献血ルームで会いましょう ~ 巡る命と枯れる愛 ~

月影 流詩亜

第1話 心の出血🩸止まらない涙


​ 三月の風は、まだ刺すように冷たい。


 近衛寧々このえ ねねは、新宿の雑踏を幽霊のように彷徨っていた。視界がにじんで、信号の赤が、まるで誰かの傷口のように不吉に揺れている。


「専務の娘さんと、婚約することになった」


​ ファミレスの安っぽいコーヒーの香りと共に突きつけられたのは、高校時代から七年寄り添った米倉竜二よねくら りゅうじの、あまりにも事務的な別れの言葉だった。


 愛よりも、血筋。献身よりも、出世。


 彼にとって、寧々と積み上げた時間は、専務の娘・麦田佑月むぎた ゆづきが持つ「輝かしい未来」というカード一枚に及ばなかったのだ。


​(私の中に流れているこの血さえ、彼にとっては無価値なものだったんだ)


​ 胸の奥が、物理的に抉られたように痛む。

止まらない涙を拭う気力もなく、吸い寄せられるように階段を上がった。

そこにあったのは、派手な看板ではなく、静謐な「献血ルーム」の文字だった。


​ かつて高校生の頃、事故で大量に出血した寧々を救ったのは、見知らぬ誰かが分けてくれた400mlの血だった。


「……全部、抜いてしまいたい」


 竜二を愛していた自分を、彼に尽くした過去を、体の中からすべて放り出して、空っぽになりたかった。

​ 受付を済ませ、促されるままにベッドに横たわる。

 隣のベッドには、先客がいた。同年代だろうか、少しがっしりした体格の男性・北郷英雄ほんごう ひでおが、淡々と天井を見つめていた。


​ 消毒の匂い。チクリとした痛みと共に、寧々の腕から、鮮やかな赤がチューブを伝っていく。

それを見つめた瞬間、こらえていた感情が、言葉にならない嗚咽となって漏れた。


​「……大丈夫ですよ。ここは、悪いものを出す場所じゃなくて、誰かの『生きる理由』を分ける場所ですから」


​ 低く、落ち着いた声がした。隣の英雄だ。彼は寧々の方を見ず、ただ静かに言った。


「僕も、ひどく惨めな振られ方をして、ここに逃げ込んだ口です。でも、針を刺されている間だけは、自分が『誰かのために必要な人間』に戻れる気がして」


​ 寧々は涙を拭い、掠れた声で返した。


「……誰かのために、なんて。私は、ただ自分の中のドロドロしたものを捨てたくて」


​「いいんじゃないですか、きっかけなんて。

悲しい出来事を経験した人は、その分、他人の痛みに敏感になれる。あなたの流しているその血は、どこかで絶望している誰かの、明日を生きる勇気になる。……それって、すごく優しいことだと思いませんか」


​ 英雄がこちらを向き、少しだけ口角を上げた。その瞳には、彼自身が通り抜けてきたであろう、深い喪失の影と、それを乗り越えた先にある静かな強さが宿っていた。


​ バッグの中で、竜二から届いた「今までありがとう」という無機質なメッセージが通知を刻んでいる。

 けれど、寧々はもうそれを見なかった。

 今、自分の腕から流れ出す赤は、あんな男に捧げるためのものではない。


​「……そうですね。せめて、この血だけは、私より幸せになる人のために使ってほしい」


​ 初めて、呼吸が少しだけ楽になった。


 窓の外、新宿の空は相変わらず灰色だったが、寧々の胸の鼓動だけは、確かな熱を持って刻まれていた。



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