エピローグ・夜明けと選択


 朝が、夜を呑み込んだ。

 カウンターの内側に立つ黒木は、大口を上げて欠伸を吐き、両手をついて伸びをする。

 音もなく近づく気配。四ノ宮の鋭い睨みが刺さり、黒木は慌てて背筋を伸ばした。


「おはようございます! 四ノ宮さん」

「おはようございます、黒木。持ち場で気を抜くのは感心しませんよ」

「さーせんっしたぁ……」


 いつにも増して四ノ宮が放つ小言の切れ味が鋭い。黒木は背中を丸めて、小さく溜息をつく。

 ステンドグラスの窓から、色付きの影が差し床を染める。透明な色彩が揺れるのを眺めて、黒木は金眼をそっと細めた。


「名簿、ズレていたので戻しておきましたよ」


 逸らしていた意識に、思わぬ角度から斬り込む刃。黒木は反射で背後を振り返る。

 角を揃えて整然と並ぶファイルの背。

 黒木はそこに触れた感覚を思い出しながら、人差し指の腹を親指で擦った。


「あざーっす……」

「あと、お前が見ようとしていたのは予約名簿ではなく仕出し屋のリストです」

「えっ」


 黒木は再び背後を振り返る。一番新しい物だろうと思って引き出しかけた右端のファイル。

 それはひとつだけ色が違っていて、よく見ると注文リストらしき紙が天の部分から飛び出していた。

 色黒でよかった、と心から思う。顔が発火したように熱くなった。


「まあ、それでお前が本当に、名前を持ち出したんじゃないということが分かったわけですが」

「……疑ってたんですか」


 黒木は唇を結んで、プゥと頬を膨らませる。

 四ノ宮は皺に埋もれた黒目を微かに開き、黒木に視線を据える。


「私も、少し考えを改める必要があると反省したという話です」

「素直に俺のこと見直したって言ってくださいよ」


 四ノ宮は視線を逸らしてしまう。この矜持の塊のようなプロフェッショナルを陥落させるには、一筋縄ではいかないようだ。


「そういえば、四ノ宮さん」

「なんですか」

「四ノ宮さんも、あの人がこっち側に残る可能性が見えてましたよね? 彼女に名前を渡さないようにって言ったの、そういう意味もあったんじゃないですか?」


 ゆっくりと、四ノ宮の視線が戻ってきた。


「手放したにしろ、置いてきたにしろ。彼女が名前を持っていなかったということ自体が、彼女の選択です」


 それに、と。一言前置きを添えて、四ノ宮は言う。


「彼女は迎えましたからね」


 黒木はスンッと鼻を鳴らして背筋を伸ばす。

 四ノ宮の言葉には、黒木の役割を示す意味が含まれている気がして。


――昨夜の誓いは、きっと間違っていない。

――俺が迎えた客は、まだ、境界を越えない選択ができるということ。


 じわじわと湧き上がる喜びに震える黒木を一瞥して、四ノ宮は独り言のようにつぶやいた。


「……元から、それほど期待していないということはないです」


 黒木は四ノ宮の言葉がすぐには理解できず、金眼を見開いて首を傾げる。

 期待していない、ことはない。

 期待している、という理解でいいのだろうか。

 黒木が口を開いて問おうとした瞬間、わずかに空気が揺れた。


「……あっ」

「あ、……おはよう、ごさいます」


 真っ白なブラウスの上に薄黄色のカーディガンを羽織り、下は薄いブルーのデニムを履いた客の女が立っていた。

 軽く巻いた髪は項の辺りで緩くまとめ、足元は昨日と同じ白のラウンドトゥ。

 彼女は黒木と一瞬目を合わせるも、すぐに気まずそうに逸らして頭を下げる。


「……よく寝れましたか?」


 黒木は彼女の怯えたような態度に、恐る恐る声をかけた。

 彼女はゆっくりと顔を上げて、遠慮がちな視線を黒木に向ける。


「ええ……あの、でも……気になることがあって」

「何でしょうか?」

「昨日、わたしの部屋に来ませんでした?」

「……あ」


 黒木はひとつ瞬きしてフリーズする。

 昨夜境界を越えかけたことは、彼女の記憶のどこかには残っているはず。

 けれど感覚は残っていても、実際に「何が起きていたのか」まで把握できていることはほとんどない。

 彼女にとっては夢の中のような出来事で、その中で黒木の姿だけが鮮明だったのだろう。

 黒木は宙に視線をさ迷わせて、さりげなく四ノ宮の姿を探した。

 四ノ宮の姿はどこにもなく、変わりにどこか遠くの方で猫が「にゃあ」と鳴くのが聞こえた。


「あの、猫が」

「……猫?」

「お客様の部屋に入ってしまって。それで、捕まえに……入りました」


 言い訳しても、事実は事実。

 黒木は素直に頭を下げる。

 視界に垂れるくせ毛の前髪の向こうで、フッと軽い息の音が立った。


「じゃあこれは、その猫さんから……ということでしょうか?」


 視界の中に入り込んでくる、くしゃっと撚れた紙片。

 そこに描かれた下手くそな黒猫と「オレンジジュース一杯無料」の文字を見つめて、黒木は思わず目を閉じる。

 不自然なほど長い間を置いてから、黒木はそっと頭を上げた。

 そして、唇の前に人差し指を立てる。

 彼女の唇が、ほんの少しだけ綻んだ。

 黒木は差し出された紙片を掌に包んで、八重歯を覗かせ笑顔を向ける。


「ご一緒にケーキはいかがですか」


 綻びは花開き、緩やかに微笑みの形になった。

 目尻を窄めた彼女は、弾んだ声で言った。


「いちごのタルトをください!」

「かしこまりました」


 黒木は恭しく頭を下げる。顔を上げた一瞬、視線を合わせた彼女は悪戯っぽく唇の前に人差し指を添える。

 苦笑を返して、黒木はショーケースを覗き込む。


 硝子越しに見たステングラスの前で、銀色の猫が尻尾をひとつ振った。

 黒木は気づかないふりをして、ショーケースの扉を開ける。

 艶めくいちごの赤が、朝の光を淡く弾いた。


《END》

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黒木くんは境界を越えさせない 依近 @ichika115

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