星を喰む
一
冥界を望む金の月が遥か星の海の彼方へと溶け、銀の月がこうべをもたげる頃。星の海の水面にはあまたなる光の玉が灯りました。水面が風に吹かれ揺れるたび、灯火は寄る辺なく天へと昇り行きます。その儚き光を払ひ落とすかのごとく、幾筋もの光が天より降り注ぎ、星の海の海岸線へと落ち行きます。それが、天繋ぎの星降りでございました。この尋常ならざる星降りを眺むる暇もなく、揺光は件の香屋が何処かへと向かふを認め、その後をそろり、そろりと尾けておりました。
辿り着きたその地は、彼方へと続く星の海の海岸線にある岩壁でございました。妙なることに、香屋は躊躇なく岩壁へ歩を進め、腰をかがめたかと思へばそのまますうと溶けゆきて姿の見へぬやうになりました。驚きながらも岩壁へと近づけば、にはかに壁が陽炎のごとくぐにゃりと歪みて真暗な洞穴が口を開き、先刻まで見へておりました岩壁は霞と掻き消へてしまいました。
揺光はしばし洞穴の前に佇み、退魔衆の天部らが来てくれぬものかと待ち侘びましたが、周囲には物音一ついたしませぬ。あまりもたつけば、香屋に逃げられてしまうやもしれませぬ。揺光は意を決すると、腰を折り洞穴の中へと足を踏み入れました。
狭き洞穴の路は、じとりと湿り気があり、薄暗くも足元にぽつり、ぽつりと灯されし幽かなる蝋燭の火が揺光の足を奥へと誘ふております。星の海に近き場であるせいか、洞穴の内は潮の匂ひの立ち満ちて、それは裏香屋にて感ぜられた匂ひと同じでございました。
いよいよ路の狭くなりしその先に、開けし空洞が認められました。そこからは広がる天が見渡せ、冷ややかなる風が流れ込みておりました。天の口からはあまたなる星星がこの場を目掛けて落つるやうに見へ、開かれた場であるにも関はらず、この場には燃え尽きし煤のやうな臭ひと、鼻腔に張り付きたる甘き香との入り混ぢり、たいそう不快なる異臭で満ちておりました。広間の真中には四角の台座が据へられており、かの香屋はその台座に腰掛け、何かを無心に喰んでおりました。
そのとき、天より一つの星が真直に落ち、香屋が素早く腕を伸ばしてそれを掠め取りました。反動で香屋のかむりし外套がずり落ち、周囲を照らすか細き蝋燭の灯がにはかにわななきて、香屋の面を浮かび上がらせます。煤のごとき黒の貌、ぎらぎらと光る金色の目。腰まで伸びた金色の巻毛がはらはらとこぼれ、いびつなるとぐろを巻きしツノが耳の後ろより生ぢておりました。
その出で立ちよりも目を引かるるは、血を思はする朱でぬらりと汚れたその口でございました。その朱は、星の中身の溢れ出でしものでしたが、その姿はまさに世に聞く人喰ひの悪鬼、魔衆そのものでございました。
二
血が…… 血が、溢れて…… いや、血ではない。あれは星の中身だ。それが溢れて、香屋の口から滴り落ちているのだ。香屋が星を噛み潰すたび、野葡萄の如くその内に湛えた汁が弾け散る。星は魂の源と聞いていたが、それはまさしく何か命あるものを噛み潰しているように見えた。星の食わるるぶちぶちという音と、香屋の口から溢るる朱き滴が思考を満たす。気づけば私は茫然と立ち尽くしていた。こんなところをぼうと見ている場合ではない。はやく伊舎那天様たちに知らせねばならぬ。踵を返した瞬間、足元の蝋燭に爪先が当たり、私は思わず声を漏らした。香屋の目がぎょろりと動き、私を捉えた。
「よくここに入れたな」
口元より溢れ落つる星の滴をぬぐいもせず、香屋はふらりと立ち上がり、体をこちらへ向けた。
「お前も星を食べに来たのか」
香屋は卑しき笑みを浮かべ、私に近づきた。
「羅睺さん、ですね。やはりあなたが星を降ろしていたんだ」
自らの名を口にされたせいか、羅睺は不快そうに眉根を寄せた。
「誰に名を聞いた? まぁ誰でもいいが、ヒトを尾けてはコソコソ嗅ぎ回って告げ口するトカゲみてえな奴に名を呼ばれたくはねえな」
「余計な挑発は無用ですよ。僕は、あなたが星降ろしだと云うているのです」
私が云うと羅睺はげらげらと下品に喉を鳴らした。口に溢れた星の滴がごぽごぽと音を立てた。
「おいおい、まるで正義の味方にでもなったみてえな物云いだな。まぁこんな場所まで追ってきたのはお前だけだからな、ちったぁ褒めてやっても良いな。ご苦労さん」
羅睺は片手を高々と掲げひらひらと振りてみせた。それは表向きには降参を示しているのやもしれぬが、どちらかといえば私を馬鹿にしている所作に見えた。
「お前の云うことは間違っちゃいねえよ。お前の云う通り、確かに星降ろしはこの俺だ。良かったな、手柄をあげられてよ。どうせお前、フヌケの退魔衆どもに云われて来たんだろ? お笑い草だよなぁ、冥土の門番ともあろうあいつらが、俺みてえな夜叉一匹捕まえられねえなんてよ」
「違います、それは……」
「でもな」
私が口を開こうとすると、羅睺が鋭くそれを障りた。
「勘違いしないでくれよ。俺は『星を降ろしている』だけだ。星の座をずらしたのは俺じゃねえ。天部でもねえ限り、星の座を乱すなんてできねえよ」
「乱すことができない? しかしあなたは現に今、たくさんの星を降ろしているではないですか」
私が問うと、羅睺は肩をすくめ、わずかに私から目を逸らした。
「星の座をずらすのと、星を降ろすのは訳が違えよ。俺だって、最初は死にかけのカスみてえな星を降ろすのがせいぜいだった。けどな、ある時から星の座がずれたんだ。それで星を降ろし易くなったんだ。昔は落とせなかった若い星だって、簡単に落とせるようになった。おかげさまで、俺もようやく天部に近付いてきたんだろうな。今じゃ蓮の香だって何ともねえんだ」
そう云うと、羅睺は口にふふみていた星の殻を吐き捨てた。
「星の香は星を喰うついでに作ったもんだ。殻は喰えねえからな。殻をすり潰して香を作ったらこれが当たってな。気まぐれで始めたモンだがいい商売させてもらってるよ。俺の見た目じゃあ金の刻は外もまともに歩けやしねえ。除けもんは除けもんらしく、隠れて生きていくしかねえんだよ」
羅睺は自嘲気味に口をひん曲げて笑うた。全てを諦めしようなその云い様に、どうしてか私はたまらなく怒りを感じた。それは、伊舎那天様の頑ななる思いを知りてしもうたからであろうか。羅刹天様の悔しげなる顔を見てしもうたからであろうか……
いや違う。確かに諸天部尊の思いを汲みて私はここにいる。されど、されども、無礼を承知で申すならば、この地にありて日の浅き私が心を寄するほどではない。この夜叉を止めねばならぬ。この気持ちは私の内より出しものだ。件の香屋にて羅睺が私の腕を掴みし折に目裏を掠めたあの光景。遠き昔、確かにこの腕を掴まれた感触。如何にしてこのような記憶があるか、定かなことは何もない。だが、私はこいつを止めねばならぬ。それは縁が手繰り寄せた結果だ。なぜか強くそう思えた。私はこぶしを握りしめ、意を決し彼に歩み寄りた。
「あなたがその姿を苦にしているという話は、羅刹天様から聞きました。余所者である僕がみだりに口出しすることは憚られますが、それでも姿形で誰かを排斥するこの地の風習には嫌悪感を覚えています。しかし、その苦しみが星を落とし、この地の秩序を乱してよい理由にはなり得ません。
あなたは隠れて生きていくしかないと仰いますが、あなたの生きる道はそれだけではないはずです。伊舎那天様も羅刹天様も、あなたともう一度話がしたいと…… あなたと共に、もう一度歩んでいきたいと、そう願うております」
私が伊舎那天様と羅刹天様の名を挙げると、これまでぎらぎらとたぎりていた羅睺の目が突然その輝きを弱めた。
「イシャ、セツ……」
それは、懐かしき友の名を呼ぶ声か、差し伸べられし手を求む声か。羅睺はこちらへ向き直り、私の目を真直に見つめた。
「なあ、お前も信じてくれねえのか」
その眼差しからは、先刻の狂うた鬼の色が消えていた。その姿はただの惨めな夜叉に見えた。
「俺は星の乱れを利用はしたさ。けど最初に乱したのは俺じゃねえ。それだけは信じてくれねえか」
この夜叉が星を降ろしていた事実に変わりはない。その上に星天の装身具などというものまで持ち出して、私を何かの罠に嵌めようとしていた。彼の言葉はそうやすやすと信用して良いものではないだろう。しかし……
「何もかもを、俺のせいにしねえでほしいんだよ。悪いことが起こればいつもそうだ。たまたまそこにいただけで、全部俺が悪いことになる。『ぼうぼうの使いがいるせいだ』『こいつがぼうぼうだ』。そうやって、追い立てられる。病気になった奴のそばに寄れば、弱った体を這わせて逃げられる。外を歩けば、向かいを歩いていた奴がぎょっとした顔をして道を変える。こっちが何もしなけりゃ、武器を構えて、石を投げて追い立てられる。誰かが消えても、海が荒れても、星が降っても、そこに俺がいただけで、全部俺のせいにされるんだ。
俺だって好んでこの姿をしているわけじゃねえのによ。どうしてだ? 皆そんなに俺が憎いのか?怖いのか? 俺は、ここで生まれたのに、ここにいちゃいけねえのか……」
一息にそう云うと、羅睺はふいに我に返りたのか、再びばつの悪そうに私から目を逸らしうなだれた。長く垂れた金の巻毛がその面を覆いて表情が読めぬ。その口が紡ぎし言葉の全てが真であるかはわからぬ。されど、伊舎那天様は仰られていた。夜叉程度に星の座を動かすほどの力はないと。ともすれば、彼の云う通り星の乱れし根源は別にあるのやもしれぬ。それに、羅刹天様は仰られていた。今度こそは、羅睺の云うことを信じてやりたいと。たとえそれが、虚言だとしても。
なれば、私が下すべき判断は……
「羅睺さん、あなたが星を降ろしていた事実に変わりはありません。ですが、星を乱した元凶ではないという今のあなたの話を、僕は信じましょう」
私がそう云うと、羅睺はぴくりと肩を震わせた。
「以前あなたは、僕に装身具の話をもちかけましたね。あれはきっと、何かの罠だった。そう思っていますよ。あなたは僕を騙そうとした。だから僕は、あなたの話の全てを信じることはできません。
それでもあの時、あなたは僕に、あなたしか知らぬ話を誤魔化すことなく教えてくれました。天部の方々が僕に話さなかったこと…… 星天様の装身具の話、あなたから聞けずにいれば、僕は今でも一つの手がかりもなく冥界を迷うていたことでしょう。そのことには、感謝しています。
あなたがいたずらに星を降ろすことさえやめてくださるのなら、僕はこれ以上あなたを責めません。ここで見たことも、誰にも云いません。だから羅睺さん、もうこんなことはやめましょうよ。こんなことをしなくとも生きていける道が、あなたにはあるはずです」
私の言葉は届いたのであろうか。変わらず羅睺はこうべを垂れ、微かに肩をわななかせていた。朱き滴に染まりし指先は、何かを探るようにせわしなく擦り合わされている。私は再度彼の方へ歩み寄ろうとした。
その瞬間、周囲の影がぼうと波立ちた。羅睺の口角がぐうとひん曲がり、唇の端から朱の雫が落ちる。笑うている? 私は踏み出しかけた足を止めた。
「お前みたいな単純な奴が、俺は好きだよ」
羅睺が面を上げる。金色の二つの光が私を射抜く。
「消しやすいからな!」
羅睺が素早く動き、閃く刃が私の喉元に振り下ろされようとしていた。
そのとき天より一刃の閃光が落ち、羅睺の手をかすめた。
「そこまでだ、羅睺」
「あんちゃん、よくやったぜ! 大丈夫か!」
「羅刹天様、伊舎那天様……」
退魔衆のふたりの天が、見上げし天の口より降り立たれ、私と羅睺の間を障りた。羅睺は手を撃たれし弾みで地に伏し、それを羅刹天様が組み伏しておられた。その傍には、手のひらほどの石刃が落ちていた。先刻、私の喉を掻こうとしていたものはあの刃であろう。そしてその刃を散らせしは、天より放たれし伊舎那天様の戟であろう。
「羅睺、お前とこんな風には会いたくなかった」
伊舎那天様が、羅睺を見下ろし口を開かれた。それはこれまでに聞くことのあらぬ、寂しく、悲しげなお声であられた。羅睺は何も云わず、誰の眼も見ようとせず、ただ唇を噛み締めていた。
「なぁ、羅睺。お前はいつも俺たちのこと騙したりして遊んでいたけどよ、誰かを不幸にするようなことはしちゃいけねえよ」
羅刹天様が組み伏せし体勢を崩さぬまま、羅睺に語りかけられた。
「……いけねえけど、俺たちはお前を罰するためにここへ来たんじゃねえ。お前を迎えにきたんだ。お前が星降ろしだろうと裏香屋だろうとさ、俺たちにはそんなこと関係ねえんだ。こんなことからはすっぱり足を洗ってよ、また一緒にさ…… 今度は冥界で、一緒に暮らそうぜ」
羅刹天様の常々に変わらぬ懐こき声色の中にも、どこか寂しげな色が滲んでおられた。
「……忌まれる者の気持ちなど、お前らには分からねえだろ」
羅睺がとうとう口を開いた。その声は怒りか恐れかわからぬが、微かにわななき掠れていた。
「ああ、分からないよ。だから俺は皆同様に扱う」
伊舎那天様は羅睺から目を逸らさず、我慢強くその目の光を見つめておられた。
「お前が蓮の匂香を苦としなくなったのは、ただ星の強い香に誤魔化されていただけだ。星を落とせるようになったのは、もとより星の座が乱れていたからだ。 ……ただ、それだけなんだ。
そんなこと、お前だって本当は気づいていたのだろう? どんなに星を食らおうと、お前の本質は何も変わらない。俺もセツも、お前と同じだ。俺たちは天部になったが、今でも蓮の香は苦手だよ。俺たちが夜叉と羅刹であることに変わりはないんだ。だからお前が何をしようと、誰に何を云われようと、ただの夜叉でしかないことだって、ずっと変わらないんだ」
羅睺が面を上げた。噛み締めた唇は解けていた。羅刹天様を見て、伊舎那天様を見た。伊舎那天様はその金色の瞳を正面から受け止めると、わずかに手を動かし羅刹天様を下がらせた。羅刹天様が離れても、羅睺は動かない。伊舎那天様は地に伏したままの羅睺に近づき、その場に跪かれた。
「お前は夜叉だ。夜叉は皆俺の配下だ。がれきの城に来い。そこでまた共に闘おう」
伊舎那天様の手が、羅睺の眼前に差し出された。
羅睺は手を伸ばし、その手を取りた。
その金の瞳はきらりと瞬き、星のように見えた。
天の口を見上げると、彼方に明星のような黄金の蝶がひらひらと舞うていた。
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