第8話「青い炎」
だが、最早思い通りに脱出することはかなわなかった。
梯子まで引き返そうとするのを、途中で妨げるものがあったからだ。
黒い人型の影だった。蛇のちからに引かれ、幽世から迷い出てきたのだろう。
俊敬は、舌打ちして立ち止まると、いったん璃々花の手を離す。充電式ランタンは傍らの棚に置き、ボディーバッグから巾着を取り出した。
空いた手で印を切り、光明真言を早口で唱える。
素早く土砂を撒くと、目の前の黒い影は霧散した。
ところが再度逃走しようとしても、状況が許容してくれない。
亡者の影を一体除霊している間にも、新たな影がまた一体、二体……
と、次々に現れ、周囲を取り巻こうとしつつある。
思わず怯んでいると、俊敬は己の身体が揺らぐのを感じた。
視線を下へ向ければ、足元で亡者が一体うつ伏せに這いつくばっている。それが俊敬の足首を捕まえ、強いちからで引き倒そうとしていた。慌てて逃れようとするがままならない。そうするうちに他の亡者の手が伸びてきて、肩を掴んだ。
ついに俊敬は平衡を失い、転倒してしまった。何とか体勢を立て直そうとするが、尚も身体のあちこちを引っ張られた。
亡者は穢れた接触により、生気を奪って、呪詛しようとしてくる。
藻掻きながら、やや離れた位置の壁際付近を見て、愕然とした。何もない空間が大きく歪み、そこから異形が姿を現わそうとしている。実体化しつつあったのは、常軌を逸して長く、太い、荒縄のような存在だ。緩やかな動作で地を這い、頭部を持ち上げる。
それは恐ろしく巨大な、蛇の影だった。
「――
麗奈は、
「会いたかったの、当然でしょう? 不運な事故なんかで、あなたをずっと幽世に閉じ込めたりさせやしない。きっとまた、お互い一緒にいられるわ……」
黒い大蛇は、亡者と化した麗奈の弟と考えて、間違いなさそうだった。
麗奈は今、トウビョウを自らに憑かせ、蛇の異能を手に入れている。それにより、実弟の霊魂との接触に成功したわけだ。
しかし蛇神に依り憑かれたせいで、同時に彼女の弟――
生前に卓也と呼ばれていたのであろう人物は、いまや禍々しい蛇の悪霊として、ここに漆黒の
――あれがもし、蛇神に近似した霊力を持つ悪霊だとしたら。
俊敬は、纏わり付く亡者の手を必死で払い、辛うじて上体を起こしながら考えた。
――今儀式なしで行使可能な呪術じゃ、到底調伏できない。除霊の術があるとしたら、あまり気が進まないが、ひとつだけ……。
「あれぇ~シュンケーくん、お困りみたいですねぇ~? でへへ」
手詰まりの現状に苦悩していると、またしても璃々花が能天気に声を掛けてきた。
亡者の影に取り囲まれても、地雷系ファッションの幼馴染に
……むしろ璃々花を前にして、
そう、きっと人の身でないからこそ、亡者共にはわかっているのだ。
今ここに自分たちより上位の、畏怖すべき存在が居合わせていることに。
「いつも怪異調伏するシュンケーくんカッコいいですけど苦戦する姿もセクシーで大好きですよ私は! とはいえなんかあそこに出現したのすっごい邪悪そうですもんねっそうそうわかりますわかります私のちからが必要なんでしょう今なら出血大サービスで後日私と大人のチューを連続一時間口の周りがべたべたになるまで舌の出し入れ耐久一本勝負でお引き受けしますよっ」
「くそっ、この際何でもいいからどうにかしろ璃々花! これだけの数の亡者やあの蛇は、俺の呪術だけじゃ手に余る」
背に腹は代えられず、春敬は幼馴染の提案を受け入れた。
返事を聞くなり、璃々花は嬌声を上げて腰をくねらせる。
「たしかに
念押ししてから、
満足そうに溜め息を
顔を上げると、だらしない面差しはすでになかった――
そこには、代わりに不敵な笑みが浮かんでいる。
「じゃあ、とりあえず亡者さんたちは、みんな燃えて消えちゃってください」
言うが早いか、璃々花は「ぱちん」と右手の指を鳴らす。
次の瞬間、地下の空間にいくつもの火柱が燃え上がった!
突如として発生した青い炎は、地下に群れる亡者すべての影を呑み込み、苛烈に焼き尽くそうとする。
俊敬は束縛を逃れ、ようやく立ち上がった。影の中には、尚も掴み掛かろうとしてきたものもある。だから猛る燃焼に巻き込まれ、火が燃え移らないよう、懸命に避け続けた。
亡者はいずれも、蒼炎に包まれ、苦悶の挙動を見せていた。しかしほどなく、身体を折って、次々と土の床へ崩れ落ちていく。
ただし一体だけ、大蛇の姿を
麗奈が卓也と呼ぶ怪異に限っては、青い炎に巨躯を包まれても尚、ただちに駆逐される気配はなかった。とはいえ高熱に耐えかねてか、閉鎖的な地下の内部で、土管のように太い身体をのた打ち回らせている。そこへ巻き込まれた棚や木箱は、無残に破壊され、俊敬のランタンも床の上に転げ落ちた。
さらにその際、破損した棚の一部が木片となって、四方へ飛び散る。鋭い刃と化したそれは、
「痛ぁっ!? ――何してくれちゃっているんですかぁ!」
璃々花は、ちいさく悲鳴を上げる。
着衣の布地が裂けた箇所から、素肌が覗いていた。出血も傷口もない。
だが木片の掠めた部分は、青緑に変色し、常人のそれと異なる形質を
それは冷たく
「大事なお洋服が汚れただけでなく、生地が破けて駄目になっちゃったんですけどっ!」
璃々花は、抗議の声を張り上げると、黒い大蛇へ向き直った。
憤慨の面持ちで、右手を真っ直ぐ前方に掲げ、狙いを定める。
直後に広げた手のひらから、灼熱の球体が発射された!
高速で飛翔した火球は、地下の暗闇を水平方向に引き裂いて、暴れる大蛇に直撃する。縄状の黒い巨躯は、その身を包む青い炎をひと際激しく燃え上がらせた。最期にもう一度だけ、太くて長い身体を
「そ、そんな……嘘、でしょう? たく、や――……」
黒い大蛇の消滅を目の当たりにし、麗奈は床に膝を付いて屈み込んだ。暗い喜びで満ちていた顔には、いまや失意で虚脱の表情が浮かんでいる。現実を受け入れられずに呆然としている様子だった。身の回りを漂っていた薄紫の煙も、いつの間にか掻き消えている。弟の霊魂と結合したトウビョウが焼かれたことで、麗奈の憑き物も落ちたようだ。
俊敬は、四肢の緊張を弛緩させ、安堵の呼気を吐き出す。
傍らへ視線を移せば、璃々花が不平そうな顔で、生地が裂けた服の袖を確認している。肌の鱗は消えてなくなり、白く柔らかな皮膚に戻っていた。
すでに地下のどこにも、亡者の気配は感知できない。怪異は調伏されたのだ。
俊敬にとって不本意ながら、成し遂げるには幼馴染を頼らねばならなかったわけだが……。
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