第6話:感情の非効率な最短手順

翌朝。



九重枢(ここのえくるる)は、いつものように自分の席で、一日の最短スケジュールを再演算していた。



(……大河原の失脚により、今日の授業効率は二二パーセント向上する。

 昼休みは三分の読書時間を追加し、放課後は……)



「おはよう、枢くん!」



背後から、教室の空気を甘く塗り替える声が響いた。

白凪繭(まゆ)だ。



彼女は「学園のアイドル」としての完璧な仮面を被りつつ、その内側に隠しきれない「捕食者の色」を滲ませて枢の前に立った。



その手には、不自然なほど重厚な、三段重ねの弁当箱。



「……白凪さん。その、過剰な質量の物体は?」



「お弁当。枢くん、いつも学食の決まったメニューでしょ?

 栄養バランスが『非効率』だと思って、私が作ってきたの。……愛、重めに詰めちゃった」



教室中の視線が、物理的な衝撃を伴って枢の背中に突き刺さる。

クラスメイトたちの「殺意」に近い嫉妬のエネルギー。

枢の脳はそれを即座に数値化するが、目の前の事象に対する解決策だけが出力されない。



(……演算エラー。彼女が僕を『下の名前』で呼ぶ確率、昨日までは〇・〇一パーセント以下だったはずだ。

 さらにこの弁当、推定カロリー二五〇〇。僕の一日の消費量を大幅に超過している。……これは嫌がらせか?)



「はい、あーん」



「……は?」



繭は箸を取り出すと、黄金色に輝く卵焼きを枢の唇に押し当てた。

教室全体が、絶望に満ちた静寂に包まれる。



「さあ、早く。みんな見てるよ? 食べないと、ここでもっと『非効率なこと』しちゃうかも。

 例えば……そう、耳元で名前を呼び続けるとか」



繭の瞳は笑っているが、その奥には「私の提供する正解以外は認めない」という狂気的な独占欲が、静かな炎のように揺らめいている。



(……待て。心拍数が一〇八に上昇。末梢血管が拡張。

 この卵焼きに含まれる成分を分析して、拒絶する正当な理由を……。

 いや、彼女の指先が僕の唇に触れている。この物理的接触による脳内物質の分泌は、僕の演算回路を――)



「……っ。……わかった、食べる。だから、その距離感を修正しろ」



枢は、顔に集まる熱を隠しきれないまま、最短の手順で卵焼きを口に含んだ。

絶妙な甘さと、微かな出汁の香り。



「どう? 枢くんの脳を活性化させるために、ブドウ糖とテアニンの配合を私なりに最適化したんだけど」



「……悪くない。……いや、今まで食べたどの有機物よりも、正解に近い」



枢が、初めて演算結果を待たずに「敗北」を認める言葉を漏らした。

それを見た繭は、勝利を確信した魔女のような、美しくも恐ろしい微笑みを浮かべる。



「よかった。明日からはもっと『濃いの』作ってくるね。

 枢くんの体も、思考も、全部私の作ったもので満たしてあげる……。

 一ミリの隙間も、他の誰かに触れさせないように」



(……致命的な計算ミスだ。彼女を『共犯者』として隣に置いた結果、僕の平穏なルーチンが、彼女という名の巨大なバグに根底からハックされ始めている)



枢は眼鏡を押し上げ、真っ赤になった耳を隠すように俯いた。

世界をパズルとして解く天才は、一人の少女が作った卵焼きの「幸福な毒」を前に、生まれて初めて、最短の手順を見失っていた。

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