。
私はもう一度だけ彼を見て、扉を開けました。
「ま、考えときなよ」
軽く手を振り、そのまま外へ出ます。
「おやすみ」
扉が閉まる音だけが、静かな図書室に残りました。
__翌朝。
青年は、いつもより早く目を覚ました。
理由は分からない。
しかし、胸の奥にざわつくような違和感を、青年は感じていた。
外はすでに明るく、鳥の鳴き声が聞こえるはずの時間なのに。
「…静かすぎる」
嫌な予感が、青年の背筋をなぞる。
青年は、急いで外へ出た。
「……っ、」
青年は、言葉を失った。
村が、動いていなかったからだ。
人の気配が、まるでない。
倒れている者。
動かない者。
呼びかけても、誰も応えない。
「そんな…」
青年の足が震える。
昨日まで、確かにそこにあった日常が、跡形もなく崩れていた。
「まさか…」
青年の脳裏に、あの男の姿がよぎる。
そして弾かれるように走り出した。
向かう先は一つ。
__あの男の家。
息を切らしながら辿り着き、扉を勢いよく開け放つ。
「……っ!」
中は、空だった。
生活の痕跡はあるのに、肝心の“本人”だけがいない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「…そんな、」
後ずさりながら、青年は呟いた。
その時、青年はふと、一つのことを思い出した。
「……図書室……」
再び走り出す。
扉を開け、昨夜の場所へ。
本棚に目を向けると__
「……ない……」
そこに刺さっていたはずの斧は、消えていた。
代わりに残っていたのは、わずかな傷跡だけ。
青年はその場に立ち尽くした。
静まり返った空間の中で、昨夜の言葉が蘇る。
『ま、考えときなよ』
「……あなたは……」
震える声で、青年が呟く。
「一体、何を…斧は捨てたはずでは…?」
==========
「…とか、今頃あの青年は言ってるのかな」
私は馬に揺られながら、そう呟きました。
「本当にバカだよねぇ。あの青年は気づかなかったのかな?」
「__神様は、"木こりの斧を持っていなかった"」
「木こりに渡されたのは、金の斧と銀の斧だけ。木こりの斧は返されていなかった。」
「つまり、人間の持つ鉄の斧は"神聖なものではない"」
馬の足元に目を落とし、少し顔を伏せました。
「今頃絶望してくれてるかな。あの青年は。」
「…またいつか、あの子を救済しに、あの村に戻らないと」
「さて、」
__天使の羽を持つ人とやらに…会いに行ってみましょうか
法律とは、お互いが平穏に過ごすための決まりである。
それを守るのは他者のためであり、自身のためではない。
法律を守れば自分が救われるというわけではなく、
また、法律を破れば自身にとって直接的な損というわけではないのだ。
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