第3話 バトンを渡す手🩸奪い合う手
三年が過ぎた。
献血ルームの窓から見える新宿のビル群は相変わらずだが、寧々の隣には、もう「偶然」ではなく「必然」として北郷英雄が座っている。
「寧々さん、今日の数値、すごくいいって看護師さんに褒められてたね」
英雄が、自分の分のオレンジジュースのストローを外しながら、柔らかく微笑む。
「ええ。英雄さんに合わせて毎朝バランスの良い食事を作るようになったおかげかな」
二人の交際は、穏やかそのものだった。
デートの締めくくりに献血へ行く。
それは、かつて自分たちを救ってくれた「名もなき善意」への恩返しであり、自分たちが今、健康で幸せであることの確認作業でもあった。
「自分を大切にすることが、巡り巡って誰かを救うことになる。……昔の私には、そんな余裕なんて一ミリもなかったのに」
「僕もですよ。佑月の顔色を伺って、自分の心を削ることばかり考えていた。……今は、君を守るために自分を労わることが、こんなに心地いい」
二人が繋いでいる手は、温かかった。
そこには、奪い合うための力みなど、どこにもない。
◇
一方、都心のタワーマンション。
広々としたリビングには、米倉竜二と佑月の冷え切った沈黙が流れていた。
竜二は連日の激務と、義父である専務からの圧迫に、顔色を土気色に変えている。
「ねえ竜二、今月のカードの請求額、見た? 旅行のキャンセル料くらい、文句言わずに払っておいてよ」
佑月は鏡の前で高価な美容液を肌に叩き込みながら、振り返りもせずに言い放つ。
「……僕がどれだけ必死に働いているか、分かってるのか。君の父親のご機嫌取りで、僕はもう限界なんだ」
「あら、それを承知で私を選んだんでしょ?
嫌ならいつでも離婚していいのよ。
パパの会社での居場所がなくなるだけだけど」
竜二の拳が震える。
かつて寧々が自分に向けてくれた、無償の献身。あの温かなスープ、何も言わずに背中をさすってくれた手のひら。
それを自ら切り捨てて手に入れたのは、相手を「搾取の対象」としか見ない、氷のような女だった。
「……君には、血も涙もないのか」
「失礼ね。私は私の人生を最高にするために、あなたを『買って』あげたのよ」
佑月のスマホが、テーブルの上で短く震えた。
竜二は、彼女が素早く画面を隠すのを見逃さなかった。
(……また、あの男か?)
疑念という毒が、竜二の血管をじわじわと侵食していく。
その夜、竜二は過労による貧血で倒れた。
病院のベッドで目覚めた彼を待っていたのは、心配そうな妻の顔ではなく、「世間体が悪いから早く起きてよ」という佑月の冷ややかなLINEだった。
彼らが住む豪華な部屋には、誰かを想う「温かな血」など、一滴も流れていなかった。
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