第2話 毒を抜く場所🩸毒に染まる場所


​ 一ヶ月後。寧々は再び、あの献血ルームの重い扉を押した。

 失恋の傷が癒えたわけではない。

けれど、自分の体から流れ出す「赤」が世界のどこかで誰かの鼓動になるのだと思うと、不思議と足取りは軽かった。


​「あ、また会いましたね」


​ 休憩スペースの窓際。セルフサービスのカフェオレを手に、北郷英雄が座っていた。


「……北郷さん」


「覚えていてくれたんですね。今日は顔色が少しマシだ」


​ 再会した二人は、示し合わせたわけでもないのに、自然と隣り合わせの椅子に腰を下ろした。話題は自然と、自分たちを捨てた「あの二人」のことになった。


​「僕を捨てた幼馴染の佑月……彼女、最近婚約したらしいんです。相手は自分の父親の会社の部下だとかで」


 英雄が苦笑混じりに漏らしたその名を聞いて、寧々は息を呑んだ。


「……麦田、佑月さん? 私の元婚約者が選んだ相手も、その名前です」


​ 沈黙が流れた。あまりにも狭い世間に呆れ、やがて二人は同時に、力なく笑い出した。


「最悪ですね。僕たちの心を使い捨てにした二人が、手を取り合っているなんて」


「本当に……でも、北郷さん。不思議と、前ほど腹が立たないんです。ここで血を分けていると、憎しみまで外に流れ出していくみたいで」


​ 英雄は頷き、寧々の目を見つめた。


「悲しい経験をしたからこそ、僕たちは『奪う側』じゃなく『与える側』になれた。

それはきっと、あの二人には一生理解できない贅沢ですよ」



​ その頃……都内の一等地に建つ高級レストランの個室で、米倉竜二と麦田佑月は向かい合っていた。

 テーブルには、寧々の一ヶ月の給料を軽く超えるヴィンテージワインが並んでいる。


​「竜二さん、次の役員会議の資料、お父様に褒められるように手直ししておいたわよ」


「助かるよ、佑月。君は本当に理想的なパートナーだ」


​ 竜二は佑月の手を握るが、その目は彼女の背後にある「専務の椅子」しか見ていない。佑月もまた、愛おしげに微笑みながら、心の中では(パパの言いなりになる、使い勝手のいい盾が手に入ったわ)と計算を巡らせていた。


​「ねえ竜二さん。 浮気なんてしたら承知しないわよ? あなたをここまで引き上げたのは私なんだから」


「ハハハ、怖いな。 君を裏切るメリットなんて、どこにもないさ」


​ 二人の会話には、体温がない。


 そこにあるのは、互いの「利用価値」という名の利害関係だけだ。




​ 献血ルームの静かな午後。


 英雄が、ふとした拍子に寧々の指先に触れた。


「次は、あそこの美味しいケーキ屋にでも行きませんか。血を抜いた後は、甘いものが必要ですし」


「……はい、是非ぜひ


​ 触れ合った指先から伝わる熱は、高級ワインよりもずっと、寧々の心を温めていた。


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